02 シグムントのセーブル
すみません、小生、甘いモノは苦手でして。
――”ギガロアルケミスト”ゲオルギィの言葉
とろけたバタークリームに覆われた地面は油をまいたように滑りやすい。
クリームの大波を浴びた亜音速モノレールは線路がツルツルになってしまって脱線し、運行できなくなって久しい。メンテナンスの限界を超えていて、再び走れる日はおそらく来ないだろう。
だからダイセツ蜂窩にたどり着こうと思えば徒歩で行くしかない。特別な歩法で急いだとしても3、4ターンはかかるはずだ。
あらゆるものが白いクリーム、チョコレート色に沈んでいく。
昨日まで通れた道がクリームの雪崩でふさがり、あるいは壊れやすいクラッカーに物質転換して、ウルとベルはその度に進むルートを変更することを余儀なくされた。
「もお、キャラコに貰った地図、ほとんど役に立たないじゃない」
足首までクリームでベトベトになったベルが不服そうに唇を尖らせた。最新情報だったはずの等高線をさらに一回り超えたところまで甘波が押し寄せ、通れる場所が削られているようだった。
「しかたないよ。事態は思ったより早く進展していたってこと」
ベルの神経質な物言いにウルもまた唇を尖らせた。そういう仕草は双子の姉とよく似ている。
結局、ふたりは大きく迂回するルートを使わざるを得ず、音波探知の門術で地形を探り探りしながら先を急いだ。
一歩ずつ、着実にという言葉が好きではないベルのむくれ顔は、ウルの説得でもなかなか緩むことがなかった。
*
騒然としている。
ダイセツ蜂窩の、複数の壺を逆さに伏せたような姿が見え始め、ようやく到着かと一息ついた矢先のことである。まだ距離はあるものの、何か大きな声で複数のビィたちが怒鳴り合い、ざわめきが広がっていく様子がかすかに聞こえてくる。
「ベル、休憩はなしだ。急ぐよ」
言うやいなや、ウルはダイセツの方へと駆け出した。
「ちょっと、待ってよウルったら! もう!」
ベルは飲みかけの黒根コーヒーのマグを慌てて飲み干してからウルを追いかけようとして――思い切りむせた。
*
「無茶を言わんでくれ、我々はまだこの蜂窩から離れる気はない」
ダイセツ蜂窩の代表は、その男に対してあからさまな懐疑の目を向けた。
無理もない。いきなりやってきたその男は、蜂窩を捨ててひとり残らず移住するように提案してきたのだ。
「いや、移住すること自体はいずれ決断が必要だと認識はしている。だが今日いきなりそうしろなんて、ちょっと性急に過ぎるんじゃないか」
男はそれを聞いて、つまらなそうに肩をすくめた。
「今日も明日も同じですよ。このハイヴは終わりだ。立て直す方法はない。そうでしょう?」
「確かにそうだが、しかし……」
「条件が折り合わないとでも?」
代表は苦い顔でうなずいた。
「君の言うことには、その……条件付きで賛成ではあるんだが……」
「仕方のない事です。我々の蜂窩だって無条件に人口を増やせるほど余裕が有るわけじゃない。衣食住を提供する代わりに労働力になってもらうというのは、そんなに難しいことですか?」
「しかし……」
「もう一度考えてください。今でなくても構わないということは、今であっても構わないのと同じでしょう。そして我がシグムント蜂窩は今すぐにでも働き手を探している――あなた方が少々高齢の個体であったとしても、ね。ですから……」
男はそこで急に言葉を区切り、代表とのやり取りを見物する取り巻きの片隅にまだ若いふたりのビィの姿を見つけた。
「失礼、彼らは?」
「うん? この蜂窩のビィではないな……おそらくアドラー蜂窩からの伝令か何かだろう」
「なるほど。おーい、そこのふたり! そうそう、そこのキュートなふたりだ。ちょっと話をしたい」
男は――シグムント蜂窩からの来訪者は、ウルとベルに声をかけるやいなや、ふたりをダイセツ代表の元へと半ば強引に引っ張りこんだ。
*
男の名はセーブルといった。
背が高く整った容姿。少し場違いなくらい派手な服を身にまとい、体のあちこちにはきらびやかなアクセサリをつけている。伊達男といった感じだ。
シグムント蜂窩出身というそのビィは、ウルとベルと同じ目的でダイセツ蜂窩に訪れたという。つまり、もうじき甘波に見舞われるダイセツ蜂窩を放棄し、一緒に新天地を目指そうという提案をしに来た、というわけだ。
ただ、全く同じ提案というわけではない。
アドラー蜂窩のウルたちは自らの共同体に合流して一緒に逃げるべきだと呼びかけるのに対し、セーブルはダイセツの住民たちを労働者としてシグムント蜂窩に招き入れたいという趣旨だった。
