10 誕生
(ノイズにより聞き取れない)
「最悪の事態ね……」
苦悶の表情でラヴィニアは下腹を抑えた。
「どうやら……とんでもないものを飲まされたみたい」
ラヴィニアもリースもそれが何なのか言わずともわかっていた。マゴットの身悶えするほどおぞましい粘液だ。ふたりともそれを胃袋へとねじ込まれたはずだが、ラヴィニアの症状は明らかに普通のものではない。
「そんな! どうして先輩だけ?」
「吐き出す前に体内に吸収されてしまったようね……うっ!」
下腹に痛みが走ったのか、ラヴィニアは両手で抑えてうずくまった。その様子を見たリースはさらに血の気が引く思いをした。膨れている。痛みを抑える手の下で、ラヴィニアの腹部が水を詰め込んだように膨れているのが見て取れた。
「たぶん、あの粘液にお腹の中が侵食されて……体組織がマゴットに置き換わっているみたい」
脂汗をかきながらもラヴィニアは己の状態を冷静に判断した。
赤黄色の照明に染まるこの『実験場』には多くの胎蔵槽が置かれている。その中に入っているのは全て濁ったマゴットの素であり、おそらくは元ビィだったものが――ゴーストハイヴから連れてこられたビィたちだろう――沈められ、マゴットとして生まれ変わりつつあるのだ。
口から飲み込んだ粘液のせいで、ラヴィニアの肉体に穢れた変異が起こっても不思議ではない。
「内門を開いて変異した部分だけ取り除けませんか!?」
「さっきから何度か試しているけど……どうやらすでに融合してしまって、異物だとみなしてくれないようね」
「そんな……!」
リースは絶句した。体内に霊光の力を巡らせる門術の一種、内門を開いても除去できないのであれば、もはや同化を解く手段はない。リースの手持ちの医療キットで対処できる範囲を超えている。
せめて痛みだけでもと思い鎮痛薬を注射し、それでようやくラヴィニアの苦悶の表情は和らいだ。
「ありがとう、これでなんとか動けそうよ」
よろめきながらラヴィニアが立ち上がった。動けると言っても、それが一時的なものにすぎないのは明白だった。
リースはそのさまを見て呼吸が止まるほど考えこんだ。
寄生虫なら駆除剤を使って排泄することもできるだろう。しかし体組織自体が変異してしまったのであればそんな薬は通用しない。開腹して患部を切除する。それからその部位をプラグド化する、というのが現実的に可能な対処法だろう。医療キットには簡易外科手術用ツールも含まれている。設備さえあれば、マニュアルどおりのオペで開腹まではなんとかなるはずだ。
リースは早口でそれを説明した。きっとなんとかなるはずだ。
「ええと、あの無人の蜂窩まで戻れば、設備はあるはずです! もしかしたらここにも……」
「そう、ね」
「はい! きっと、きっとまだなんとかなります!」
「わかった、リースの言うとおりにしましょう」
「せんぱ……」
「ただし」
「えっ?」
「先にマゴットの脅威を取り除いてからよ。もしここで見逃して繁殖でもされたら、取り返しがつかないわ」
「でも……」
「ダメ。ここはリーダーの言うことを聞きなさい。さあ、私がまだ体を動かせるうちに最後の制御装置を止めるわよ」
リースは異を唱えようとしたが、ラヴィニアがリーダーとして決心したことを覆すことはできない。
もう一本鎮痛剤を打ち込み、ラヴィニアは最後の制御装置へと駆け出した。リースはそれについていくことしかできなかった。
*
3つめの制御装置には近寄らずともわかる脅威があった。巨大マゴットだ。
いままで会敵したどれよりも大きい姿が遠目にも明らかで、生肉と腐肉をミックスして人間の体に塗り固めたような巨人がリースたちが来るのを待ち構えているようだった。両腕が異常に長く、毛皮を剥いだ類人猿を思わせる巨人。
「……あいつを倒さない限りどうにもならないわね。リース、攻撃用の……」
ラヴィニアは何かを言おうとして、途中で耐え切れず激しく嘔吐した。
