01 甘波襲来
初めに女がいた。
女は己の身を隠すため迷宮を産み、迷宮はさらに迷宮を産み、十二の大迷宮が連なる世界を造り上げた。
いつしかそこは迷宮惑星と呼ばれるようになった。
迷宮惑星を構成する12大迷宮のひとつ、シープ迷宮。
そこには世界羊という迷宮生物がいた。
巨獣の暴走がいつ始まったのか、その原因が何なのか、今となっては誰も知る由もない。
全ての迷宮を見渡してもまれに見る、とてつもない巨大さを誇る主機関樹『連理』はその世界羊に乗っ取られ、迷宮は夢のような――悪い夢のような――お菓子の国に変貌した。
*
シープ迷宮は、かつては高低差の激しい地形で知られ移動に難渋する厳しい環境だった。
ほとんどのビィ――ヒト型知的生命体――は空を飛べない。上下の移動には垂直列車などが用いられているがその数は多くなく、場所によっては階段や縄梯子、ひどい所になると壁に張り付いて直接昇るしかないところがほとんどだった――とされている。
今では大きく変わった。往時の姿を知るものはもういない。
『連理』を支配した世界羊は、樹が分泌する聖蜜と呼ばれている特別な物質を独占し、本来であればビィが加工して利用するその蜜を使って迷宮の実に3分の1にあたる面積を甘い香りのする菓子に作り変えたのである。
甘波。
シープ迷宮の険しい段差と垂直に伸びる壁や柱はジャムやクリームの塊となり、溶け落ちて谷間を埋めた。広い地面はパンケーキに。光導板は飴細工にかわり、そびえ立つバタークリームの尖塔はチョコレートブロックに舗装され、マジパンのテーブルチェアが客をもてなすように並んでいる。
なぜこんなふうに?
世界羊の特異な生態がそれをもたらした。
羊は夢を見ている。
その夢は現実を侵食する。
聖蜜を触媒に、壁と言わず地面と言わず、あらゆる物体が甘い甘いお菓子に変換されかつての地形を覆い隠しているのだ。
それは一種の門術――魔法のような力によるものだが、規模は段違いだ。
甘波は夢まぼろしではない。実体であり、触れることができ、質量を持つ。シープ迷宮に住むビィたちは、そんなお菓子の世界に囲まれながら生活をしていた。
巨獣・世界羊はシープ迷宮の中で数百エクセルターンに及ぶ恐ろしく長い期間を眠り続け、その結果迷宮は今も増殖するお菓子に作り変えられ続け、とどまるところを知らないかのようだった。
あたりまえの屋根と天井のある迷宮で活動するビィと、シープ迷宮に住むビィたちは、その暮らしぶりが大きく異る。
どの迷宮でも行われている一般的なビィのくらしの中では、迷宮生物を狩ったり家畜化したり、あるいは生活の中心となる主機関樹の根や花を加工することで生活物資を得ている。
これが一般的であるとしたら、シープ迷宮の住人はずいぶん楽をしていることになる。
甘波は羊の悪夢が織りなす災いである一方、極めて大量な食物でもある。だから汚れていない菓子を切り出して、自らのホームタウンへ持ち帰ってしまえばいい。菓子はまぼろしではないのだから、そのまま食べることも、さらに加工することもできる。腐っていないかぎりは毒性もなく、カロリーも十分ある。甘波を利用するだけで十分生活が成り立つのだ。
世界羊がなぜ迷宮を膨大なお菓子だけの環境に作り変えたのか。それを解き明かした探索者は未だ現れていない。謎は謎のまま、真実は世界羊の眠りの中にとらわれているらしい。
百エクセルターン単位でそのような生活が続き、シープ迷宮は迷宮惑星の中で最も平和な場所とさえ呼ばれるようになった。
だが世界羊の寝返りひとつでその平和は揺らいでしまう。
誰かが気づいた。
甘波の勢いが、年を追うごとに増していることに。
*
ビィ――迷宮に住まうヒト型生命体にとって、光と水の存在は不可欠だ。それは食料の有無よりも優先される。恵みの光をもたらす天井の光導板や清潔な水がなければビィは生きていけない。とりわけ人工子宮である胎蔵槽から生まれてくる新生児たちには。
甘波はその領土を年々広げ、ついにははるか高みにある天井にまでクリームの塔が届いてしまった。そこからさらに増殖し、いまでは濃密な砂糖菓子のつららが生えるようになり――それは際限なく数と大きさを増やし、光導板の光さえも遮り始めた。
