04 麗しのリュトミ
機関樹から分泌される様々な樹液の中で重要な蜜を発酵熟成させたものを蜜酒といい、遥か太古からビィの舌を喜ばせてきました。
――ミード醸造所の案内パンフレットから抜粋
パドメ蜂窩の城下町は、雑多な建物の建築が禁止されていて、都市全体の美観を損ねないよう念入りな基準が設けられている。
ここで言う美観とは、蜂窩を訪れる旅人や居住者のためのそれではない。
主機関華最上部、天上殿から見下ろした時の景観のことだ。本来であれば蜂窩の首長がその美を楽しんでいたものだが、今はシュタイナ殿下ただひとりを喜ばせるためのみに”この世で最も美しい”風景は設計されている。
そこは一見、汚穢や無粋とは無縁の世界に見える。
しかしパドメの住民は単なる美しさの添え物ではない。
シュタイナの暴走に対してはっきりと打倒の意を示すレジスタンスめいたビィたちもいる。美とは相容れない堕落したビィたちが鬱屈を慰めるための悪所もある。表立っては禁止されているポーレンが高く取引され――パドメのポーレンスティックは特に品質がいいのだ――犯罪や暴力沙汰も起こる。
美しい夢のような水上都市にも濁りやよどみがある。
それはいかなる方法を取っても完全には拭えない、業のようなものなのだ。
*
昼時間が終わり、櫛の歯が欠けるようにラピスラズリの光導板から光が消え、青い闇の六角形が陣地を増やしていく。
昼時間と夜時間の移ろいはどの迷宮にもあることだがバーズテイルのそれは特に劇的で、見る者の胸を打つ。
「きれい……」
第4蓮の台公園の手すりから身を乗り出すようにしてベルが言った。今はドローン日傘をまとっておらず、ゆるやかにウェーブした髪が風に流されている。
「これが見られただけでも、この仕事受けたかいがあったかな」
青い夕闇の中、隣で手すりに体重を預けるウルが小さく微笑んだ。ベルの驚く顔は子供のようで、ウルはそれを見るのが好きだった。
「そろそろ行こう」
パドメの街並みは確かに美しく、そして夜時間へ姿を変えるさまは特別な雰囲気があるが、ふたりには目的があった。物見遊山にはまだ早い。
「うん、わかった」
ベルは風で踊る髪をなでつけ、うなずいた。
*
忌まわしい羽虫の羽ばたく幻聴が耳をかすめ、シュタイナは悪夢から目覚めた。
ゆったりとした貴人用のベッドから跳ね起き、大股で寝所の窓を開け放った。汗にまみれた胸元に風が冷たい。昼時間になればラピスラズリ色に輝く光導板も、いまは夜時間が明けきらず深い青闇色のままだ。
窓の外は日ごろと何も変わらない。ライトアップされた蓮の台。弩級オニハスの上に暮らすビィたちの住まい。美しい湖面から水上へ跳ね上がるオヨギトリの群れ。青闇の空を悠然と舞うナナイロコウの巨大な翼。
いつもと何も変わらない。
シュタイナはベッドサイドのデキャンタから直接水をあおり、少しむせた。
*
その建物は一見して何もおかしいところのないただの民家だったが、裏口のドアに蛍光プラスキン塗料で三本足のヒグイカラスが小さく描かれていた。
ウルは手元の小型マルチデバイスに一度目を落とし、ホロディスプレイに浮かぶ映像とカラスのマークに相違がないことを確かめてからベルに無言で合図した。
ベルは少し緊張気味に”全部任せる”のジェスチャーを返した。
ドアをノックすると、覗き窓が金属音を立てて開いた。
「ご用向きは?」
いかにも強面風の男がドアの向こうから問いかけてきた。
「人探しを」とウル。
人探し、と男は繰り返し、鋭い目でウルとベルを値踏みした。
「どなたを?」
「そ、それ、言う必要あるの?」
ウルの背中からベルが顔を出した。
男は眉ひとつ動かさず、そういう決まりですのでと答えた。
「エマニュエル」とウル。
「ほう」
「”バードウォッチャー”エマニュエル。どうしても話したいことがあるんだ。開けてくれないか?」
たっぷり呼吸五つ分。
「……どうぞ」
強面の男は見た目より遥かに重く頑丈なドアを開け、中に招かれた。奥には降りる階段がありその先に同じようなドアがあって、その向こう側からはプラグディックテクノのスピーディな重低音が響いてくる。二重扉で音が漏れないようにしてあるらしい。
ウルは内心で安堵の溜息をつくと、男の招きに応じ建物の中に入った。
*
成体式から――そして結婚式だったはずのあの日からすでに10エクセルターンが過ぎたが、シュタイナの見る夢にはいつもリュトミが現れる。
夢のなかでリュトミはまだ幼く、あるいは幼体期を終えるくらいで、あるいは花嫁衣装を着た姿をしている。夢のなかで彼女は自由であり、シュタイナも彼女と同じくらい自由に過去と未来を行き来した。
未来。
時にはリュトミはずっと大人になり、今のシュタイナと同い年ほどの姿で現れることもあった。それは彼女には本来与えられることのなかった姿で――そんな夢を見た目覚めの朝は、シュタイナはベッドの中で身体が震えるほど泣いた。今までに何度も。
元々放埒な性格で、人並み以上に色も欲も備えていたシュタイナが妾を寝所に入れなくなったのは、シーツの中で震えて泣く自分を見せたくなかったせいだ。
シュタイナにとって意味がある女はリュトミただひとりだった。
夢のなかでリュトミは幸せそうで、シュタイナが愛したそのままの姿をしていたが、時には彼女がヴァーミンにさらわれ、地面に叩き落とされた情景を見せられることもある。真っ逆さまに空から投げ落とされ、頭から墜ちて、血が流れ……。
そんな悪夢を見た時のシュタイナは、誰にも手がつけられない暴君だった。強い蜜酒を何杯もあおり、酔いに任せ、生まれつき備わった特殊で強大な門術を放ち天上殿を半壊させてしまうなど当たり前で、家臣や端女にまで命の危険を与えて喜ぶという迷惑千万ぶり。いまだに死者が出ていないのが不思議な事だと噂されている始末だ。
シュタイナは二度と戻らぬリュトミ姫に未練がありすぎた。
だから傍若無人の行為を働く。根底にリュトミの死があることなどシュタイナ本人も、周りの家臣も、誰もが理解している。
それでも――やはり全てを差し引いたとしてもシュタイナの所業は批判されて当然だった。それほどまでにシュタイナは”こじらせて”しまい、もはや元に戻る方法を考えることさえできなくなっていた。
不幸なサイクルが続き、世界一美しい水上都市に生まれたよどみはいつ爆発してもおかしくない状態だった。
聖樹祭。
静かに近づくその日に向け、パドメ蜂窩の”水面下”で何かが起ころうとしていた。