吐瀉物の中にはまた赤黒い生き物のなりそこないのような組織片が混ざっていた。眼球らしきもの。爪や歯になりかけたもの。痙攣する小さな手指。
「……攻撃用のデバイスは残っている?」
この世にあるべきでない生の雛形を靴底ですりつぶし、ラヴィニアはリースに問うた。
ドローンはあと1基。メタ=プラスキン爆弾は残りわずかで、おそらく巨人の腕一本を吹き飛ばすのが限界だろう。
「あとは拳銃と……フラッシュバンと、アンブレラフィールドと、ああっ、もう! 他には防御用のものばっかりです!」
「オーケー、それだけあれば今の私でも戦える。いい? 手順は……」
*
メタ=プラスキン爆弾を取り付けたドローンが巨人の後頭部に突撃した。爆音が轟き、一拍遅れて血飛沫が降り注ぐ。
肉をえぐられて巨人マゴットの首がぐらりと傾いだ。強烈な爆発にダメージはあったはずだが、それだけで倒れる様子はない。痛覚が相当鈍いのか、完全に叩き潰してひき肉にしないと死なないのか、あるいはその両方か。
「こっちこっち!」
リースが巨人の前に出て、これ見よがしに腕を振り回してみせた。
おおん、と湿り気を帯びたうなり声を上げ、巨人はリースの身体を捕まえようと嫌な汁が垂れる右手を伸ばした。
「先輩、行きます!」
ぎりぎりのタイミングで、リースはフラッシュバンを巨人の足元に滑らせた。次の瞬間、驚くほどの閃光と轟音が弾けた。リースは特殊ゴーグルを掛けていたので影響はない。だがまともに光と音を受けた巨人は、たとえマゴットというバケモノであっても怯まざるを得なかった。
その一瞬をラヴィニアは狙った。
ラヴィニアの会得している門術の中では最強の『虹色の衣』は消耗が激しくて門が開けず、それよりは劣る『三原色の衣』を身にまとい、ハイジャンプをして巨人のちぎれかけた首筋に思い切り蹴りを叩き込んだ。ゴギ、と頸骨の打ち砕かれる音。首へのダメージが完全に許容量を超えた巨人の頭は皮一枚残して斬首されたように胸元に垂れ下がった。
マゴットに生物の基本的な構造が適応できるなら、臓器のうち脳は絶対の急所になりうるはずだ。首をちぎられて生きていられる相手ならば、もはやラヴィニアとリースの手に負える相手ではない。
さらに一発、二発とラヴィニアの攻撃が入り、六発目で頸骨が完全に打ち砕かれた。腐敗臭漂う巨人の首は自重で半ばちぎれ、鳩尾の辺りまで伸びきったところでブチリとちぎれた。
巨人の姿勢はゆらぎ、大きな音を立ててくずおれた。肉と皮が嫌な音を立てて弾け、あたり一面が汚れた血肉の溜まりに変わる。
「何とか、なったわね」
顔に飛び散った腐汁を拭い、ラヴィニアはリースに笑顔を向けた。無理に作っていると人目でわかる表情だ。下腹は時を追うごとに膨らんでいる。まるで妊婦のようだった。赤ん坊が入っていればそれは喜ばしいことなのだろう。だが、いまその中で盛り上がっているのはマゴットによる体組織の乗っ取りのせいだ。
ラヴィニアの勇気ある行いに報いなければならない。
リースはマゴットの素の供給装置に駆け寄って、デバイスを起動させた。
*
こうしてリースたちはマゴットを大繁殖させようという狂気の男・ウェストの野望を砕いた。
悪夢よりもひどい一日は終わった。
あとはラヴィニアの体内に巣食うマゴットの幼生体を何とか切り取って、代わりにプラグド化させるだけ。
そうすれば、ラヴィニアは死なずに済むはずだ……。
*
そんなことにはならなかった。
*
リースは確かに3つの供給装置をフリーズさせ、機能を破壊した。
胎蔵槽に接続されているパイプからの液体循環は止まった。いずれは中にいるマゴットの幼生体も干からびて死んでしまうだろう。計算上はそのはずだ。
ゴーストハイヴから行きたまま連れてこられたビィたちが実験材料として使われたことを考えると胸が痛む。それでもマゴットとして蘇り、狂人の手のひらで転がさられるよりはずっとましだろう。少なくともリースはそう思ったし、それはラヴィニアも同じはずだ。
最後に残った問題は、ラヴィニアの身体を冒し続けるマゴットの体液だ。
