01 囚人ゲイン
初めに女がいた。
女は己の身を隠すため迷宮を産み、迷宮はさらに迷宮を産み、十二の大迷宮が連なる世界を造り上げた。
いつしかそこは迷宮惑星と呼ばれるようになった。
迷宮惑星を形作る12の大迷宮のひとつ、ミ=ヴ迷宮。
構造内に大量の資源が隠され、掘り屋に取っては垂涎の場所だった。
ミ=ヴでの探索者は新たな資源鉱山を探し出し、その情報を己が属する共同体に持ち帰ることが役割となっていた。
光と水と豊富な資源がミ=ヴにいくつかある共同体を潤し、平和と安全をもたらしていた。
コイリングと呼ばれる共同体もそんな幸福な場所のひとつで、12の迷宮全てを見渡しても引けをとらないほど豊かな、大都市と呼んで差し支えのないところだった。そこでビィ――ヒト型知的生命体は歌い、踊り、大いに蜜酒を飲み、生を謳歌していた。
ある日、異変が起こるまでは。
それから300エクセルターンあまり。
コイリングの住民はありとあらゆる権利を奪われ、ひとり残らず奴隷化されていた。
ヴァーミンと呼ばれるビィの天敵によって――。
*
目が覚めると、昨晩吸ったポーレンスティックの残留分が悪さをして脳髄に強烈なフラッシュバックを呼び起こした。
お陰で最悪の寝覚めとともに1日を過ごさないといけないくなる。もっとも、それは昨日の朝も同じことだったのだが。
宿舎と名付けられているのが気の毒になるくらいボロボロの掘っ立て小屋からはいでるとすでに点呼が始まっており、ゲインは口の中の汚れを吐き出してから『労働者』の列に並んだ。
みな一様に薄汚れ覇気のない『労働者』どもは全てを諦めた目をしていて、眺めているだけで虫酸が走る。自分がその一員に加わっているという事実が、ゲインの身体をさらに怒りが震わせた。
怒り。
ゲインは周りのビィよりも頭ふたつ分ほど背が高く、手足が長く、痩せている。その長駆の全身が怒りで形作られている。
もう一度唾棄して、ややあって『監督官』が高いところから現れた。ゲインたちを見下ろし、あからさまな侮蔑をその目に浮かべている。
しかもそれはビィではない。
そこにいたのはヴァーミンだった。
ビィがヒト型の生命体なら、ヴァーミンは虫型のヒトだ。恐ろしく醜怪で、バケモノと呼んでも一向に差し支えない。
素材は肉と肌と骨があるヒトのそれだが、姿形は虫をヒトのサイズまで大きくしたような見た目をしている。
虫人間、いや人間虫とでも言うべきか。
どこからどう見ても違和感と生理的嫌悪感をかきたてる存在で、現れた監督官は巨大なアリの姿をしていた。膨れ上がった後ろ向きの腹部。後ろ足は靴を履いた足で、前の二組は五本指の生えたヒトの腕になっている。逆三角形の頭部には触覚が生え、複眼の部分に眼球がぎょろぎょろと動き、口には白いエナメル質でできた大アゴが生えている。
「何人いようが何人死のうが知ったことではナイが、決マリだ。数をカゾエル」
監督官はおぞましい化け物にふさわしいぐねっとした声でしゃべり、副官の小アリに命じて名簿の番号を読み上げさせた。ここでは誰もが番号で呼ばれ、固有名詞を持つことは死罪とされている。
――糞虫の分際でビィを法で裁くだと?
