01 マハ=マウライヤス
初めに女がいた。
女は己の身を隠すため迷宮を産み、迷宮はさらに迷宮を産み、十二の大迷宮が連なる世界を造り上げた。
いつしかそこは迷宮惑星と呼ばれるようになった。
惑星迷宮を形作る12の大迷宮のひとつ、ネーウス。
全ての迷宮の中で最も大量に生命の素を分泌することで知られる主機関樹を擁するそこは、溢れ出る生命の素を人工子宮・胎蔵槽が受け入れ、他の蜂窩では考えられないほど多くの新世代ビィが誕生する土地だった。
自然、人口密度は爆発的に高まり蜂窩はすぐに手狭となる。
生まれるビィの大半は探索者として蜂窩の外へと旅立つ。それでも居残り組のビィが暮らすだけのスペースは不足した。
やむなく蜂窩は大幅な拡張を必要とした。年月を重ねるごとに広大に、高くあるいは低く増築を続け、今日では12大迷宮の蜂窩のなかでも最大級のものであると目されている。
巨大な迷宮を埋め尽くすほど巨大なその蜂窩は、いつ誰が名付けたのか不明だが”暗黒都市”の名で呼ばれるようになった。
”暗黒都市”マハ=マウライヤス。
物語はここから始まる。
*
マハ=マウライヤス下層、通称『根の国』。
光導板の光がまともに届かないその土地はいつもじめじめとカビ臭く、色とりどりのキノコが場所を選ばずに顔を出している。貧民たちの住むバラックの庇からややねっとりした雨がこぼれ落ち、水たまりを作っている。雨? 雨などシンロン迷宮かバーズテイル迷宮でなければ降らない。胎蔵槽に流れ込むはずの生命の素が、どこをどう通ってかはるか上層から流れ落ちて、それが雨のように垂れてくるのだ。
道の脇を四つん這いになった子供ほどもある素早い何かが駆け抜けていった。大きく育ちすぎたネズミだ。
生命の素は主機関樹から採取され、胎蔵槽に溜まったものからビィが誕生する。しかしネーウス迷宮にそそり立つ暗黒都市の主機関樹から溢れ出る生命の素は胎蔵槽では受け止めきれないほど多く、全てをビィの育成に使っていては人口爆発を防ぎきれない。
かつての為政者は人口抑制を最も重視した。増えすぎたビィによる食料不足が確実に起こると予測されたからだ。
新生個体の半分以上が探索者となって、いわば自主的な口減らしをして、それでもなお増殖が止まることのない環境を憂慮して、胎蔵槽の稼働は大きく制限された。
新世代ビィの人口爆発はこれで防げたものの、時の為政者は結局膨大にあふれる生命の素の処理にまで手が回らなかった。やむを得ない事情ではあった。主機関樹を完全にコントロールする方法など誰も知らなかったからだ。
結果として――生命の素の大量の余りは垂れ流されるまま放置され、目を背けられ、一応の解決を見た。
それよりおよそ200エクセルターン――エクセルターンは一年に当たる年月の単位だ――が過ぎた。
いまでは巨大都市の下層に廃棄された生命の素が流れ込み、その豊富な栄養を吸って動植物が特異な変化を起こすに至っていた。
特大サイズのドブネズミも、汚れた生命の素をたらふく飲んだクチだろう。
だが住み着いている貧民ビィたちの栄養状態はよくない――ネズミと一緒に汚れた生命の素をすするほど彼らも落ちぶれていないからだ。
ボロを着た下層民の群れの中にひとりの男がいた。
カーキ色のコートのポケットに両手を突っ込み、小柄だが幅広の肩で強引に行き交うビィの波をこじ開けて進む。
若いチンピラが偶然か故意か、男の方にぶつかって因縁をつけようとした。コートの胸ぐらをつかもうとしたチンピラは、しかし男のひと睨みでひるみ、すごすごと立ち去っていった。
つまらなそうにコートを直し、男は懐からオガクズタバコを取り出して発火の能力で火をつける。
男の名はビーンズ。私立警官である。
