10 比翼連理
胎蔵槽から生まれる小生たちビィに、ありきたりな禁忌を持ち込むのは愚かです。
――”ギガロアルケミスト”ゲオルギィの言葉
いつしかハチミツの大海は浅瀬になり、結晶化した糖分の砂浜が見えた。
発掘船の動きは自然と緩やかになり、最後の目的地、巨大主機関樹『連理』のある永久糖土へとたどり着いた。
「ずいぶんあっさりとしたゴールだな」
乗組員のひとりが言った。
永久糖土は見渡すかぎりの平原で、どこまでいっても凹凸のないつるりとした平面になっている。山もなければ谷もない。最後の敵が篭っているような城も何もなく、建築物そのものが見当たらない。
「見て。下は全部透明だよ」
ベルが足元を不死ホタルライトで照らすと、糖土は空気の入っていない氷のように澄んでいて、はるか下方まで光が届いた。
「あれが連理、か?」
また乗組員の誰かが、現実感に乏しい風景を前に呆然としながら口を開いた。
糖土上層から見てはるか下方に、ねじり合う凄まじく大きな主機関樹の灰茶色の樹皮らしきものが見える。そこにへばりついている樹冠のように大きな白い毛皮も。
世界羊だ。
そのサイズは想像を超えたものであり、連理から引き剥がすのはとうてい不可能なように思えた。それ以前に、分厚い永久糖土を掘り進んで世界羊のところまで届くことさえ困難を極めるだろう。
「発掘砲を真下に向けて撃ちこんだらどうにかできるでしょうか?」とウル。
「そうせざるを得ないだろうね。休憩したら糖土を融解できる門術とを組み合わせてみよう。ここまで来て世界羊を止められないなんて、あってはならないことだ」
セーブルは厳しい顔で答えた。引くわけに行かない状況だが、相応の労力が求められる。乗組員全員の力を合わせてもそれが可能かどうか。
「よし、まずは発掘砲でどこまで穴を開けられるか試してみよう。もうひと踏ん張りだ、諸君」
船長の号令に、乗組員たちは疲労をにじませながらも己の役割を果たした。全員が、伝説の中にしか存在していなかった連理と世界羊を前に軽い興奮状態にあり、少しでも早く直にお目にかかりたいという思いが背中を押していた。
ベルは少し休みたいと文句をたれたが、ウルの励ましで作業に参加した。
大変なのはこれからだ。
*
最初の一撃が発掘砲からほとばしり、永久糖土の表面を削りとった。
その威力は確かなものだった。
しかし分厚い、分厚すぎるほど分厚い糖土を掘り下げるというには出力が不足していた。
*
セーブル初め乗組員たちは方針を早急にまとめなければならなかった。
発掘船に接続されたままの発掘砲は射角の問題で水平より下に撃つのは難しい。
セーブルがテレパスで眠れる子羊に対処の方法はないかと尋ねたが、返答は酷いノイズにまみれていた。どうやら世界羊を目前にしてひどい悪夢を見ているらしかった。理解しづらいが、羊たちはお互いに自分の夢で現実を改変しようとしている。ここまで世界羊に近づけば夢の力の激しい攻防となり、押し込まれればそれが悪夢となってしまうようだった。
そうなると発掘砲よりもビィによる門術を使うほうがベターな選択となる。
乗組員の中で最も強力な門術使いはベルであり、太陽の門を開いて直下に熱を投げ込めば永久糖土も溶けて焦げた水飴と成り果てるだろう。
さらに門術使いがそこに協力し、発掘砲の力も合わせれば……。
「いや、全てを門術に頼ったら限界があります」
ウルは慎重そうにそう言って、一同を見回した。
「門術を使い続けていればいずれオーバーヒートを起こす。そうなったらすぐには門を開けなくなって、休憩せざるを得なくなる」
「そんなことを言っていたらいつまでたっても世界羊にゃ届かんぞ」と乗組員の中でも年長の男が抗議した。
「確かにそうです。でも、妙だと思いませんか?」
「妙?」
「はい。ここは世界羊のお膝元なのに、抵抗が全然ない。これまでの進んできた航路ではさんざん怪物が襲ってきたのに、ここだけ静かなのは変だと思いませんか?」
乗組員たちの間にもやもやとした空気が流れた。ウルの言うことももっともで、上陸する前はもっと激しい戦いになることも視野に入れていたのは事実なのだ。