ゲインの全身から、ほとんど実体化しているような憤怒の熱が立ち上った。
ミシミシと音を立てて肩の筋肉が盛り上がる。もしほんのわずかの糸が切れれば、ゲインは一瞬の内に監督官の立つ高台に登り、その頭を踏み潰してピューレにしていたところだろう。
だが……。
616番。ゲインにつけられた屈辱的な番号が読み上げられた。眉の上に焼きごて小さく刻まれた番号が。
「今日もモエルようだな616。怒りが触覚まで伝わってクルぞ」
ゲインは黙って前に出て、616のナンバープレートを手にとった。身体に刻まれた番号とプレートがシンクロし、『受刑者』がどこにいるかをモニタリングできる仕組みになっているという。このプレートがある限り、もし脱走を企てたとしてもすぐに露見する――というのが、ゲインの怒りの下地となっている。
たとえ下っ端の監督官を殺したところでたかが知れている。別の捜索隊に追われ、捕縛され拷問の後に死体をディナーの一品に加えられるだけだ。
かつての――。
ゲインは顔を上げ、灰色の天井を睨んだ。
かつての力があるのなら、こんな糞虫どもの口はすぐに塞いでやれるものを。ハッタリではない。ゲインにはそれだけの実力がある。
ゲインの周りでうなだれる奴隷たちとはわけが違う。迷宮を駆け巡る探索者として10エクセルターン――エクセルターンは一年に相当する時間の単位だ――生きてきた。技藝の聖樹は戦闘と、戦闘に属する門術の枝葉を伸ばし、咲き誇っていた。
だが今は、門術のことごとくを封じられている。
門術なしに叛乱を起こしたところでたかが知れている。数の多いヴァーミンの厳重な警備を破って逃げ出すのは不可能に近い。ゲインは強者であり、だからこそ己の弱点、そして限界を知っている。生き残るためには越えてはいけない一線がある。
体の内側が焼け焦げてしまうほどの怒りを抱えながらもヴァーミンに従っているのは、その線を越えないためだ。
もし、完全にブチ切れて後先を無視すれば、20匹は道連れにできるだろう。だがこの薄汚い収容所には最低でも300匹のヴァーミンが常駐しているのだ。怒りに任せて飛び出しても待っているのは死か拷問だ。ゲインという人間の、探索者としての誇りは糞と一緒になって汚水にまじり、ただの逃亡奴隷のと変わらない扱いを受けるだろう。
それは我慢できない。
「ドウした616、点呼に応ジロ」
監督官がせせら笑い、ゲインはこめかみが膨れるほど頭に血が上ったが、無難な返事をしてその場を収めた。
サディスティックな笑い声。この監督官は、誰かを侮辱して痛めつけるためなら3日間断食したって構わないという芯からの嗜虐趣味者だ。クズと言い換えてもいい。クズのヴァーミン。そんな存在は、五体をバラバラにして糞の山に首を突っ込んでも許されるだろう。
――いずれそうしてやる。
ゲインは沸騰寸前の脳髄でそう思った。
だが爪が食い込んで出血するほど握りしめた拳は、何かをきっかけにして急に力が抜けた。
拳を開き、ゲインは己の手のひらを見た。そこには焼きごてを当てられて大きくバツの字が黒く刻まれていた。両手のひらそれぞれに。
ゲインの顔がゆがむ。
それは封印のサインだ。門術の開放を禁ずる『閂の紋』。
この紋が肉体に押されている限り、ビィは門術を使うことができないのだ。ゲインが得意としていた強大な門術は全く封じ込まれ、もし戦闘になれば身ひとつで挑まざるをえない。身体能力だけでも並の探索者の比ではないが、内門で霊線の強化も行えない以上、ヴァーミンを圧倒するほどの力は出せないのだ。
これさえなければ。
閂の紋さえ刻まれていなければ、奴隷たちを見下ろす監督アリ野郎など数秒と経たず木っ端微塵にできる。
ゲインは勝利への導線を見極めた。あの段から駆け上がり、火炎砲を浴びせてから蹴りを六発。苦しませるだけ苦しませてから奴隷労働者の証であるツルハシを脳天に叩きこむ……。
門術を普通に使えていればイージーな戦いになる。イメージ通り、ほんのわずかの反撃の余地も与えず抹殺できただろう。
だが、現実はどうだ。
ゲインの門術は奪われ、ヴァーミンの――ヴァーミン風情の奴隷に成り下がっている始末だ。
昨日も、その前も、その前の日も突破口は見つからなかった。
このまま諾々と奴隷扱いに慣れていけば、明日も、明後日も、その先も、ただの奴隷のままこの地に埋もれてしまう。
――なんでこんなことになっちまったんだ?
ゲインの頭は怒りを通り越してむしろ冷静になった。経緯を時系列に並べ、原因を探り、いまの自分の境遇にいたったわけを考えた。
時は数エムターン遡る――。