06 遠き呼び声
3ターンが過ぎた。
牢獄から逃げ出す時にポケットにねじ込んだわずかばかりの水と食料はすでに使い果たし、飢えと渇きと疲労とが足を重くさせる。
門術で内門を開けば空腹を抑えることもできるが、力の源となる霊光も無限ではない。
自らを”沈黙の騎士”と名乗った――ただしその名の通り何もしゃべれないのだが――プラグドロイドのあとに続くのも限界が近い。
最年少のラーブラは疲れ果ててしまい、今はスチフに背負われて気を失うように眠っていた。
疲労と飢えは、固い決意すら切り崩してしまう。刻印の囚人たちは、せっかくブラヴァのもとを逃げ仰せたというのに次第にギスギスとした空気が流れ始めていた。
「沈黙の騎士さんよ」スチフは少し前に出て、沈黙の騎士の真後ろにつけた。「アンタを――と言うかこのチビを疑うわけじゃないが、いま進んでる道は本当に蜂窩につながってるんだろうな? アンタはプラグドロイドだから腹も減らないだろうし喉も乾かないだろうが、俺たちビィはそうはいかないんだ。命がかかっている」
野垂れ死にさせる気ならこの場でアンタを分解する、とスチフは暗い目に殺意を宿らせて大剣を背負った重甲冑を睨みつけた。
「落ち着いて、スチフ」チワがため息混じりに割って入った。「気持ちはわかるけど、もう後戻りできる状況じゃないわ」
「でもチワさん、オレも同じ気持ですよ」とデンス。「おチビちゃんのテレパスが強いのはわかりますけど、このプラグドロイドが本当のことを伝えてきた証拠はなんにもない」
「それを今言う?」片目を眼帯で隠した女ビィ、ラミューも黙ってはいられなくなった。「今さらその話を蒸し返すなら、こんなところまでのこのこプラグドロイドに率いられてきたあたしたちがバカだったってことになるけど、いいの?」
「それとこれとは話が別だろ!?」
「どうだかね……」
終始こんな様子である。
皆の中心にいたバナードが率いていてくれれば状況も違っただろう。
だが、もう彼らはいない。
*
さらに歩くこと数ターン。食料はまる二日、水はほぼ丸一日口にできていない。もはや”沈黙の騎士”がラーブラに念話で伝えた蜂窩が見つからなければ、遅かれ早かれ全員駄目になってしまうだろう。
沈黙の騎士は、名の通りただ黙々と前へ進むのみで質問には応じない。念話で会話が成立するのはラーブラのみだが、それを行えば沈黙の騎士の苦痛が流れ込んできて精神にダメージを負ってしまうからだ。
そのことが、ラーブラの気持ちをみじめなものにしていた。
周りの成体たちは何度も口論になりかけ、暗にもう一度念話をつなげとラーブラにほのめかしてきた。強力なテレパスであるラーブラには、チワたちの言葉の裏に隠された本心がすけて見えるのだ。今までならいつも落ち着いた理性的なビィのはずのチワまでもがとげとげしいものをラーブラへ向けているのがわかった。
だからラーブラは意識をぼんやりとさせて自分を守った。
精神をふわふわとおぼつかなくさせることは、ラーブラなりの自己防衛法だったのだ。
成体はみんな怖い。
心だけ幼くされてしまったコリィが生きていたら、彼の世話を焼いてごまかすこともできたかもしれないが、もう頭部を吹き飛ばされて死んでしまった。
ラーブラは自然と沈黙の騎士の近くをひとりで歩くようになった。身体はクタクタだったが、心に深い闇をもつスチフにおぶられていると勝手に念話が通じてしまい、怖くなるのだ。
拡散した意識のまま、ラーブラは仲間たちと一緒に歩き続け、歩き続け、ついに疲れ果てて気を失ってしまった。
前のめりに倒れる前にラーブラの身体を支えたのは沈黙の騎士で――まさにそのタイミングで、図ったように一行の視界は開けた。
小高い崖の上から見えたのは、痩せてみすぼらしい枝葉を広げる主機関樹とそこにたむろする住民たちだった。
ラーブラの仲間たちは、住民たちに手を振って助けを求めようとして、やめた。
そこにに住んでいたのはビィではなく、主機関樹と同じくらいみすぼらしく痩せこけたヴァーミンだったからだ。
*
ひどくいやな臭いが漂ってきて、ラーブラは眠りから覚めた。
平らな地面に寝かせられていたラーブラははっとして起き上がり、周囲の様子をうかがった。
そこは激しい殺し合いの場になっていた。
*
「エサ、餌だァァァァ!!」
ただでさえ細い肉体がさらにやせ細ったカマキリ型ヴァーミンが、鎌を振るい、スチフを襲った。
スチフは内門を開き、巨漢と言って差し支えない肉体を瞬時にカマキリの懐に飛び込ませ喉元を掴んで思い切り背負投げを決めた。どう、と仰向けになって倒れたところに容赦なくストンプし、顔面を踏み潰した。巨大な眼球が2つとも潰れ、半透明のドロリとしたものがこぼれ落ちる。
他方ではチワ、デンス、ラミューもそれぞれ門術を使って薄汚れたヴァーミンたちに立ち向かっていた。
ズタズタに引き裂かれた腹から臓物がこぼれ、立ち上る火柱で焼き焦がされる。ひどい悪臭の原因は、ヴァーミンたちの死体が燃える煙のせいだった。みすぼらしい主機関樹の周りは目をそらしたくなるような殺戮の場となっていた。