「もしぼくなら、門術で力を使い果たしたところを狙って怪物をけしかけるか……もっと直接的な行動に出る」
「直接的って?」とベル。
ウルは発掘船を振り返り、言った。
「眠れる子羊を、眠ったまま二度と目覚めないようにするんだ」
そのとき、ウルの懸念が実現化したように、永久糖土の平原が突如振動を始めた。
*
糖巨神と急遽名付けられたその巨人は、永久糖土そのものがブロックのように切り分けられ、それが積み重なってできた一種のゴーレムだ。
とてつもなく大きい。
もし発掘船にそのまま突撃されれば、良くて横転、悪くすれば完全に破壊されてしまうほどの巨大さ、そして力強さを備えている。
「もー、ウルが変なコト言い出すから出てきちゃったじゃない!」
ベルに文句を言われても、ウルには笑って返せる余裕がなかった。噂をすれば影というがここまで大きな影だとは想像できなかった。
「総員戦闘準備だ、船には一歩も近寄らせるな!」
セーブル船長の怒声が飛ぶ。恐怖の匂いが乗組員たちの間に充満する。しかしそれ以上に、ここ、いままさにこの場所が踏ん張りどころだという意識が退くことを許さなかった。
ウルは自分に求められている役割を果たした。
マルチブレードでコロッサスのすねを叩き切り、そのまま巨体を駆け上がって凶悪な顔面をメッタ斬りにし、ビィの力でもこの怪物を倒せることを乗組員たちに示したのだ。
一体目は大きく体勢を崩し、糖土につんのめってバラバラに崩れた。ウルの切れ味の良い動きが乗組員たちの心に火をつけた。
しかし二体目、三体目の糖巨神が糖土の中から生えてくると、全員がたじろがずにいられなかった。
さらに数体の同型同サイズのコロッサスが彼らを取り囲む。
「マズい! 一体が船の方に行った!」
乗組員のひとりが叫んだ。ひとつひとつ現れるならかろうじて破壊はできる。しかし何体もの糖巨神に囲まれては、ハチミツの海に停泊する発掘船を守りに行けない。
「太陽の門! 『尽く焼きつくす焔の裁き』!」
ベルの門術が展開された。上空の何もない空間に溶岩が現れ、炎の滝となってコロッサスを押し流した。すさまじい音を立てて糖土が融解し、蒸発していく。到底身体を維持できず、コロッサスはその足元ごと焼けただれて沈んだ。カラメルの焦げた煙の向こうには難を逃れた発掘船が見える。
何とかやり過ごしたものの、すでにコロッサスの数は10体を越え、底なしに糖土から生えてくる様子だった。
ここは世界羊の支配領域、そのまさにど真ん中である。己の身を守るために、大規模な夢を見て現実を改変しているに違いない。
――数が多すぎる。
ウルは唇を噛んだ。ベルとのコンビネーションで2、3体は沈められるだろう。他の乗組員も素人ではない。これ以上数が増えなければ、最後に勝つのはセーブル率いるビィ側だ。
しかしコロッサスは減るよりも早く糖土を切り崩して立ち上がってくる。それらを全て斬り伏せるのはいくらなんでも体力が続かない。持久戦に持ち込まれたら勝ち目はない――そして局面はすでに持久戦の様相を呈し始めている。
殴りかかってくるコロッサスの巨大な拳を横に滑ってかわし、手首を両断する。その背後では三人がかりでの攻防が展開され、ウルがそこに加勢しようとするも新たな一体が足元からぬうう、と巨体を起こした。
「どけえ!」
怒声とともにマルチブレードを振るい、切り刻んでいくも巨体過ぎて致命打を与えられない。やむなく内門を開け、『瞬息』でコロッサスの肩に高速移動、そこから側頭部を斜めに切り裂いて行動を停止させた。
「頭を潰せば動きは止まります! みんな、頭を狙って……!」
混乱の中、声を張り上げるウルだったが、動かなくなったコロッサスの上から状況を眺めて絶句した。
残っている乗組員があと何人いるのか確認できなかった。コロッサスの巨体のせいでクレバスが生じた永久糖土には原型を留めない赤いピューレがいくつか見えた。誰なのかわからない。だがすでに数人がコロッサスに叩き潰されているのだ。
