05 ビィ・イン・ブラック
毒と薬は混ぜてはいけない。毒と毒とを混ぜてもいけない。
――”バードウォッチャー”エマニュエルの言葉
金剛環がそこに存在している時点でフラーたちは気づくべきだったのだ。
ヴァーミンが電源ユニットだけを持ち帰らず、わざわざビィの前線基地跡地に金剛環を持ち込んだということ。彼らは何らかの理由があって持ち込んだ。重く大きな金剛環を直接運ぶだけの理由が。
金剛環は平均的なビィの身長を超えるサイズの装置だから、そこに運び込んだ成体が必ずいる。幼虫とサナギは、おそらくこの場で新たに生み出されたものだろう。
そして、成体のヴァーミンたちが姿を現した。物陰から、地中から、崩れた見張り台の上から。総勢4人。
「ジョン=C、ジョン=C!!」
突如として頭を吹き飛ばされたジョン=Cに、フラーがパニックを起こして叫びだした。
無理だ。
ジョン=Cにはもう返事はできない。下あごに並ぶ白い歯が妙に目立つ。そこから上はもう跡形もなく、立ちすくんだままの状態で噴水のように血が吹き出している。
――ここで何とかしなきゃ、全滅だ。
ニューロはこの状況でもぎりぎりパニックを起こさなかった。強烈な逆境に触れて、むしろ冷水を注がれたように脳が引き締まり、何をするべきかがはっきりとわかった。
まず、ここから逃げるしか無い。
そのためには電源ユニットを諦めるしかない。
ジョン=Cのことも諦めるしか無い。
そして――場合によってはフラーのことも諦めるしか無い。
ニューロが己の生存本能に従えば、全てを見捨てて逃げることが正解になる。それ以外に生存の可能性がある答えは見つからなかった。
一刻もはやく逃げなければ……。
「フラー、落ち着いて。ヴァーミンから離れなきゃダメだ!」
しかしニューロは無意識に叫んでいた。自分の生存よりも、どうにかしてフラーも生き残れる方法があることに賭けた。
だが、そんな方法はあるのか?
ニューロは自問を無視してフラーのところまですっ飛んで、襟首を掴んで強引にしゃがませた。一呼吸分の時間だけ遅れて、強力な念動力のミキサーが頭上を通り過ぎていった。ジョン=Cの頭を吹き飛ばしたヴァーミンの門術、エアシュレッダーの高速回転する風の刃だ。フラーの髪が巻き込まれて黒い吹雪が舞う。
「フラー、しっかりして! こっちも門術で対抗しなきゃ!」
「でも、だって、ジョン=Cが……!」
「もうどうしようもないってば! 僕たちもこのままじゃ……」
ニューロが最後まで言い切る前に、ヒトの皮膚と筋肉を貼り付けたバッタのようなヴァーミンが高く素早く跳んで、ニューロたちに激突した。強烈な衝撃にフラーはその場で転倒し、ニューロはふっ飛ばされてごろごろと瓦礫の上を転がって肩を強打した。
――ダメだ、これ以上は……。
ニューロは反撃を諦めた。フラーはショックで立ち上がれない。ニューロ自身、自分だけで4体ものヴァーミンには太刀打ち出来ないことは承知している。ジョン=Cも死んだ。電源ユニットを持ち帰ることは不可能だ。
かくなる上は、せめて命だけでも渡さない方法を選ぶことだけだ。
「待ってくれ、ヴァーミン! ここまでにしてくれ、僕たちはここにあんたたちがいるなんて知らなかったんだ。電源ユニットは返す。犠牲者が出たのはお互い様だ、それで手を打ってくれ!」
ニューロは交渉の余地がある提案をしたつもりだった。
「ダメだ、コロス」「コロス」「コロス」
ヴァーミンたちはそれぞれに復唱した。
「女ハ犯しテソノあとコロス」
ニューロは絶句した。幼体期、ヴァーミンはほとんどの迷宮生物とは違って知的生命体だと聞かされた。天敵とはいえ思考能力がある。なのに交渉すらできないというのか?
「デは死ネ」
ヴァーミンたちは何の感情もこもらぬ瞳でニューロを見て、そのままジリジリ近づいて来た。
一方でフラーの上には先程のバッタ型ヴァーミンが上にのしかかった。粘液まみれの性器が腹の下から生えてくるのが見えた。
――こいつら!