同じように、水源もいつしか糖分と炭酸が入り混じったサイダーになり、単なる水としての利用が難しくなっていった。飲んで甘いだけなら構わない。だが清涼飲料水の風呂に入りたいビィは珍しいし、精密機器の洗浄に使うには不純物が多すぎる。
ビィたちは選択を迫られた。
蜜に満たされた環境に何らかのフィルターを施して水を浄化するか、もしくは世界羊の夢を覚まして甘波の侵略にそのものに歯止めをかけるか。
このふたつのいずれかを実行しない限り、いずれライフラインは破滅に追い込まれる。
甘味が全てを押しつぶそうとしていた。
*
ウルとベルはビィには珍しい双子、それも男女の双子だった。
人工子宮・胎蔵槽はふつう一度にひとりの新生児しか生み出さないが、何かの拍子に胚の段階でふたつに別れ、双子として生まれることがある。便宜上、ウルが弟、ベルが姉ということになった。
甘波のふちにある生活共同体、アドラー蜂窩で生を受けたふたりは、その生まれの珍しさも手伝って特別大切に育てられた。
実際ふたりは特別だった。共同体内の子供の中では抜きん出て才能に恵まれ、特に門術の適正は大人顔負け――というより共同体の誰よりも優れていた。胎蔵槽が何か普通とは違う働きをした時、生まれた新生児は特殊な能力を備えることがあるという。ふたりはまさにそれだった。
大人たちは、このふたりはいずれ自ら探索者の道を選ぶだろうと考えた。ウルもベルもそうすることに疑問は抱かず、誰かの都合というよりはなるべくして探索者になった。強い力と強い好奇心を併せ持つビィは自然とそうなるものだ。
「甘波は日に日に勢力を広げつつある――この期に及んでね」
蜂窩の代表を務める女ビィ、キャラコはウルとベルを前にして切り出した。
「この蜂窩はほんの50エクセルターンまではクリームの波から外にあったはずなのに、今はあなたたちが知ってる通り。もう半分近くが埋もれてしまったわ。私の生まれた家も飲み込まれて、もうビスケットとスポンジに変質しちゃってる」
キャラコが言うように、波は増殖の規模が大きくなっている。もはやウルとベルの生まれ故郷はその波から逃れられそうになく、全てが甘い波に飲み込まれるのは時間の問題といったところだった。
「それで、わたしとウルに何をしろっていうの? 引越の手伝いなら他のビィに任せたら?」
ベルの小生意気な言葉遣いにキャラコは苦笑し、ウルは双子の姉の礼儀知らずに慌てて袖を引いた。
「最悪の場合はそうなるわね。私たちの住まいはもう10エクセルターンももたない。このままじゃあね」
「このままで終わらせない方法なんてあるの?」とベル。
「方法はあるわ。でも非現実的」
「まさか連理から世界羊を引き剥がすとか、そういうこと?」
「そうね」
「無茶よ。世界羊の大きさは多分この蜂窩全体を上回っているはずでしょ。そんなのをわたしとウルに討ち取らせようって? そもそもチョコとクリームに埋もれて近づくことさえできないわ。無茶よ無茶」
キャラコは再び苦笑いしてそうねとうなずいてから、話は最後まで聞きなさい、と怖い顔をした。
彼女は門術の中でも内門――体内で力を爆発させるタイプの使い方――に精通していて、剣術をやらせれば達人級の腕前がある。
「どうしようもなくなった時の引越し先は私たちで探しておくわ。あなた達には別のお願いがあるの」
「何を?」
「ふたつあるわ」
指を器用に立てたキャラコは、まず一本目を折った。
「ダイセツ蜂窩は知っているわね。あそこに話をしにいって頂戴。私たちと合流して行動を共にする気があるなら受け入れる用意がある。そうでないなら……一生チョコまみれになっていろって」
「あは、おもしろい」
「そんなこと言っちゃだめだよベル」
弟のウルはそこでようやく口を挟み、姉のことをたしなめた。線の細い美少年といった風貌だが、キャラコ直々に教えこまれた剣技の腕は鋭く、いずれ師を超えるだろうと目されている。
「あそこの人たちを見殺しにはできないよ」
ダイセツ蜂窩は古く大きな共同体で、人口も多く、その分頑迷な住人が多い。かつては世界羊が生み出すお菓子を切り出して食物として、あるいは資源として利用することに長けていたがそれも今は昔。容赦なく甘波が押し寄せつつあり、飲み込まれることは避けられない。おそらくはアドラー蜂窩よりも早く。客観的には誰もがそう見ている。まだ動きやすい若者たちは多くダイセツを出てしまって久しい。故郷を捨てられない老齢のビィばかりが逃れることを拒否し、いわば居座っている状況だ。