「ベル! ベル! どこにいる!? 返事して!」
「ウル! ここだよ! 早くわたしたちで」
「わかってる!」
ウルとベル、ふたりの共感能力によるコンビネーションの絶技が、残存コロッサスを10秒で破壊。その数、実に6体にも及んだ。
だが永久糖土に倒れ伏すコロッサスを乗り越えるように新たな巨体が現れる。
「だめだ、きりがない! 一度発掘船まで撤退だ!」
セーブルが指示を叫んだ。態勢は完全に崩れてしまった。これ以上対抗しても数の暴力には勝ち目がない。
すでに潰されてしまった仲間の遺骸は、一部分を拾うことさえままならなかった。
*
信じられないことが起こっていた。
発掘船は接岸されていた場所ではなく、まったく違う位置に移動していた。
澄んだ黄金のハチミツを垂らしながら発掘船は垂直に倒立し、ウルたちの頭上に浮かんでいた。
*
直下への発掘砲砲撃および発掘船衝角突撃――つまり下向きに放たれた光線と船の垂直落下により、永久糖土にクレーターが穿たれた。
発掘船の船体は世界羊の夢に対する抵抗力を持ち、甘波の只中に放り込まれても菓子化しない。眠れる子羊のもつ現実改変能力が逆位相に作用して打ち消し合うからだ。それがなければウルたちは世界羊の夢の中心地にまでたどり着く前にクッキーか何かに変えられていただろう。
その船体が垂直に永久糖土に突き刺さった。大爆発が起き、無数の糖巨神が吹き飛んだ。
灼熱した鉄の棒を氷の塊に落としたかのように、糖土を蒸発させながら垂直に船体が突き抜けていった。そのさまは、もはやウルたちの手に負えるものではなく、ハチミツの浅瀬に身を伏せて事が終わるのを待つしかなかった。
待った。
そして、ひとつの終わりが訪れた。
世界羊の夢が覚める日が来たのだ。
*
世界羊は長い年月を眠りすぎ、長い時代に君臨しすぎた。
本来であれば、世界羊の現実改変能力は現状の甘波のような圧倒的なものではなかった。シープ大迷宮の中を点々と縄張りに分かれてひっそりと眠り続けるだけの、比較的無害な迷宮生物に過ぎなかった。
一匹の超巨大世界羊の存在により迷宮それ自体に強烈な影響をあたえるようになったこの数百エクセルターンこそがいびつな状態なのだ。
元は眠れる子羊と同じ普通の世界羊だったその一匹が、聖蜜を口にしてしまったことから全てが後戻りできなくなってしまった。
その羊は、世界羊の個体としてはあまりに異質になり、巨大化し、眠り続け、半菓子状態になりながらなおも眠り続け、夢を見続けた。
現実は改変され、迷宮の壁も床も糖蜜と乳製品に変換され、迷宮全域に甘波として猛威を振るった。
ビィは甘波により居場所を失い放浪を余儀なくされ、その一匹の羊以外、他の世界羊たちの居場所も奪われた。世界羊は夢を見ることをやめられない。巨大な夢はマイナーな夢をかき消し、弱い個体はみな眠れずに死んでいった。眠れる子羊という個体以外には。
そう、眠れる子羊は、その一匹の羊以外に唯一生き残った世界羊だったのだ。
子羊は最後の手段としてビィとの協力を選択し、セーブルたちの手を借り、また手を貸すことで甘波の中心、夢の中心へと行き着いた。
そうしなければ、世界羊という種は最大の一匹を残して滅んでしまう――そう考えた結果だった。
その日。
ついに両者は対面した。夢のなかで。現実で。
羊が一匹、羊が二匹……。
*
泣いているビィの子供がいた。
男の子と女の子で、ふたりのうち男の子は死んでいた。
羊は理由を尋ねた。
その時代、ビィたちの間では深刻な食糧難が起こっていた。
ビィの子供は、口減らしのために成体になる前に探索者になったというていで捨てられた個体だった。
連れ添ったもうひとりを失い、女の子はすべての希望を失っていた。
羊は哀れに思って子供に夢を見させた。
それがお菓子の国だった。
*
「加減を間違えたのさ、そのヒツジさんは」
セーブルは分厚い永久糖土をかかとで踏みしめた。はるか下に眠り続ける世界羊に行き場のない思いをぶつけるかのように。
