05 痛恨
門術とは体内をめぐる霊光を制御する技術だが、霊線を断裂させられるとそこを通るはずのレイラーが拡散し、使えなくなる。
これには閂の紋と呼ばれる特殊な紋を使うことになるが、ヴァーミンがそれを知っているというのはいかなる運命のいたずらか。
あるいは、そもそもこの世の成り立ちからビィは困難を与えられ続けているように思える。
――”銀の鍵”ランドルフの言葉
ゲインは本来門術のエキスパートである。
いまは手のひらに焼きごてで刻まれた閂の紋のせいですべてを奪われている。
もし門術を自由に使える状態で目の前の光景を見ていれば、全身の霊光がなくなるほど破壊門術をありったけはなっていただろう。
アリ型ヴァーミンは、ビィを奴隷化するだけでなく弄びそして食料にしていた。
そんなことは絶対に許されない。ビィの誇りを踏みにじる行為の中でも、これだけは絶対に許すことはできない。胎蔵槽から生まれたばかりの何もわからない新生児を、ヴァーミンが……。
ゲインは怒りのままに大型働きアリに跳びかかり、後も先もなく素手で殴りかかった。
門術の専門家ではあっても、肉体の戦闘力でも並のヴァーミンであれば引けをとらない。それだけの修練を積み、修羅場をくぐってきた。
しかし働きアリの体躯はゲイン三人分ほどもある。素手で、しかも本来得意としている力を封じられた状態で相手にするのは簡単ではない。顔面を殴りつけるが、働きアリの首の力を上回ることはできなかった。
かわりにスレッジハンマーのような腕がゲインを狙い、脇腹に食い込んだ。
すごい音がして、怒れるビィはくの字に曲がって吹っ飛び床に投げ出された。いたいけな、まだ意識のある新生児たちは怯えた目でその様子を見た。その視線にゲインは何も返せず、胃液をまきちらすことしかできなかった。
巨大な働きアリ型ヴァーミンはさらにゲインに近づき、突然の侵入者の頭蓋骨をぶち破る勢いでさらにもう一発拳を振り下ろした。
命中すれば脳みそをはみ出すほどの威力のある剛腕は、しかし直撃の寸前に震えながら動きを止めた。
「なにしてんの! 早く逃げて!」
ラトルが叫ぶ。その体は青白い霊光に包まれていた。門術を放っているのだ。『月光』の門は主に精神に影響を与える力を引き出す。その力によって、働きアリは金縛りにあっていた。
ゲインはほとんど声にならない声ですまんとだけ答え、転がるようにして働きアリの間合いから離れた。
「いまはそのデカイのよりもあっちあっち!」
声を張り上げ、ラトルはアリとは反対側の通路を指した。そこからは強制労働とは違う何かに従事させられているビィたちの収容所につながっているようだった。
「……わかった」
強烈なダメージよりも、新生児たちに何もしてやれない無力感に青白い怒りが燃え上がる。ゲインは脇腹を抑えながら、ラトルの後に続いた。
*
「お前は門術を封じられていないんだな」
「だっていかにも使えなさそーって感じに見せてたもん」
「そんなことでごまかせるのか?」
「うん。演技演技」
ゲインは素直に感心した。ゲイン自身は、身柄を拘束された時に門術を使いまくって脱走を図った。そんな危険なビィならば閂をかけられるのも当然だ。もっとはやくこの女に出会っていれば、あるいは別の未来があったかもしれない。そう思うと、ラトルに対して敬意の念すら抱いた。
だが、いまはそんなことを言っていられない。
ふたりは主機関樹を駆け抜け、もうひとつの強制収容所に向かった。
そこには地獄があった。
*
肉の焦げる匂い。
まずそれを感じた。
強制労働の現場よりは少し広めのスペースには、首輪をはめられ四つん這いになったビィが複数いて、アリ型ヴァーミンに飼育されていた。
新生児を肥育させて成体にし、食料にしている。
ビィ牧場だ。
その隅のほうでヴァーミンたちは焼きたてのビィの肉をついばみ、得体のしれない飲み物をあおっていた。ビィ肉を食らいながらの酒宴といったところだろう。
一方別のところではビィの屠殺が行われ、宙吊りになって血抜きを施されたヴィたちが冷凍庫に運ばれる。
その肉の一部は、ビィのよく知っているパッケージの中に詰められていくのが見えた。
一日の労働の終りに支給される食料パックだ。
心臓が痛いほど脈打った。
ゲインは、いや全ての奴隷たちは、同胞たるビィの肉を食わされて命をつないでいたのだ。
もはやポーレンを焼いた煙で暴動を誘発させるなどという状況ではない。
食肉用ビィにはおそらくまともな教育は施されておらず――ヴァーミンがそんなことをする義理はない――何を焚きつけたところで意味は無いだろう。
全身の血液がさかのぼって、ゲインの目からは血涙があふれ、鼻血が霧のように吹き出した。
ラトルの制止の声はもう聞こえない。
ヴァーミンは殺さなければいけない。何があっても皆殺しにしなければいけない。