「どうせ無駄よウル、あそこの連中が簡単に動くわけないじゃない」
「それでも最後に一回だけは説得してみよう。それでダメなら」
「諦めるって? もう、ウルは優しすぎるのよ……」
ベルは唇を尖らせたが結局はウルのいうことに従った。ベルは何事にも少し斜に構える性格で、皮肉屋といっていい。唯一の例外がウルに対する態度だ。生まれた時からずっと一緒に育った双子の弟にだけは特別に甘い。
「まあいいわ。それでふたつ目は?」とベル。
「ゴアテスのチームが探索に出てるのは知っているわね?」
「新しい資源ブロックを探しに行ったって話?」
甘波のおかげで食料にはこと欠かないが、それ以外の資源は時を追うごとに少なくなってきている。お菓子の波に飲み込まれて採集できなくなっているからだ。ビスケットの屋根に飴細工の窓できたお菓子の家というのは子供には受けがよくても実際に寝起きするのは楽ではない。少なくとも炊事洗濯をするには向いていないだろう。
だから生活必需品となる資源を求め、探索者が共同体の外で活躍しているのだ。
「そう。でももう10ターンも経つのに帰ってくるどころか連絡も通じないの」
「それを探せばいいのね?」とベル。
「ご名答。ゴアテスたちは一番の腕利きだからそう簡単に失踪するとは思えないけど、そうも言っていられない状況ね」
「どの辺りで消息を絶ったのかわかる?」
ウルが問うと、キャラコは何度も赤で修正の入った古い紙地図を引っ張りだした。等高線のような赤い線は、年々押し寄せてくるを表している。
「ここが最後に通信があった場所」
キャラコは、迫り来るクリームの波とは反対側の――つまりまだ甘味の海に沈んでいない場所の一角を指さした。
「そこから先の動きは不明で……」
「遭難。失踪。それとも迷宮生物に食べられちゃったかもねぇ~」
ベルは意地悪く肩をすくめた。
「ベル、そういう憶測はやめなよ。本当に危険に陥ってたらどうするのさ」
「だあって、話を聞く限り何かに巻き込まれたに決まってるじゃない」
「決まっているかどうかぼくたちが確認すればいいんでしょう、先生?」
キャラコに剣術を指南されているウルは、町の指導者でもある彼女のことをそう呼んでいる。
「そういうこと。考えたくはないけど、ゴアテスたちが戻ってこないとすると今後の方針は転換する必要が出てくるわ。本当は私が自分で探したいくらいだけど――立場っていうのは面倒なものね」
「それでぼくたちに」
「そうね。まだ経験が浅いのは重々承知だけど、能力的にはあなたたちが一番適任。信頼の証だと理解して」
キャラコの言葉に、ウルはうなずく代わりにキュッと口元を引き締めて覚悟の程を師に示した。
一方のベルは面白くなさそうに首をひっこめ、冗談めかしてウルの背中にしがみついた。ペットの小動物がジャンプして飼い主に甘えるかのようだ。いつものことなのでウルは全然気にする様子を見せない。
「じゃあ、なるべく早く出発した方がいいよね。ベル、ベル?」
「なあに?」
「くっついてないでさ、今日すぐ探しに行こう」
「ええ~! いくらなんでも早すぎない?」
明日にしようと不服そうにするも、結局ベルは折れた。ウルは優しく穏やかな性格と強情さを併せ持っていて、言い出したら聞かないことをベルは知っている。いくら文句をつけても止められないのだ。
「決まりね。ウル、ベル。必ず生きて帰ってきなさいね? 二次災害の危険があると判断したらすぐに手を引くこと。いいわね?」
「うん」「わかってるわよ」
ウルとベルはキャラコの元から去り、早速出発の準備を整え、あっという間に町を出て行った。
その行動力に、キャラコは微笑ましくふたりの背中を見送った。だが、すぐに硬い表情に戻った。
ふたりに任せることが本当に正解だったのか。いまさらそんな考えがのしかかってきた。双子の姉弟。蜂窩のシンボルと言ってもいい。そんなふたりを万が一失ったら?
だが、心配して甘やかすだけではふたりの成長につながらない。大人としてそう判断すべきだ。
この迷宮世界は甘いモノだけに満たされているわけではないのだから。