ラーブラは咳き込み、何かをしなければと身体を起こした。何をすればいいのかわからないが、何かをだ。とにかく自分も役に立たなければ。
その決意に立ちふさがるように、ゾウムシ型ヴァーミンが長い口吻を伸ばしてのそのそとラーブラの前に現れた。ラーブラはヒッと息を呑み、恐怖のあまりほんの少しだけ失禁した。
「あああ~たまらない……子どものビィだ……吸わせてくれ、もうずっとまともな液を吸っていないんだ……」
肥満体型のビィひとり分ほどの身体に、太く弧を描いた鼻。六本の手足はやせ細り、体中が垢染みて吐き気のする臭気を放っている。化物。バケモノだ。つい先日まで外の世界を知らなかったラーブラには、話では聞かされていたとはいえあまりに刺激の強い存在だった。
「吸わせてくれ……頼むよすぐに終わるから」
「いやー!」
耐え切れなくなって泣き出したラーブラ目掛け、ゾウムシヴァーミンは機械的に鼻兼口吻を振り上げた。ベシャリと音を立てて、ゾウムシの口吻がラーブラのたくし上がったスカートからむき出しになった太ももに突き刺さる。
生ぬるい体液がラーブラの脚にまとわりついた。
ラーブラはそれを自分の血だと思った。ヴァーミン自身もそうだと思った。
しかしそれはヴァーミンの流した体液であり、そもそも口吻は半ばあたりで切断されていた。
沈黙の騎士が横合いから断ち切ったのだ。
「沈黙さん!」
ラーブラはぱっと表情を明るくさせた。ささくれだったクロムスキン合金製重甲冑には返り血にまみれ、すでに何体かのヴァーミンを切り刻んだことをうかがわせた。
沈黙の騎士は名の通り物言わぬままゾウムシヴァーミンを大上段から叩き割り、肉塊に変えてからラーブラを背にかばうようにして大剣を構え直した。
戦いの趨勢はすでに決しようとしていた。
*
「……やっと片付いたか」
スチフはまだ息のある最後の一体の喉元を踏み潰し、大きな息を吐いた。
一同は煤と血脂にまみれ、ひどい有様だった。チワ、スチフ、デンス、ラミュー、そしてラーブラと沈黙の騎士に対してヴァーミンは20匹あまり。幸いにして誰も大きな怪我をせずに全滅させることができたが、ヴァーミンたちが飢餓状態に無ければとてもこうは行かなかっただろう。
「死体を片付けるほうが大変そうね。迷宮生物がエサにしてくれればいいけど……燃やした方が早いかしら」チワは肩をすくめた。
「どっちでもいいけど片付けて主機関樹を調べようよ。食べるものがなかったらこっちも保たないよ」とラミュー。眼帯をつけた方の眉に切り傷ができている。彼女はなぜか同じ場所にばかり怪我をする奇妙な体質だった。
チワたちは芯から疲れきっていたが主機関樹の状況を手分けして調べ始めた。この期に及んですでに樹が死んでいるなどということになれば本当に絶望的だ。
主機関樹の周りには蜂窩の痕跡が残っていたが生きているビィはどこにもいなかった。かわりにすっかり白骨化した死体が積み重なっているのが発見された。ヴァーミンに食われた犠牲者だろう。
主機関樹もなかば死にかけていた。メンテナンスするビィもおらず、さきほどまでうごめいていたみすぼらしいヴァーミン共に食い物扱いされていたらしい。あちこちの樹皮は引き剥がされ、根や枝葉が無残に食い荒らされていた。ヴァーミンは基本的に肉食である。通常は主機関樹を食料にしたりしない。迷宮生物やビィが本来のエサなのだ。それが主機関樹を荒らしているということはよほどひどい食糧不足に陥っていたということだろう。
傷め付けられていたが、半生体ユニット集合体である樹はまだ生きていた。
門術を使って霊光を注ぎこみ、ビィだけが知るメンテナンス術を施すと樹はわずかながら輝きを取り戻した。そのまま霊光の波長を変えると根本に蛇口のようなものが現れ、レバーをひねるとそこからはちろちろと水が流れ始めた。
「水だ!」
誰かがそう叫び奪い合うようにして顔を洗い、口にした。勢いは弱かったが安全な飲み物に使える水だ。ヴァーミンにはこのような使い方はできない。根本的に放出できる霊光の波長域が違うからだ。
食料に転換する方法もまた然り。樹皮を剥がして白肌を削り、食用の樹液を採取する。本来なら加工してから口に入れるものだが、そこまでやれる余裕はなかった。
「なんとかなるものね」
ようやく人心地ついたところでチワが言った。ブラヴァに囚われた時に記憶をいじられていたが、ビィの本能というものだろうか。主機関樹の扱いを彼女らが忘れることはなかった。
「ねえチワ、ここで……」ラーブラがおずおずと口を開いた。「ここで暮らせないかな、みんなで。わたし、もうどこかに行くのいや」
「言われなくても、そのつもりよ。いいわよね、みんな」
みんな疲れていた。けだるい肯定が返ってきて、反対の声は上がらなかった。
ここからが本当に大変だと、みなわかっていた。何しろそこにはまともに屋根のある建物さえないのだから。
それでもここでなら新しい生活を送れると信じた。もう牢獄につながれる心配はないのだと。
だが、いっとき彼らは忘れていた。
自分たちが刻印を入れられた者であり――ブラヴァの目はまだ閉じられていないということを。