03 赤子のしごと
変わらないのは愛。愛だけだ。
――名も無き子の名も無き親の言葉
実の子供、という言葉はビィたちにとって特別な意味を持つ。
胎蔵槽と呼ばれる人工子宮によって生まれるビィの子供は、蜂窩全体の新しい世代として捉えられる。誕生後は養父母に預けられ、育てられ、成体式を迎えると共同体に加わるひとりの成体としてみなされるのが通常のあり方だ。誰かの子供ではなく、共同体全体の子供というわけだ。
これは十二大迷宮のおそらく全ての蜂窩で営まれているありふれた風景だろう。
そういった手順がありふれているのは簡単な話で、ビィ同士のセックスではほとんど子供を作れないからだ。
胎蔵槽は適切なメンテナンスと動力源があるかぎり新世代の子を生み続ける。一方、男女のビィ間での出生率は非常に低く、純粋な妊娠出産だけで共同体の人口を維持することは不可能だろうといわれている。胎蔵槽ではなく母体から生まれることはそれほど珍しいのだ。
珍しいだけではない。
古来から”女王の子”と呼ばれているビィ同士の子供は、胎蔵槽から生まれる双子に優れた資質が備わるのに似て、生まれつき特殊な才能に恵まれる。
それは貴重な、とても貴重な能力で……。
*
「”女王の子”か……」
ビーンズは絶句した。年月を重ねて生きてきた彼にも、それが実在するものだという感覚は薄かった。自分の身内にそんな子供が生まれる――生まれていたとなるなど思ってもみない。
「そいつぁ、いったいどう言えばいいのか……めでたいと言っていられる状況じゃあないんだな?」
その通りだとウォルトはうなずいた。
「時間がないから要点だけ話す。おれは彼女と――ラケルと出会って所帯を持った。数年経って、そろそろ胎蔵槽から養子を迎えてもいいかと思い始めた頃だ。女房が妊娠していることが分かった」
「妊娠……か」
ビーンズは無意識にあごを撫ぜた。結局初老の齢まで決まった相手と結婚しなかった自分のことを考え、不思議な感覚に陥った。妊娠とはいったいなにが起こるのか? 知識の上では知っていても、はるか遠くの出来事に思えた。
だがそれは自らの養子の元で起こったのだ。
「正直おれは参ったよ。女房の腹が膨らんで、その中で新世代のビィが育っていくなんてな。信じられるか?」
「信じられんな」
「なんだって?」
「ただの感想だ。続けてくれ」
「ああ……とにかくだ。ラケルは妊娠して、なんというか……特殊な状態になった。元々の人格が曖昧になって、熱に浮かされたみたいな言葉を喋って。まるで月光の門術で操られたみたいに」
「聞いたことがあるな……”女王の子”を妊娠した母体には、胎内の子供の影響を受けてそうなるとか」
「そうだ。まさにそうなった。ラケルの言動はほとんど意味がわからなかったが、時々予言のようなものをおれに教えてくれた」
「予言……」
「ああ」
「どんな予言だ?」
「まあ色々だ。3ターン後に水道管が破裂するから気をつけろとか、自分がいつどうやって出産するのか、それに……まあ、とにかくそういうことを」
ウォルトの言葉に苦いものがまじり、ビーンズは奥歯を噛み締めた。息子がどういう思いをしてきたのか半分も想像がつかない。もっとちゃんとした父親をやっていればそうはならなかったのか?
