03 ホワイトブレス
敬意と畏れの心を払う。
常にそのようにし、隣に寄り添うべし。
――”嵐の冠”ロングウィンターの言葉
ゲオルギィとBIG=ジョウ、そしてトレーラーを運転するカブは、ミドリカワが比較的長くとどまっていたであろうポイントを目指して進んでいた。
細く険しい氷の道をトレーラーで移動するのは細心の注意を必要とする。おまけに車体の大きさからトレーラーが入れない枝道を通らなければそのポイントまで辿りつけないらしく、ゲオルギィとBIG=ジョウはカブを残して徒歩で向かうことを決めた。
「このスキンスーツ、寒くないのはいいがどうも感覚がおかしくなるな」とBIG=ジョウ。
「ほぼ完全な断熱効果を持っているゆえ、皮膚感覚にズレが生じているのでしょう」
「そりゃあまあいいんだが」
「なんです?」
「見ろ。防寒処理をしていない武器が軒並み凍りついてやがる。素手で持ったら皮膚が張り付いちまうな。このスーツなら大丈夫なのか?」
「そうですねえ。一応大丈夫なはずですが、銃器のほうが動作不良を起こすかも」
「だよな」
「この寒さですから」
「なら、近接武器か門術を使うほうが安全か……」
そういうことになりますね、とゲオルギィは自らの長髪をなでつけた。ヒーター付きの服装だと言っていたのは本当らしい。むき出しの顔も髪も凍りつく様子はない。
『兄貴、ゲオルギィの旦那、聞こえますか』
トレーラーのカブから念話通信が入った。
「どうしたカブ」
『今向かっているポイントですけど』
「ああ」
『どうやらくぼみというか、氷の横穴になってるみたいです』
「それで?」
『トレーラーのセンサーでは内部に残り火……というか、誰かがキャンプしていたような寒暖差が残っているみたいッス』
「キャンプ?」
ゲオルギィとBIG=ジョウはお互いの顔を見合わせた。ミドリカワが比較的長時間滞留していたらしいポイントにキャンプの痕跡である。何らかの関連性はうかがえた。
「オーケィ、ポイントまで急ごう」
「やはりミドリカワは何らかの理由で移動している。己の意志で」
「プラグドロイドにも意志があるのか」
「当然です。小生が手がけたものですので」
「すごい自信だな」
「事実です」
ゲオルギィは、少なくともミドリカワがどこかから転落して完全に破損してしまったわけではないと確信し、普段の調子を取り戻したようだった。
だがそのポイントに残されていたのはキャンプの痕跡だけでなく、4体の凍死体だった。
*
「4人の凍死者に5つのカップか」
BIG=ジョウは真っ白な霜に覆われた横穴の無残な様子を見て言った。
口をウロのように開けたまま固まった者。膝を抱え眠るように凍りついた者。凍死者は全部で四人。しかしBIG=ジョウの言う通り、黒根コーヒーらしきものを煎れた形跡のあるカップは間違いなく五つあった。死体がひとり足りない。
「みてください、そこの足跡」
ゲオルギィは、スパイクの傷がまだ新しい足跡を見つけた。
「これはミドリカワのものです。ここに立ち寄って、それから横穴の外に出て行った……?」
「とにかく早く移動しよう。何があったかわからんがとにかくミドリカワはここに立ち寄っている。それに……」
「五人いないとおかしい凍死者がひとり足りない」
「見つけても凍りついてたら元も子もない」
「同感です」
BIG=ジョウたちはカブのトレーラーを誘導し、ミドリカワの足跡を辿って後を追った。
*
巨大な氷の層が幾重にも重なったカイ=エイト迷宮の内部。
ミドリカワは聴覚器が完全に凍結してしまったかのような静寂を踏みしめるように歩いていた。ゆっくりと確実な足の運び。リスクヘッジは何よりも大切だ。特に誰かの生命がかかっている場合は。
ミドリカワは、その背にビィを背負っていた。
防寒着に包まれたその体は小柄で、まだ成体になっていないようだった。少女だ。