「現実改変能力でそのへんの石ころをケーキにする――という程度でも十分だったはずだ。それをかの世界羊はビィ全体の食糧危機まで救おうとしてしまったらしい」
大世界羊と眠れる子羊は夢のなかで対話を続け、その話を強力なテレパスであるセーブルがウルとベルたちに説明をしているという状況である。
「ともかく、その羊は当時の蜂窩に連れてこられ、格好の食料生産装置に使われたらしい。そのことが羊にとって幸せだったのか、今となってはわからないことだがね」
そうして世界羊は要求され、要求のまま食料を与え、さらに多くを求められ、それに応えた。
行き着いたのは、超巨大主機関樹・連理から分泌される12迷宮全体でも極めて貴重な聖蜜を与え、そこに秘められた力全てを食料生産に使えという『命令』だった。
「細かい経緯はわからないが、何事も便利なものほどエスカレートするものだ。羊は蜜をくらい、ブクブクに太って、今までで最大の夢を見てしまった。それが甘波だ」
最初に羊が出会った子供がどうなったのか、もはや記録も記憶も何も残っていない。その一匹の羊は、ただ請われるままに飢えを満たしただけで、それ以外に何か大それたことを考えていたわけではないだろう。
欲を優先したビィが悪いのか?
聖蜜を迂闊に扱った罰なのか?
それとも全ては世界羊の罠だったのか?
ともかく甘波は起きた。
じわりじわりと連理周辺を菓子状態におき、年月とともに膨れ上がっていく。
すでにシープ大迷宮は3分の1が完全に甘波に埋もれ、加速度的に全てが埋もれていこうとしていた。
「少なくとも、私たちはそれを防いだ。払った犠牲はおおきかったが……こうしなければ甘波を止めることはできなかっただろう」
セーブルはそういい、腰掛けていたコロッサスの残骸から立ち上がって生き残りの乗組員を見た。セーブル自身を含めても6人。出航時から随分と減ってしまった。
それでもいま、自分たちは生きている。
甘く優しい、羊の見ている夢の中で。
もうすぐ覚める、夢の終わりに。
*
大いなる世界羊は目を覚まし、お菓子の国の夢は終わった。
数百エクセルターンぶりに現実に戻った羊はそのまま息を引き取った。今わの際に何を思っていたのか、セーブルのテレパス能力をもってしても解読は不能だった。
半壊した発掘船の中では、眠れる子羊が疲れ果てて眠りについた。ずっと眠っていて、夢を見て、まだ眠るつもりなのかとベルは呆れたが世界羊とは元々世界の夢を見る迷宮生物に過ぎないのだ。
最後の最後に現実改変能力を使い、懐かしの蜂窩へ帰還するための新しい船を無理やり造らせたのはベルのファインプレーだった。危うく連理から歩いて帰らないといけないところだったからだ。
連理のまわりにはまだ永久糖土が覆いかぶさっていて、新しい蜂窩を築くには少なくとも数十エクセルターンは要するだろう。
――わたしたちの子供ならそこに住めるようになるかな?
ベルはぼんやりとそんなことを考えて、この世で一番大切な自分の半身のことを見た。優しげで、でも強くて頑固者。思わずへその下がむずむずしてきて、ベルはウルの首っ玉に抱きついた。
「どうしたのベル、いきなり?」
「なんでもない。しばらくこうさせて」
「うん……」
これから先、甘波の止まった迷宮で、ハイヴで、何が起こるのか。
きっと誰にも何もわからないだろう。
もしかしたら、今までとはまったく逆に食糧難になって、飢えて泣く子供が出るかもしれない。
それはウルとベルのふたりにも言えることだ。
だから、今この時は少しでもくっついていたい。そんな気分だった。
ベルはウルの喉元に顔を埋め、深呼吸した。
もう子供ではない、男の子の匂いがした。
*
その後。
ウルとベルはアドラー蜂窩に戻ったあと、甘波の残滓が引ききらぬシープ大迷宮を征く探索者として故郷を後にした。
ウルとベル。
双子の姉弟とその愛の行方は、いずれ語る時が来るかもしれない。
確かなのは、いついかなる時もふたりは離れることなく進み続けるであろうということだけだ。
果てしなく巨大な、絡みあう連理のように。
シープの章 おわり