こればかりは手術からプラグド化までを行える施設がないとどうすることもできない。リースはすでに意識朦朧としているラヴィニアに肩を貸し、どこかにあるはずの手術用設備を探した。
ウェストが集めて無秩序に並べた機械の中に手術用設備が紛れ込んでいる可能性は高い――とリースは信じた。もっと可能性が高いのは無人のゴーストハイヴに戻ることだが、侵食の速度から見るに、丸1ターン以上の距離にある蜂窩に戻る前にはラヴィニアは無事ではいられないはずだ。
とにかく、どこかに必ずあるはずだ。生体改造を行うのなら、手術用の施設か区画があってしかるべきだろう。無いはずがない。
必ず、必ずどこかに……。
「ううっ……」
ラヴィニアがうめいた。リースに肩を貸されていても、もう歩くことさえ限界が来たようだ。
と、パシャリと水が落ちる音が聞こえた。
ラヴィニアの足の間から水が垂れ流しになっていた。痛みのあまり失禁したのかと考えがよぎるリース。しかし医療キットはそれを否定した。
「はすい? 破水、って……!?」
診断データの列を見てリースはくらりとめまいがした。破水。妊娠した母体から子供が生まれる前に起こる生理現象だ。胎蔵槽生まれのリースには全く馴染みのないことだが、これはつまりラヴィニアは妊娠しており、もうすぐ子供が生まれるということを意味している。
生まれるのは子供ではない。
体内に取り付いたマゴットの組織が腹部で増殖して、出産されようとしているのだ。
「……ここが限界みたいね」
ラヴィニアは半死人の声で言った。
「リース、私がまだ私でいられるうちに……」
「ダメです、先輩! まだ摘出すれば手術はできるはずです!」
「そう、ね。でも間に合いそうもないもの。だから……」
「イヤですそんなの! わたし、先輩のこと撃つなんてできません!」
「お願い、わがまま言わないで」
「わがままなんかじゃ……わがままなんかじゃありません……」
「……しようのない子ね、あなたって」
一瞬の出来事だった。ラヴィニアはリースが懐のホルスターに固定してある銃を抜き取ると、自分のこめかみに銃口を当てた。
「……先輩?」
銃声が響いた。
血がドロドロとこぼれ落ち、リースの足元を汚した。
撃たれたのはリースだった。
こめかみに当てたはずの銃口は、リースの脇腹に向けられ、引き金を引かれていた。
*
腹部大動脈に損傷を受けたリースは激しく出血し、耐えられず自分から流れ出る血だまりに崩れ落ちた。
「どう、して……せんぱい……」
ラヴィニアは答えなかった。
もはや彼女の中に彼女はいなかった。
目頭から、鼻から、顔中の穴という穴から、白い紐のようなモノがあふれ、束でうねっている。
口から出る言葉はもはやビィのラヴィニアのものではない。全く別の、バケモノの声だった。体中が痙攣し、足の間からはぼとぼととマゴットの幼生がこぼれ落ちていく。
ラヴィニアは完全にマゴットに支配されていた。
薄れゆく意識の中でリースが最後に見たものは、仰向けに転倒したラヴィニア型マゴットの大きく膨れた腹を食い破って、おぞましい歯のついたウジムシが世に放たれた場面だった。
ウジムシはすぐに成長し、ひとりの人間型マゴットを形作った。
皮を剥いだ、人間の姿を真似ているだけの生物に過ぎなかったが、その顔立ちははっきりと見分けがついた。
ウェスト。
”再生術師”ウェストその人がそこにいた。
リースの意識はそこで途切れた。
*
腐汁にまみれた広大な実験場に残されたのは、みじめに動きまわり干からびてゆくマゴットのなりそこないだけになった。
血まみれのまま冷たくなっていくリース。
全身を食い破られ、引き裂かれたラヴィニア。
ふたつの遺体は誰にも顧みられることはなかった。
ただ、どうしたわけか動けないふたりは手と手を握っていた。
最後まで、お互いを大切に想う心が残されていた証のように。
*
その後、マゴット=ウェストが迷宮のどこに消えたのかは定かではない。
ウーバニーの章 おわり