「シグムント蜂窩は規模が大きいし、甘波に巻き込まれるのは計算上まだ余裕がある。すでにダイセツ蜂窩から移り住んでいる住民も多いんだ。働き手が多いほうがいい」
「しかしだね、ここに残っているのは年寄りが多い。甘雪かきくらいなら手伝えるだろうが……」
ダイセツ蜂窩の代表者はあからさまに難渋を示した。
ダイセツ蜂窩の少々くたびれた住民たちは、セーブルの提案にざわついた。故郷を捨てるなら蜂窩と一緒に沈んでもいいと考えていたビィも多い。だが仕事があって、お荷物ではなく労働者として扱われるのなら移住してもいいという意見があぶくのように広がっていく。
「それならそれでいいんじゃない?」
ベルはセーブルの言葉をあっさり肯定した。
もともとベルは移民受け入れに乗り気ではない。寂れてしまったとはいえ、人口はアドラー蜂窩よりダイセツ蜂窩の方が多いのだ。アドラーで移民を引き受ければ人口比が入れ替わって、共同体の舵取りまで持っていかれるかもしれない。よく知らないジジイに仕切られるような流れは面倒だ。
ベルにとってはアドラーやダイセツのことは比較的どうでもいい。自分の体の一部に等しいウルと一緒にいられるかどうかが問題で、わざわざ面倒事を背負い込むのは気に入らない。
ウルは違う。
寛容で生真面目なウルは移住者も全部飲み込んで、その上で秩序を保つために奔走するはずだ。ウルはそういうビィで、そういう弟なのだ。
「いちお、わたしたちの代表と話ししてから……あっ、それなら初めからそっちから連絡とってもらえばいっか。ね、ウル?」
話を振られたウルはわずかに眉をひそめた。
師であるキャラコからはダイセツ蜂窩の住民の説得を命じられているので、今この場で独断するわけにはいかない。ベルの言うようにキャラコと直接話してもらって意見をまとめるというのは理にかなっている。
「ちょっとまってください」とウル。
「なんだい?」
「アドラーとシグムント……どちらのホームタウンが移民を受け入れるにせよ、ダイセツのひとたちの意見を尊重しないといけないと思います。それに、別にどちらかが全員を……」
「……引き受けなければならないという話ではない、と」
「はい。問題は甘波をどうやって防ぐか、どこに逃げるかです」
ウルの受け答えに、セーブルは白い歯を見せて笑った。
「そうだね、キミの言うとおりだ。では連絡を取ろう。チャンネルを教えてくれるかい?」
「はい、じゃあこれを……」
「いや、通信機は要らない。私はこうみえてテレパスのエキスパートクラスでね。門術で事足りるよ」
それを聞いて、ベルはいけ好かないと感じた。
門術で蒼天の門を開き、見えない糸電話を飛ばすのが、通信装置を除けば最も確実な遠隔通話の方法だ。とはいえ通信先を目視できるか、通信場所にあらかじめ接続チャンネルを開いておくかでないと難しい。見た目の若さに反して強力な門術使いであるベルでさえ、通信機の補助を受けてでないと通話が安定しないのだ。
おまけにセーブルはアドラー蜂窩の出身ではない。馴染みのホームタウンでない場所と通信するのは、少なくともベルには不可能なことだ。
それをあっさりこなせるよと言われると、何となく腹が立つ。
――ふふん、失敗して恥かけばいいのよ。
ベルは意地悪そうな笑いをおくびにも出さず、通信チャンネルの記号化されたアドレスを告げ、セーブルの反応を待った。
*
ひとまずセーブルとキャラコの話し合いは終わった。
ベルがひきつった愛想笑いを作るほど通信はスムーズだった。
*
「どうやら思ったより大ごとになりそうだ」
言葉に反して何事もなかったかのようにセーブルはウルとベル、そしてダイセツ蜂窩の代表者の顔を見比べた。
「大ごと、かね?」とダイセツの代表。
「ええ。私はアドラーとシグムントの両方で移民希望者を受け入れるという方向で話をすすめるつもりだったんですが。彼女は別の提案を出してきまして」
「あの、それってもしかして――『大同団結』ですか?」
ウルが戸惑いつつそういうと、セーブルはキミは鋭いねと手を広げて感心した様子だった。
「大同団結? どういうことなの、ウル?」とベル。
「全部一緒になるんだ」
「全部?」
「つまり、アドラーもシグムントも、このダイセツも、ぼくら全員が合流して新天地を目指すってこと」
ベルはこくんと息を呑んだ。
それは確かに大ごとだ。
この辺りの蜂窩の力関係が全部位ひっくり返ってしまう。
しかしセーブルの表情は涼しげで、ひとりだけ余裕を保っていた。
誰もが皆、彼の言うことに従うだろうと何ひとつ疑っていないかのような……。