03 そうなると信じて
本当に厳しいんです。
どんな間違いが蜂窩を滅ぼすかわからない。
時には子供の夢を壊すことがあっても、それはヴァーミンから生き残るためにしかたのないことなんです。
――サルモン迷宮、とある蜂窩の住人の言葉
ビィの肉体は生来頑健で、再生能力が高く、長寿である。
平均寿命はおよそ180エクセルターン。中には300エクセルターンを超えて生きる個体もあるという。
同じ迷宮内に暮らす迷宮生物などと比べてもほとんどの場合はビィの方が長生きだ。天敵であるヴァーミンもそこまで長寿ではなく、代わりに個体数が多い傾向にある。
ビィは長く生きる必要がある――と誰かが言った。
迷宮は広い。広い迷宮を探索するには短い命では足りないのだ。
*
いつからあるのか、誰が作ったのかさっぱりわからないチューブ状の道が長々と続いている。
天井はアーチ型の強化プラスキン製で、足元はくり抜かれた半円型。底には恐ろしく長い年月をかけた堆積物が溜まっている。チューブの直径は五階建ての建築物に匹敵するだろうか。
タマリン蜂窩から離れること3ターン、ゼナは大荷物を背負ってその巨大チューブを歩き続けていた。
数時間進んでは荷物をおろし、わずかな休憩を挟んで出発。その繰り返しでゼナは疲労困憊し、顔色が青黒くなっている。
こんな時に思うのは門術のことだ。
内門を開いて身体能力を強化できれば、少なくとも荷物の重さぐらいは感じずに済んだだろう。それが無理な注文だとわかっていてもそのことが頭の片隅でわだかまっていた。
ゼナが目指しているのはスイレン蜂窩跡地と呼ばれている場所だ。
ゼナ少年の生まれるずっと昔、どころか祖父のコン=トウでさえ伝聞でしか聞いたことのない時代に滅びてしまった廃墟である。
サルモン迷宮で生き抜くのは楽ではない。不定期に発生するイナゴヴァーミンの大量発生がその大きな原因だが、それ以外にも迷宮生物の生態もビィには頭痛の種だ。
ヴァーミンが襲うのはビィの集落だけではない。その貪欲さは迷宮生物にも向けられる。大発生が起こるたび、迷宮生物が群れごと餌になるということもしばしばだ。そうした環境の中で生き残るため、迷宮生物の一部はヴァーミンに負けないよう適応していった。
代表例が”鬼人猿”という巨大な体躯をもつ猿型の生物で、装甲のような毛皮ととんでもない膂力でヴァーミンの群れを反対にむしり殺し食料にしてしまう。ビィにとってはヴァーミンに対するカウンターとなりうる存在だが、問題はその猿がビィをも餌だと認識していることだ。
ゼナが進むチューブ道は、そうした恐るべき脅威から身を守りつつ目的地にたどり着くための苦肉の策で、サルモン迷宮の地を網目のようにつないでいる。
先人に感謝せいよ、と出発前に祖父のコン=トウに言われていたが、いまだヴァーミンも鬼人猿も姿を見せず、ゼナはただ肩に食い込む荷物の重さと、堆積物でできた地面の思わぬ脆さに苦戦するばかりだった。
それでも。
それでもたどり着かなくてはならない。
スイレン蜂窩跡地。
そこにいると噂される、ひとりの男に会うために……。
*
ムクロアイアイという名で知られる悪夢のような姿をした迷宮生物は、リスザルのように小さくすばしっこい生き物だが、その指に特徴がある。針金のように細長い指、その先の爪には神経毒があり、犠牲者を麻痺させては脳髄をえぐりだして食ってしまうのだ。
チューブ道に住み着いていたそれに襲われたゼナは、死ぬ思いをして銃で応戦しなんとか撃退した。
門術が使えないことは銃撃戦にも影響がある。
まず霊光が練れないからパルスボルトを形成することができず、実弾を使う銃しか扱えない。それに視力や敏捷性の強化が行えないせいで、正確な狙いをつけつつ敵の攻撃をかわす――といった動きは難しくなる。つまりは”弱い”と言わざるをえないのだ。
それでも日々の訓練がゼナを生き残らせた。
門術が使えたなら苦戦するほどの相手ではなかったはずだがそれをいま言ったところでどうにもならない。
今はただ、祖父コン=トウの言葉に従ってスイレン蜂窩跡地に向かうのみだ。
スイレンに閂術について知悉した”仙人”が住み着いているという情報を信じて。
*
――蜂窩からここまで離れるのは初めてだ。
ゼナはそんなことを思い、曇った強化透明プラスキン製の分厚い屋根からはるか高みの天井に並ぶ光導板を見上げた。今は夜時間に入りかけで、ぽつぽつと飛び石に明かりが灯っているにすぎない。
ひとりでもなんとかなるものだ。ゼナは自嘲気味にひとりごちた。
門術、とにかく門術、門術さえ使えれば自分は辛い境遇から抜け出せる。ゼナの心をずっと占めていた言葉だ。
しかし現実はどうだろう。
チューブ道を通り、危険な迷宮生物に襲われても何とか生き延びている。
門術がなくとも生きていく手段はあるのだ。
自分を苦しめているのは全て自分自身で、ただひとつ、『自分には門術が使えない』という言葉を受け入れさえすれば呪縛から解き放たれるのではないか。
おそらくそれは正解だ。
ゼナは本格的な夜時間になる前に大荷物を広げ、警戒用ミニタレットを四隅に置いたテントを立てた。黒根コーヒーをすすり、携帯食料をかじると、吸えもしないオガクズタバコに火をつけて、案の定咳き込むだけ咳き込んでもみ消した。格好だけ成体の真似ごとなどするものではない。
*
テントの中で身体を横たえたゼナは、骨組みの中心に吊るされた不死ホタルの放つ青白い光を見上げて自問した。
門術を諦める生き方は本当にできないのか?