ニューロの全身に怒りと、それと同じくらい激しい霊光が体内の霊線を巡った。ずっと一緒に育ってきたフラーがレイプされかかっている。それも、虫の形をしたヒューマノイドなどという化け物に。
頼みの綱のジョン=Cはすでにいない。自分が何とかするしかない。
いつもは物静かな性格のニューロだが、許せないものは許せない。いままではこんな機会に直面することがなかったからだ。
ヒトの手を四本はやした悪夢のように気持ちの悪いダニ型ヴァーミンふたりがニューロを挟む。バッタ型ひとり、ダニ型ふたり。そしてリーダー格らしきオケラ型の合わせて4人。
ニューロは全く出し抜けに懐からテーザー銃を取り出してダニ型の脳天に糸付きの電撃端子を打ち込んだ。ヴァーミンは姿形こそ蟲のそれだが、素材はビィと同じ骨と肉と皮膚だ。斬りつければ切れるし、銃で撃てば殺せる。生死の条件はビィもヴァーミンも同じだ。
銃にはニューロの霊線が手のひらからグリップに直結されていて、電流に変換された霊光が糸を通してダニに流れ込んだ。
チチチチッと断続的な破裂音がたっぷり二秒。ダニ型ヴァーミンの片割れは頭部が内側から煮えて死んだ。
ヴァーミンたちの間にさっと緊張が走るのをニューロは感じながら、アゴと手足でフラーの服を皮膚ごと引きむしっているバッタ型ヴァーミンに向かって猛然とダッシュ。全身にみなぎらせた霊線の反発力で思い切り飛び蹴りを食らわせた。
だがバッタ型は体格が大きく、小柄なニューロの体重では排除しきれない。
フラーを犯そうとしているバッタはもはや生殖するためだけの機械のようになっていて、ドロドロ泡を立てている性器をでたらめにフラーの太ももになすりつけていた。
「フラーから離れろ、化け物!」
ニューロは背中のザックから片手持ちのピッケルを抜き取り、鎌をふるうようにしてバッタの腹部に突き立てた。
このピッケルもニューロの発明品で、ピックの部分が突き刺さると速硬性のムースが吹きつけられて垂直の固い壁でも取っ掛かりを作ることができるという代物だ。武器として使えば突き立てた皮膚の内側にムースがたまり、傷口から小石をねじ込んだような効果がある。ニューロは腹部に走る太い静脈を狙って、血栓を作って戦闘不能にしようとした。
ニューロはおとなしい性格だが、臆病ではない。本当にやらなければならない時には引き金を引く。
だが、誰にも負けない強さがあるわけではない。そういうものは本来であればジョン=Cの役目なのだ。
完全にとどめを刺し切る前にニューロはリーダー格のオケラ型に、おぞましいトゲ付き棍棒のような腕で思い切り殴られた。
瞬間、わけがわからなくなった。
吹き飛ばされ、右耳から肩をえぐられ、腕がほとんど根本からちぎれかかった。大量に出血し、ニューロは風化したかつての街の残骸の只中で動けなくなった。
遠のく意識の中で、バッタ型ヴァーミンの狂ったような動きでフラーが蹂躙されているのが見えた。フラーの悲鳴は聞こえない。聴覚がおかしくなっているのか、それとももうフラーは……。
別の場所では、ダニ型ヴァーミンの生き残りが頭のないジョン=Cの死体をボリボリと食い散らかしていくのがわかった。ヒトの顔のついたダニが、口を開けてジョン=Cの死体を貪っている。骨ごとだ。時おり服の端を吐き出しているのがわかり、ニューロの薄らぐ意識は黒い熱を持った。
「サッサとソイツも食ってシマえ。金剛環ヲ再始動させロ」
――再始動?
やっぱりこいつら、持ち込んだ金剛環でどんどん増えようとしている。
――僕たちのご先祖が住んでいた場所に自分たちの巣を作る気だ。
ニューロは動かない身体を無理に動かそうとした。だが余計に血が吹き出して起き上がることはできない。
――どうすればいい、僕はどうしたらいいんだ。フラー、ジョン=C、誰か教えてよ……。
突如、口の周りを血肉でどろどろに汚したダニが爆発し、胃の中に収まったジョン=Cだったものが撒き散らされ、その一部がニューロの手のひらにかかった。体温が残っている。
何事かわからないままヴァーミンたちはうろたえ、瞬時に影から現れたビィの存在に気がつくこともなく切り刻まれた。全身を黒檀革のスーツに包み、漆黒のフルフェイスヘルメットをかぶったそのビィは、手に武器を持たず、霊光を帯びた手刀だけでオケラ型とダニ型ヴァーミンをバラバラの肉片に変えた。
最後に残ったバッタ型ヴァーミンは、ぐったりと動かないフラーを抱え上げ、謎の黒いビィの前に盾とするかのように突き出した。
黒いビィは一瞬躊躇し、足を止めた。
そこから先に何が起こったのかは曖昧だ。
出血のあまりもうニューロの意識は限界だった。
――もう僕たちはおしまいだ。
暗く沈んで、闇の中でニューロはそう思った。