怒りの炎は爆炎と化し、ゲインはビィ肉のバーベキューを楽しんでいるアリたちに向かって躍りかかった。
二匹を体術で瞬殺。もう一匹はバーベキューの鉄串で両目をえぐり、最後の一匹には反撃され拳を噛まれたが、迷うことなく喉の奥に腕ごと突っ込んで、舌と食道を捻り潰して殺した。
その代償として、左腕の肘から先は大あごでズタズタに引き裂かれてしまった。
別に構わない。
ヴァーミン。
アリどもを殺すためなら何であろうとしてやる。
同胞を食われて、そして食わされて、なお我慢するくらいなら死を選ぶ。
ゲインはこの時点で死ぬことを選んだ。
もうここでヴァーミンを刺し違えて、可能な限り多くの糞虫を道連れにしてやる――。
しかしラトルがそれを制した。
「どけ。俺のことは諦めてお前だけで逃げろ」
「そんなわけいくわけないでしょーが! ヴァーミンを叩き潰すのはあんたの力が必要なんだから! こんなところで絶対死なせない!」
ラトルは燃え上がる鬼のようなゲインにもひるまず、前に立ちふさがった。それを押しのけようとするゲインは、急に強い立ちくらみを起こして片膝をついた。
「お前、門術を……」
「ごめんね、あたしだってこんなの見せられたら我慢できないけど。それでもゲイン、あんたはここでは死なさせない。絶対死なせない」
それからのことは酷く曖昧で、ゲインはラトルのいうがままに動かされた。怒りのせいで隙だらけだったゲインの精神はすっかりラトルに掌握されてしまったのだ。
怒り。怒り。怒り。
ゲインはただ脳髄が沸騰しそうなほどの怒りを反芻していた。
だが、それでもラトルの戒めは解けなかった。
何を考えても、全てはラトルの『月光』の力で霧の向こうに見えるだけ……。
*
正気を取り戻したゲインは、自分がどこに向かっているかもわからず走っていることに気づいた。
その前を、ラトルが先導している。
「……おい、いったい何が」
ゲインは最後まで言い切ることができなかった。左腕に強烈な痛みが走ったからだ。
「あれ、もう気がついた?」
走ったまま振り返りもせずラトルが言った。
「あんたって本当に強いんだね、催眠も痛み止めも、もう少し効くと思ってた」
「痛み止め?」
言われて左手を見たゲインは顔をしかめた。働きアリに食われかけ、ひどい怪我を負ったことは覚えていたが、これでは使いものにならない。
肘から先は鋭い大アゴに切り裂かれ、ナイフで縦横にメッタ刺しにされたようになっている。親指以外の四本は根本からなくなっていて、神経がいっているのか手首をひねることさえできない。
「ごめん、あたしの門術だと出血を止めるのが精一杯だった」とラトルは苦しげに言った。
「いや……いい。俺が無茶しすぎたせいだ。その前に状況を教えてくれ、なんで走っている」
コイリングを逃げたんだよとラトルは声を弾ませた。どうやらかなり長時間走っているようだ。
「それでやっと追手をまいたところ。でも、あたしの村まで戻るには最短でも10ターンかかるから、そのつもりでいて」
「そうか。それよりお前、ちょっとこっちを見ろ」
「え?」
「いいから」
「今それどころじゃ……」
何かを渋っていいるラトルを無視して、ゲインは一気にスピードを増してラトルの前に出た。探索者として長年鍛え上げてきたゲインには高速走法のスキルが身についている。
ラトルはあっと驚く表情になったが、それは引きつった。
女の顔には大きな傷が走っていた。右の眉の上から頬を通って唇まで。さらに左の目の下から鼻筋を横切って、縦の傷と合わせて十文字に切り裂かれている。
「おい、どうなっている」
「どうって……見たまんまだよ。ちょっと油断して、ヴァーミンに」
「そうか」
それだけ言って。ゲインは絶句した。大怪我なことはひと目で分かる。それに、治癒門術を使った形跡もある。右の眼球はどうやら無事で、血が流れ込んで見えなくなっているらしいが、それでもひどい深手だ。
門術で直せないのか、とはゲインは口にしなかった。直して、なお傷跡が残っているのだ。
ゲインは己の右掌を見て忌々しさに食いちぎりたくなった。閂の紋が黒々と刻まれて、門術で応急処置をしてやることさえできない。
「あと10ターンかかるといったな」
「うん……言ったけど」
「5ターンにする」
ゲインは走りながらラトルの身体をかっさらい、肩の上に担ぎあげた。
「あ、ちょっと待って、あんたいったい何を」
「こっちのほうが速い。案内しろ」
ゲインは高速走法よりさらに上級のスキル、戦術的逃走によって猛烈なスピードで走りだした。ミ=ヴ迷宮独特のうねるような小径を風を切って進む。いままでの倍以上の速度が出ている。
「あ、ありがと……」
「気にするな。俺の方こそ……すまなかった」
「うん」
ふたりはそれきり押し黙り、ラトルの本拠地へとひたすら走った。