眼光の鋭い初老のその男は首筋をトントンと指先で叩き、機械化された右目の視界に今回の”依頼内容”をポップさせた。まだ若い娘の顔写真。そこにタグ付けされた情報には名前、素行、住所、念話チャネリングアドレスの記載がある。
念話はとうの昔に通じなくなっており、今回の依頼人である彼女の両親を精神的に疲弊させていた。
誘拐か、それとも何か別の事件に巻き込まれた可能性を案じ、彼ら両親は普段なら見向きもしないであろう私立警官に捜索を依頼してきた。公立警官は上層の事件にかかりきりで――食料を求めたデモという名の暴徒が取り締まられるのを待っている――その機に乗じた犯罪が起こっても反応は芳しくない。
根の国は光導板の光がまっすぐ照らさず、上層から転がり込んできたような連中が暗がりに群がって牙を研いでいる。当然犯罪率もぐっと高くなる。しかし公立警官の数は限られていて、総人口12億とも言われるマハ=マウライヤスの全土をカバーすることは事実上不可能とされている。
私立警官は特別な許可を得て法の執行を代替わりする探偵と賞金稼ぎを足したような存在だ。
ビーンズのような公立警官くずれが糊口をしのぐには丁度いい職とも言える。
拉致。誘拐。殺人。強盗。探し人の両親はそんな言葉で不安を露わにしたが、ビーンズの長年の勘はそれらをあっさり否定した。
家出だ。単なる家出と断言できた。が、依頼人の前では口にしなかった。嫌な手口だが、大事件を匂わせればその分依頼料は高めに設定できる。ビーンズは悪徳警官ではないが、もらえる金を低く見積もってやるほど懐が温かいわけではない。
そうした諸々を抱えつつ、ビーンズは家出娘の行きそうな場所を聞きこみ、探知系の門術を使う馴染みの探し屋に情報料を渡しておおよその目星をつけた。
根の国でも特に治安の悪い場所に紛れ込んだらしい。
単なる家出娘が入り込むには、いささか空気が悪すぎる。
ビーンズの足取りは自然と速くなった。
*
服と金目の物を引きむしられ、少女は輪姦されかかっていたが、幸いにして未遂に終わった。
強殺未遂犯たちはビーンズの射撃と月光の門の催眠系門術で無力化され、全員その場で取り押さえられた。数は5人。人数こそ多いが、エサに食いついて夢中になっている犯罪者のふいをつくなど造作も無い。
「あー、ハッカさんだな?」
呆然として肩で息をする少女に、ビーンズはぎこちなく声をかけた。
「あ……あんたは?」
「お嬢さんの両親に雇われた。無事に連れ戻すようにな」
「そんなの……」
言いかけて、ハッカと呼ばれた少女は破かれた上着から乳房がまろび出ていることに気づいて慌てて布地をかき集めた。
「そんなの頼んだ覚えない! あたしのことは放っておいてよ!」
ビーンズは肩をすくめた。これだから小娘の相手は困るんだ――いらだちに、無意識にソウダストに手が伸びるがやめておいた。
「悪いが俺は子供の言い分を聞くようには頼まれちゃいないんだ、お嬢さん。何を考えてこんな根の国にまで降りてきたのか知らないし興味もない」
とっととここから移動するぞ、とビーンズは失神しているチンピラから無意味に鋲の打たれたジャケットをひん剥いてハッカに投げ渡した。
「あたし、家には戻らない。あの人たちにもそう伝えておいて」
「戻らずに、どうする気だ?」
「え?」
「小娘ひとりで根の国うろついて、ギャングの情婦にでもなるつもりか」
「情婦って……あ、あたしはただ自由になりたいだけで」
「だからな、俺はその手の言い分を聞くつもりはないんだ。お嬢さん」
「でも、あたし、あたしは……」
「……両親に不満があって、そこから逃げ出したかった。だから家出して、それもこんな根の国まで逃げ込んで。そうやって親の愛情を確かめたかった。そんなところか」