「ついでに言えば」
「うん?」
「父さん、おれがあんたのところに行くことになると言ったのもラケルだ。まさか、まんまとそうなるとは思ってなかったけどね」
*
マハ=マウライヤス蜂窩は巨大の一言に尽きる。
およそ12億のビィの生活する空間は、超巨大主機関樹の縦長の幹を取り囲む螺旋階段のように発達し、上になるほど清潔安全で、根の国と呼ばれる下層は危険と隣り合わせの地方と呼ばれる。地方という言葉を使うのは、あまりにも蜂窩の総面積が大きすぎて、都市と言うよりはひとつの国家同然となっているせいだ。
ビーンズの事務所は、根の国と中間層の狭間に位置する。下層民の依頼も、ほどほどの中間層の依頼も同等に扱うよう配慮している。
20エクセルターンほど昔、ウォルトが出て行ってからビーンズは公立警官の職を辞した。
この場所に事務所を構えていることなどウォルトは知る由もなかったはずだ。
ところがあっさりと鍵を開けてウォルトは入ってきて、ビーンズすっかり混乱してしまった。
話している間に落ち着きは取り戻したものの、厄介な話が残された。
ウォルトのパートナーだったというラケルなる女はすでに殺されたという。
生き残ったウォルトとその子供・ディズが目の前にいて――困ったことにディズは火がついたように大声で泣きだした。
*
「お、おい、どうすればいいんだ」
ビーンズは無様なほど慌てた。子供を育てた経験があるが、胎蔵槽から生まれる子供はその時点でひとりで立てるし言葉の意味もおおよそ通じる。
だがディズは完全にうまれたばかり赤ん坊だ。
赤ん坊の世話をしたことのあるビィがどれほど居るだろうか? セックスによる妊娠出産は、12億いればある程度数は存在しておかしくない。とはいえビーンズはそんな例をほとんど知らないし、”赤ん坊”という単語自体、胎蔵槽から不完全な育成状態のまま引っ張りだされた子供というイメージが強い。
ミルクが足りないようだな、とウォルトは小さく笑った。
「ミルクだって?」
「ああ」
「まるで迷宮生物の子育てだ」
「哺乳類ってくらいだからな」
そうこうしているうちにディズの泣き声はさらに大きくなった。ビーンズは子供の泣くところには慣れていても、それより幼い赤ん坊のそれに対しては何をどうケアしてやればいいのか困惑するばかりだった。
「圧縮粉乳とハチミツはあるか? 生命の素のパック製剤でもいい。それを混ぜて温める」
「ここには蜜酒しかねえよ。酒を飲ませるわけにゃいかんだろう」
「それはそうだが、おれもいまストックを切らしてるんだ」
「ああ……そいつは一大事だ」
「おれがマーケットで買ってくる。ディズを頼めるか?」
バカ言っちゃいけねえ、とビーンズはソファから立ち上がった。
「買い物なら俺が行く。事情はその後だ」
「しかし……」
「いいから。その代わり、その子を何としても守ってやれ。親っていうのはそういうものだろう?」
まだ何かを抗議しようとするウォルトを強引に制し、ビーンズは事務所を出た。
コートの中にある拳銃の残弾数を確かめてから、ベテラン警官の鋭い目で最寄りのマーケットまで急いだ。
*
――”女王の子か。
マーケットであふれるほど買った商品を胸に抱えていた。父親というのは、必ず余計なものまで買ってしまう生き物なのだ。
そんな風に行動するのもずいぶん久しぶりだ。
――あの子の母親……ビーンズの嫁にはもう会えないんだな。
ウォルトは、ラケルという名の女房を失ったと――いや、殺されたと言っていた。それにはディズの存在が絡んでいて、ウォルト曰く”犯人たち”はディズを狙っていて、そのせいでラケルは殺されたらしい。
それからウォルトは助けを求めて父親たるビーンズに助けを求めてきたわけだ。
あの甲高い泣き声をビーンズは頭の中で反復した。幼齢体の子供がの泣き声は耳慣れている。ビーンズも、他のビィも。だが赤ん坊の泣き声はそれとはだいぶ離れている。
もし本当にディズを狙う”犯人たち”がいるというのなら、自分の居場所をサイレンで知らせているようなものだ。
ビーンズは足を早めた。
一刻もはやく戻ってやらなければならない。
孫のディズのために。
息子のウォルトのために。




