02 恩寵の子
泳ぐ魚は空に憧れ、飛ぶ鳥は水面に心焦がれる。
――”バードウォッチャー”エマニュエルの詩より抜粋
もう我慢できない――という言葉はいつごろから聞こえてきただろうか。
水上都市パドメの住民の上に君臨するシュタイナの横暴は日々エスカレートするばかりだった。
彼は生まれつき特別なビィだった。
大きな権限を振るい、増上慢の物言いも許され、主機関華の頂上、薄桃色の大花弁に包まれた天上殿の主として他のいかなるビィよりも高い地位についていた。
彼は”恩寵の子”だった。
迷宮惑星全土において極めて珍しい、人工子宮・胎蔵槽からではなく、男女のビィの交配によって生まれる個体のことを”女王の子”と呼び習わす。シュタイナは”女王の子”から採集された遺伝情報を元に作られたコピーなのだ。本当に女ビィの母体から生まれたわけではないが、それでもシュタイナはパドメ蜂窩において”女王の子”と同等にみなされ、その極めて特異な出自ゆえに彼は殿下と呼ばれ、あるいは”恩寵の子”とも呼ばれた。いずれにせよ、シュタイナはそうした存在だった。
ところが彼は、ある日を境に暴君と化してしまった。
そこには同情すべき理由があり、初めはパドメ蜂窩の住人たちのほとんどは彼の身に降り掛かった悲劇を深く嘆いた。
だがそれもシュタイナのあまりに傍若無人の振る舞いによって次第に反落を余儀なくされていた。特別な”恩寵の子”であることを差し引いても彼の振る舞いは放埒も甚だしく、数百エクセルターンの歴史ある――エクセルターンは一年を表す単位だ――天上殿を自分の意のままに改造し、あるいは戯れに破壊し、清められた聖所を座敷のように使って端女を侍らせ、酒色におぼれた日々を過ごすようになってしまったからだ。
しかし止めるものはいない。
止めることができないといったほうがいいだろう。
ただでさえ”恩寵の子”という希少な存在であるだけでなく、シュタイナはその能力においてもただのビィとは一線を画し、侍従や護衛では全く歯の立たない強力な門術使いでもあったからだ。
目に見えない手でビィを投げ飛ばし抑えこむ程度は造作もなく、壁と言わず天井と言わず好きなように破壊した。蜜酒の酔いが回った末の乱行である。大小のけが人が毎日のように出た。最後の分別と言うべきか死者こそ出なかったが、もはや仕える者たちも限界だった。
そうした噂が市井のビィたちに流れ始めるのに時間はかからない。蜂窩中の美女が集められ、全員を慰み者にしているなどといった真偽の怪しい話までも飛び交った。
実際、それは単なる噂とも言えなかった。
シュタイナ毎夜酒におぼれていたのは事実だったし、自ら天上殿を降りて道行くビィや立ち並ぶ建物を何の理由もなく感情ひとつで吹き飛ばすことも、まるで花嫁泥棒のように女を自分で選んで天上殿に連れ去ることさえやってみせた。
――何が”恩寵の子”だ。
蜂窩の住民たちは、本来貴人であったはずのシュタイナに対して恐怖と怒りを感じ、疎んじるようにまでなってしまった。
敬意を失ったシュタイナはますます機嫌を損ね、無意味に暴力を振るい、酒を飲んでは憂さを晴らすようになり、それは不幸な悪循環となって今やパドメ蜂窩の優雅な街並みに少しずつ影を投げかけるようになっている。
そんな状況でも一部のビィたちはまだシュタイナに仕えることをやめず、彼に対し心からの同情を捧げる者たちも少なくはなかった。
シュタイナがそうなってしまったのには理由がある。
彼らは信じた。
シュタイナの婚約者であったリュトミ姫の突然の死が、シュタイナを変えてしまったのだと――。
*
かつてシュタイナの婚約者であったリュトミ姫もまた、”女王の子”の遺伝情報をフルコピーして生を受けた”恩寵の子”だった。
彼らがお互いを伴侶とすることとなったのは偶然でも何でもない。ふたりは初めから結ばれることを前提に”調整”され、世に生を受けたビィだったからだ。
歴史上、パドメ蜂窩には”女王の子”がいた。男女のビィのセックスによって受精卵が着床し母体から産まれた正真正銘の”女王の子”が。
ひとりは600エクセルターン以上昔の時代の、半ば伝説上の男性型。
そのはるか旧世代の男性型”女王の子”は、パドメに残る記録による限り120歳余りで寿命を迎え、そのまま亡くなったとされる。
通常であれば、死者の遺伝情報は主機関樹に還元され、遺伝子プールの中の一滴になり次代へ命を受け渡すことになる。ほとんど生まれることのない”女王の子”の遺伝情報は極めて特殊であり、それがプールされた生命の素は次世代のビィたちに多大な影響を与えるはずだ。”女王の子”の発生確率自体が極めて低いためサンプルになるデータもまともに残ってはいないが、”女王の子”の死は主機関樹からの”聖蜜”生成や生まれてくる次世代ビィの門術発現パターンなどを左右するとされている。