彼女はほとんど意識を失っていて、カイ=エイトのとある蜂窩に住んでいることを聞き出すのが精一杯だった。ミドリカワはインストールされている知識を総動員して生命を保つよう最善を尽くしたものの、低体温症と、数カ所に及ぶ凍傷で半ば死にかけている。
背中のパーツを無理やりヒーター代わりにするという、本来の仕様にない動作を自らの身体に課すことで彼女の凍死だけは防げたものの、結局は急ごしらえの対処にすぎない。熱くし過ぎるとやけどを負わせてしまう。逆に低すぎれば低体温症は悪化する。プラグドロイドの優秀な人造頭脳であってもその制御は難しかった。
地形走査と少女を揺り起こしてかろうじて聞き出せた情報を重ね合わせると、どうやらあと半ターンも進めば彼女のホームタウンである蜂窩にたどり着けるらしい。
何とかそこまでたどり着いて、凍傷にかかっている部分をプラグド化すれば生命だけは助かるはずだ。
ミドリカワは、創造主であるゲオルギィが自分のことを心配しているであろうことを理解していた。
しかし……。
やわらかいハンマーのようにアンビバレンツがミドリカワの人造頭脳をノックした。凍りついた洞窟の中で数人が凍死している中、ただひとり生き残っていた少女を救うことと、一刻も早くゲオルギィと合流することのどちらを優先すべきか。
両方が重要なのはわかっている。
しかしミドリカワは優秀過ぎた。ビィと同じく悩み、ビィと同じくためらう。判断し、決定しなければならない。
ミドリカワは少女の命を優先した。手をこまねいていれば死んでしまう。
生き残ったものは死ぬべきではない。
それがミドリカワの意志だった。
*
カイ=エイト迷宮がなぜこうも生きづらい場所になったのか。
いったいいつから光導板の働きが鈍くなったのか。
あるいはそれは初めからだったのか。
カイ=エイトに住むビィたちは誰もこの問に明確な答えを示せない。
ある者は推し量れない何者かが恵みとして氷を与えたのだと言い、別の誰かはヴァーミンの仕業であると言い、中には他の迷宮に生まれた悪意あるビィがカイ=エイトの全てを貶めようとして行ったと唱える者もいる。
それらに真実はあるのだろうか?
何エクセルターンにも渡り、それはカイ=エイトのビィたちに物憂げな沈思黙考の時間を強いた。
それゆえ、カイ=エイトのビィたちの少なくない何割かは、他の迷宮の住民に比べても非常に独特な思考パターンを持つようになった。
”上位者”による最後の救済が行われる――という思想である。
*
ザクリ、ザクリと足裏のスパイクが氷の道に足跡を刻んでいく。
ミドリカワは、ただ己の足音と、背中に負った少女のうわ言だけを聞いて、最も近い蜂窩を――少女が元々住んでいたはずの場所を目指していた。
ミドリカワの人造頭脳は、非常に高度なゆえに”ぼんやり”することができる。
全てが凍りつく寒さと闇夜の中、単調な音を聞きただただ足を動かしていると、注意力がぼやけてくることさえある。
果たして自分は今何をしているのか。何のために、どこに向かおうとしているのか。その後は何をすればいいのか……。
いっとき、ミドリカワはそれらの思考から解き放たれ、ただ歩くために歩いていた。理由や目的や原因から切り離されて、ただ歩いていた。
それゆえ、油断した。
どんな迷宮の――たとえ全てが凍りつく暗闇の迷宮の中であっても、ビィが生活している限り影のようにつきまとう存在がある。
不意に、ミドリカワの凍りかけた聴覚器が水音をとらえた。
――水?
ミドリカワの優れた人造頭脳はその意味を一瞬にして理解したが、隙は消せなかった。
強烈な衝撃がミドリカワのプラグドボディを跳ね飛ばした。
氷を下から押し割って地下水脈から上陸したのは青黒い甲羅をもち、結節のある長い足と大きく目立つハサミをもつ生き物だった。
ビィではない。迷宮生物でもない。
ヴァーミン。
恐るべき低温、闇に包まれた水路に潜み住む、カニ型ヴァーミンの姿だった。