今さら後戻りができなくなって、意固地になって、歩むべき別の道から目を背けているだけではないのか?
それらは幾度となくゼナの心に葛藤を産んだ問だった。
答えはどうしても出せない。
だが、あと数エムターンも過ぎれば成体式だ。これからの生き方をそこで決めなければならない。いつヴァーミンの大群が襲ってくるとも知れないサルモン迷宮の暮らしにおいて、何も決めず遊ぶことが許される余裕はないのだ。
――これが最後の分かれ道なのかな。
ゼナに取ることのできる選択肢は少ない。もし本当にコン=トウのいう”仙人”がスイレン蜂窩跡に居なければ、もはや門術をまともに使える可能性はなくなるだろう。いや。その”仙人”が門術を使えるようにしてくれるという保証さえ無いのだ。
思わず苦い笑いが出た。
そんな薄っぺらいものにすがって自分はいったい何をしているのだろう?
――オレには門術は使えないんだ、その現実から逃げ出したいだけじゃないのか?
幾度、その言葉がゼナの心を苦しめただろう。同世代のビィの中で、自分が一番修練を積み鍛え上げた自負はある。門術を一切使わない完全な生身同士の戦いなら誰にも負けない。おそらく腕利きの成体を相手にしてもだ。
虚しさが広がった。これ以上はもう考えないようにしよう。ゼナはそう決めて、疲れに身を任せて眠りに落ちた。
*
翌朝。
食事をとり、テントを収納して、ゼナは再びチューブ道を進み始めた。
はるか高い迷宮の天井で光導板が昼時間の明るさで光り、重い荷物を背負ったゼナはすぐに汗ばんだ。
不思議なものだ。誰が何のためにあの光る六角形の板を天井にぶら下げたのだろう。迷宮そのものと同じくらい古い、あるいは迷宮ができた時にはすでにそこにあったとも言われている。真相は、長年の間ビィの探索者が迷宮を旅してもいまだ判明していない。
――探索者、か。
一歩一歩チューブ道の堆積物に足跡を刻みつつ、ゼナの意識は空に遊びはじめた。
たとえ蜂窩の戦闘要員になれなくとも、蜂窩の外に出て迷宮探索者になるというのもひとつの生き方だろう。ずっと一生悔やみながらタマリン蜂窩にしがみつくのは不健康だ。探索者なら……。
だめだ。探索者にも戦う力は必要だ。危険なヴァーミンや迷宮生物と遭遇する可能性を考えれば、蜂窩を離れる方が危険だろう。
でも、探索者はひとりで全部をこなすわけではない。パーティを組めば、全員が前衛としての能力を求められるわけではないだろう。信頼できる仲間を見つけ、戦闘以外に力を発揮すれば?
ゼナの頭から、少しだけ悩みの雲が引いた。
もし目論見が外れたら蜂窩に帰り、母の世話をしながら探索者の道を探ろう。
ひとまずそう決めて、ゼナは生来の明るい顔を前へ向けた。
瞬間的に――。
瞬間的に背中から汗が吹き出した。
顔を上げた目の前には、緑ががった肌をした人間サイズのバッタがいた。
口の周りをどす黒くさせ、音を立てて何かを食んでいる。足元に転がるのは腹を食い破られたオオカミザルの死骸だ。
複眼の代わりにせり出したこぶし大の眼球には瞳孔も虹彩も白目もあり、ビィと同じ知性ある生き物であることを無言のうちに語っていた。
ヴァーミン。
ビィと対をなすかのごとき天敵が、ゼナの目の前にたたずんでいた。