しかし600年前の男の遺伝情報は、主機関樹に還元されること無く厳重に保存され、門外不出のものとして封印されることとなった。
そしてもうひとり。今から50エクセルターンほど前に生まれ、不慮の事故により生まれてすぐ命を落とした女性型”女王の子”がいた。
彼女の遺伝情報もまた生命の素に戻されること無く封印された。
パドメ蜂窩の誰かが考えたからだ――このふたりの遺伝情報を使って、誰もが夢想する”到達点”に至ることができるのではないか、と。
ふたりの遺伝情報から”女王の子”の完全コピーを作り出し、そのふたりの遺伝情報をさらに組み合わせた”女王の子”同士の血を引くビィを産み出せるのではないか、と。
そうすることでいったい何が起こるのか。
何かを――たとえば”最初の女”を侮辱することになるのか。
あるいは次世代に祝福が与えられることになるのか。
それとももっと別の、見たことも聞いたこともない世界の扉が開かれるのか。
誰にも、何にも、想像だにできないことだった。
だからこそやらなければならない。パドメ蜂窩の科学者系ビィ、技術系ビィは、暴走とも呼べる熱意で突き進んだ。長年の間厳重に封印されてきた遺伝情報から”子”が復元され、特別な処置を施された上で彼らは”恩寵の子”としてふたたび世に生まれ落ちた。
そのふたりがシュタイナであり、リュトミだった。
*
「さっきの音? ありゃあまた殿下の癇癪だよ」
弩級オニハスの岸壁から釣り竿を垂れる男がうんざりした口調で答えた。問うたのは数時間前にパドメ蜂窩に訪れた男女、ウルとベルである。
「アンタたち旅人かい? シュタイナ殿下の事は知らない?」
問いかけに、ウルは苦笑いしてから名前程度は、と曖昧に言った。
「でもよくわからないんだけどさ。その殿下さんはなんであんな……さっきのってカンシャクってよりはちょっとした爆破テロのように見えたけど。煙も上がってしたし」
ベルの質問に、釣り人は口の中に生焼けのサバハトを放り込まれたように顔をしかめた。
「それよ」
「どれ?」とベル
「殿下のやってることはむちゃくちゃだ。昔はああじゃなかったんだが」
「そうなんですか」とウル。
「ああ。昔は……まだ子供の頃は、まあヤンチャな幼体ではあったんだが、まだ思慮分別があった」
「それが?」
「成長して成体式を迎えた後だ、例の事件が起きちまった。そっからはもう、こうよ。こう」
釣り人は手のひらを斜め下に向け、”下降線”のジェスチャーをした。
そのとき一陣の風が吹いて、ウルたちの髪を踊らせた。パドメ蜂窩全体に漂う甘やかな匂いとともに、オニハスの分厚い葉の下から昇ってくる淀んだ湖水の臭気が混じる。
「……例の事件?」
「何だアンタ、それも知らないのかい?」
「すみません」
「いや別に謝られることでもねえけどよ……まあ、なんだ。こんなでかくて暮らしやすい蜂窩で長年過ごしてると、ついこの世界はこんな場所ばっかりだと思っちまう。あの殿下の事を知らないビィがいるなんて考えるのも忘れちまうってもんよ」
「すみません」
「だからアンタに謝られることじゃねえって」
それもそうですね、とウルは優しげに笑った。
「それで、例の事件と言うのは?」
「ああ、それそれ。殿下にはな、生まれつき決まった婚約者がいらっしゃったんだ」
「婚約者?」
「そう。リュトミ姫っていう、そりゃあもう冗談みたいに美しいお姫様さ。殿下と同じ日に生まれて、生まれた時から結婚することを決められていて、ずっとふたり一緒に育てられたんだ。どんな気持ちだろうねえ、ガキの頃からずっと顔つき合わせてた相手と夫婦になるってなあ」
おれには想像もできねえな、と釣り人はあごをなでさすった。
「ご主人、ご結婚は?」
隣からものすごい熱量の視線を注いでくるベルを無視して、ウルが尋ねた。
「おれかい? 養子をふたりほど迎えたが、嫁さんには逃げられたな。女も釣りも潮目ってのが肝心よ」
「すみません、余計なことを聞きました」
「なあに、別に構わんよ……で、そのリュトミ姫ってのがな」
「はい」
「成体式と結婚式を合わせて盛大にお祝いされた、まさにその日にな」
「はい」
「殺されちまった」
「……殺された?」ウルとベルが異口同音に言った。
「ああ。まったくなあ、おふたりも、この蜂窩も、まさにこれからって時に急に現れたんだ」
「何が?」とベル。
「決まってるだろう。ヴァーミンだ」
姫はヴァーミンに殺されたんだ――釣り人の男はとびきり苦い顔をして、湖面を睨みつけた。




