02 白く冷たい砂漠を越えて
女はあちらからやってきて、どこにも行かず、居続ける。
――サルモンの超機行者、カスタネダ
魔が差したように厄介な流れが生じた。
次第に、次第に、三人の空気が険悪になっていった。
正確にはフラーとジョン=C、ふたりの関係が。
発端はただの軽い冗談だった。
「ジョン=C、あなた前衛なのにちっとも敵を倒せないのね」
フラーは腕の良い門術使いであり、特に『太陽』の門を得意としている。火と熱を司り、敵性体を灼くのに重宝する能力だ。迷宮生物のほとんどは耐えられない。
一方のジョン=Cも本来であれば敵の頭を踏みつぶす力を持っている。そのはずだった。
実力のせいか、運のせいか。ジョン=Cはすでに1エムターン――ひと月の長さをビィたちはこのような単位で呼ぶ――に近く経つ旅の中で、まだひとつも勝ち星に恵まれていなかった。
ジョン=Cには痛いところだった。
フラーに対し、ジョン=Cは姉弟愛よりもずっと恋愛に寄った感情を抱いていた。その相手に良いところを見せられず、体格に比べればずっと繊細な心をもつジョン=Cは密かに傷ついていたのだ。それを当の本人になじられた。
フラーにはそんなつもりはなく、ちょっとからかってみただけだ。広大過ぎる迷宮での旅と、そこに巣食う敵性体との戦いでストレスが溜まっていたせいかもしれない。ともかくジョン=Cを軽蔑するほどの意味はなかった。
ジョン=Cは、しかしプライドを傷つけられた。
この世でフラーにだけはそう思われたくない。思慕する相手に弱く情けない存在などとみなされるのはつらい。銀河を何往復しようと、何万エクセルターンの時間が経とうと、男とはそういう生き物なのだ。
くだらない口論が続き、絶えなくなり、やがてふたりとも沈黙を選ぶようになった。
いたたまれないのはニューロだ。たった三人しかいない兄弟姉妹同然のつながり。この三人の仲がおかしくなる状況を、ニューロはこれまで想像したことさえなかった。
ふたりに挟まれ、ニューロは自分から場を和ませることもできず、ただ黙ってついていくことしかできなかった。
*
レティキュラムのしなびた環境の中で、ニューロはたいてい変わり者と言われて育ってきた。
幼体期のころから胎蔵槽を始めとしたインフラをいじることが好きで、メンテナンスだけでなく自分で作り出すことに没頭していった。
最古老たちの語る伝承を熱心に聞き、失われた技術、このままでは無に帰すだけの知識を何とか吸収していこうとしていた。
それは過去の遺物をメンテナンスするだけの暮らしに退屈するフラーやジョン=Cとは違った態度で、三人組の中ではフラーが年長だがある意味ニューロこそがレティキュラムのあり方を未来へつなげていく存在だと目されていた。
探索者として胎蔵槽の電源を探す旅にでているが、これも郷土愛の変形したもので動いているのだと周りの古老たちには思われていた。フラーやジョン=Cがたとえそのまま帰らず迷宮の奥へ消えていったとしても、ニューロだけは街に戻って希望の芽を持ち帰ってくれる――そんな風に。
ニューロ自身はそこまで殊勝ではない。
電源が手に入ればそれに越したことはないが、それほど深く考えず兄姉に従っているだけだ。
自分の能力をもっと役立てられる場所があるならそちらに行く。
フラーの門術は破壊力や殺傷力はともかく、細かいことには向いていない。例えば傷の治療であるとか、巨大クレヴァスを飛び越える方法だとか、そういう非戦闘時の役に立つことは少ない。
ジョン=Cの武器を始めとした便利な道具のほとんどはニューロが作ったものだし、フラーとは違って『大地の門』や『蒼天の門』を開けることができるのもニューロの強みだ。
レティキュラム蜂窩で最後の世代としてゆっくり老いていくよりは、フラーたちと一緒にいるほうが自分を活かせる。
そう思っていた。
ところが肝心のフラーとジョン=Cが今にも決裂しそうな雰囲気を漂わせ始め、ニューロは戸惑った。このまま三人がバラバラになってしまえば、遅かれ早かれどちらについていくか決断を迫られることになるに違いない。
そう思うとニューロは乾燥薬苔の粉末を水なしで飲み込むような気分になった。
ふたりのどっちがいいかなんて選びたくない。
三人だからいいのだ。
*
カウラス迷宮第二嚢は広大で、レティキュラムの街が占める場所はほんのわずかにすぎない。
第二嚢は、名の通り嚢状の空間にになっていて、そこが縦横のひだに仕切られて、その結果迷宮のていをなしている。仕切りと言っても、その一枚一枚が横断するのに何ターンもかかる。あるいは何十ターンも。白砂漠もそのひとつにすぎない。
故郷のレティキュラムを出てすでに2エムターン近くが過ぎていたが、第二嚢全体としてはまだ数%の踏破率で、迷宮の最奥部までは遠い。
もっとも、三人の目的は電源ユニットだ。最奥部まで乗り込んでいく必要はない。それだけの装備もないし、第二嚢を踏破したとしてもその次は第三嚢が待っていて、その次は……ともかくそこまで行くわけではない。行く気になっても無理な話だ。
すでに2エムターンだ。高圧縮水筒の中身や携帯食料もかなり減っている。折り返しの期間を考えると、進めるのは3エムターンが限度だろう。
「しかしこうまで何の手がかりもないなんて。思ってもみなかったわ」
フラーは肩をすくめ、ニューロに向けて言った。ジョン=Cとの空気はまだ険悪で、会話も間にニューロを挟んでのギクシャクしたものになっている。
「なあニューロ、本当に何の反応もないのか?」とジョン=C。
「……この近くに、レティキュラムの分家みたいな場所があるはずなんだ」
ニューロが『蒼天』の門術で手元に生み出した音響地図には、ビィの生活があったと思しきポイントが点滅している。
「おじいちゃんたちに聞いた話とも一致してる。でも」
「ビィがいる気配がしない?」とフラー。
「うん。熱源も動体も反応なし。誰も住んでいないと思う」
「別に誰もいなくてもいいじゃない。電源ユニットさえ残っていれば」
フラーの言葉にニューロはうなずき、ジョン=Cも腕組みしながら不機嫌そうに肯定した。
*
ニューロの言う『分家』というのは、かつてレティキュラム蜂窩に大挙して敵性体が襲いかかってきた時に見張りを兼ねた前線基地が建設され、その名残がそのまま小さな集落になったという話に基づいたものだ。
一時期までは交易が行われていた記録が残っていて、すくなくともささやかな生活共同体として機能していたことは間違いない。住人がいつまで存在していたかは、考えるより見たほうが早い。ニューロはそう判断した。フラーもジョン=Cも、その点は異存はなかった。
「あーあ。またここから歩くのね」
フラーは天を振り仰ぎ、それから正面に向いた。高く、遠すぎて端が見えない。壁面のライトが等間隔で点いていなければ完全な暗黒世界だっただろう。
地面や壁はカーボン=プラスキン複合材で、むりやり崩して進めるほど破壊は簡単ではない。いまの三人には迷宮の巨大な道に従うしかない。
真っ平らで、全く同じ道幅のまま視界の遥か遠くまで続く、気の遠くなるような巨大空間……。
静寂の中を沈黙して歩くのは心細い。
無意識に、フラーたちは半歩ずつお互いの近くに寄って歩いた。