「……」
ハッカは黙りこくった。一から十まで図星だったに違いない。目を見開きただビーンズの顔をぼんやりと見上げる。まるで何かを期待するように。
――ああ、つまらんことを……。
ビーンズは自嘲した。余計なことを話すつもりはないなどと言いながら、家出娘の話を結局聞いてやっている。だが、それもよかろう。話してやることで相手が素直に言うことに従ってくれるのならそれも手段のひとつだ。
「俺ァな、お嬢ちゃん。私立警官を長いことやってるからわかるんだ。お嬢ちゃんくらいの年頃の子供にゃ家出は少なくない」
「……本当?」
「ああ。それでそういう子供はな、十中八九親の愛情を試すためにそうするんだ」
「あ、愛情なんて、あのひとたちは持ってないよ……だって、自分で迎えにも来ないで。あんた、いくらで雇われたの」
「十分な価格だ」
「か、価格って。それじゃあたし動物か何かみたいじゃない!」
「さあな。どう考えたのか知らんが、少なくともお嬢ちゃんのためにとても高い金を払って俺を雇ったのは間違いない」
そう言われて、ハッカはどういう態度を取ればいいのか考えあぐねるように自分のむき出しの膝に目をやった。擦りむいて血が出ている。
「……お……お金でどうにかしようとするなんて、そんなの、そんなの」
「バカだねえお嬢ちゃん。ご両親は金で俺を雇ったがね、どんなことがあっても何があっても支払いますと、俺にそう言って金額を提示してきたんだ。愛情がないならそんなことは言わねえよ」
少しウソが混じっている。金額を提示したのはビーンズの方だし、そこまで法外な値段は払えないと言われた。だがそんなウソを紛れ込ますことで少女や少女の親に納得の行く結末を与えてやれるならその方がいいだろう。そう考えた。
「自分の足で迎えに来なかったって? そんなの当然だろう。根の国は歩いているだけで犯罪に巻き込まれるかもしれない場所だ。嬢ちゃんも身を持って体験しただろう? 素人が入り込むのはな、ただ危険なだけで、愛情が足りないわけじゃねえよ」
そうまで言われて、ハッカは急に泣きだした。
ビーンズはやれやれとコートの襟を正し、そこでようやくソウダストを取り出して深々と吸った。
途切れ途切れに雨の音がした。
*
長年の勘が、事務所の入り口で止まれと両足に指示を出した。
犯罪者に恨まれがちな私立警官である。ささやかな事務所兼住まいに誰かが侵入し、生命を狙っている可能性は否定出来ない。
コートの中から愛用の銃を引きぬきつつ、ドアノブに手をかけた。鍵が開いている。プラグドされた右目が機能を発揮して、白黒の暗視画像が脳に流れ込んだ。
3秒数え、ビーンズは事務所の中に飛び込んだ。
*
暗闇の中に男がひとり。
「動くな!」
銃口を向けるビーンズに、その男はゆっくりと振り向いた。目深に被った帽子に隠された顔。暗視機能でも見通せない翳が落ちる。
「手を壁につけろ。余計な動きをすれば撃つ」
幾度も修羅場をくぐってきたビーンズは、緊張こそすれども慌てて判断を誤ることはない。男がどこの誰で、なぜ鍵を開けて侵入できたのかは後回しだ。
「撃つな」
男はそれだけ言って、帽子を脱いだ。
「動くな!!」
あとほんのわずか引き金に力が入っていれば、男の頭ははじけ飛んで、掃除の手間が増えるところだっただろう。
そうはならなかった。
ビーンズの知っている顔だったからだ。
「お前……!」
ビーンズは絶句した。あからさまな動揺で、銃口を向ける手から力が抜ける。
「ウォルト、か……!?」
「久しぶりだな、ビーンズ」
ウォルトと呼ばれた男は、無精髭の生えたやつれた顔でそういった。
「それとも……こう呼んだほうがいいか? 父さん」




