01 水上都市
初めに女がいた。
女は己の身を隠すため迷宮を産み、迷宮はさらに迷宮を産み、十二の大迷宮が連なる世界を造り上げた。
いつしかそこは迷宮惑星と呼ばれるようになった。
億単位のヒト型知的生命体ビィを生活させる超巨大主機関樹。砂漠を内包する嚢状の小世界。悪夢のような怪物の群れ。目を見張るほど巨大な迷宮生物――。
迷宮惑星は驚異に満ち、それを構成する迷宮はどれひとつとして同じ顔を見せず、同じ迷宮内ですらその様相は千変万化する。
蜂窩――ビィの住まう生活共同体もまた、その環境に適応し様々な形態を取る。
穏当で平和な蜂窩もあればその反対もまたしかり。ある場所は水と光の恩恵を受け、別の場所は天敵の危機に晒され明日をも知れず、またある場所では貧富と名誉がビィを動かしさえする。
そんな中、惑星全土を見渡してもこれだけは間違いなく一番だという蜂窩がふたつある。
ひとつは”最も巨大な蜂窩”、ネーウス迷宮のマハ=マウライヤス。
もうひとつが、”最も美しい蜂窩”である。
その名はパドメ。
バーズテイル迷宮のパドメ蜂窩。
この世で最も美しい場所で、ひとつの物語が始まる。
*
夜半の雨から一変、昼時間になり晴れ上がった空は目がくらむほど美しいラピスラズリに輝いて、水上都市に清らかな光を投げかけていた。
迷宮の天井を覆う六角形の発光物体・光導板の照明は、その明るさや色彩において様々な個性がある。
水上都市パドメ蜂窩の上空はひたすら鮮やかに青い。バーズテイル迷宮の空は高く、シンロン迷宮と並んで”自然の雨”が降ることで知られている。雨も雲も、高く明るい天井の設定あってのことだ。他の迷宮の他の蜂窩になぜそれが与えられないのかは誰にも答えられまい。理由はさておきパドメ蜂窩は恵まれていた。
ちょうど最後の雨のひとしずくが水面に落ちると時を同じくして、一艘の手こぎボートが船着場に優雅に泊まった。
「きれい」
ボートに揺られていた二人組の客の片方が、ドローン式雨笠を斜めにして空を見上げ、小さく感嘆を漏らした。視線の先には、背の高い茎の上に咲いた蓮の華型主機関樹にかかる大きな虹があった。
「良いところに到着ましたなあ」
漕ぎ手が目を細め、男に言った。
端が見えない巨大な湖にそそり立つのは、長く伸びた茎の先に咲いた薄桃色の華。それを取り囲むように無数の蓮の台が咲き乱れ、緑と調和した建物がいくつも乗った弩級オニハスの丸い葉が見渡す限りに広がっている。人工物は極端に少なく、あるいは周りの景観に溶け込んでいる。
二人組が古風な手こぎボートを移動に選んだのは、カーボン=プラスキン複合材すらほとんど使わない自然工法の水上都市まで赴くにはそうすべきであろうという様式美のような感覚があったからだ。実際、ゆったりとした舟漕ぎのお陰で雨上がりの美しい大虹を見ることができ、ふたりは胸の中に柔らかいものを感じた。
「わたしも長いこと船頭しておりますが、頃合いのよろしいことで」
人の良さそうな船頭はそう言ってからボートを船着場にくくり、ふたりに上陸を促した。
虹はまだ天まで伸びる蓮の花にかかっている。
*
「お名前は」
パドメ蜂窩の入窩許可ゲートの前で、中年女の係員が名を問うた。ふたりはそんなことを聞かれるとは思わなかったというように顔を見合わせ、わずかにためらった。
「お名前は?」
「えっと……」
「エット?」
「じゃなくて、ウル。ぼくの名前はウルです」
ウルと名乗った男はドローン式雨笠を脱ぎ、係員に笑みを浮かべた。まだ若く、成体式を迎えてからさほど年月を経ていない。
美青年である。
係員は少しだけ好奇心の目を向けたが、パドメ蜂窩へ訪れるビィは多い。いちいち気にしていられないというように掌紋認証を流れ作業でチェックした。
「そちらの女性は?」
「ベル!」
ウルと同い年くらいの女が、光導板数枚分が輝くような笑顔で答えた。こちらもそうお目にかかれない美人だった。面差しはどこか似通っている。
「ウルさんと、ベルさん?」
「はい」
「お二人は、ええと」
「夫婦です!」
「……姉弟です」
一秒の間も置かず即答するベルをたしなめ、ウルは訂正した。
「ああ、えーっと……どうぞ、通っていただいて結構ですよ」
「ありがと!」「ありがとうございます」
雨上がりの空気、あざやかなラピスラズリの天井、水上都市にかかる大虹、そして緑の葉と繊細な色彩に満たされたパドメ蜂窩全体のえも言われぬ自然美。
ウルとベルの上陸した弩級オニハス――水上に浮かぶ大きな円状の葉――は岩盤のように分厚く、浮力によっていくつも建物が並んでいたとしてもいささかも凹んだりしない。建物は大きさも形のバラバラだが壁や屋根の色味に統一されたグラデーションがかかっていて、水上都市の景観を邪魔すること無く調和していた。
弩級オニハスの大路を横切りつつ、ウルたちは道の左右に並ぶ他愛のない屋台に目をやって小さく笑った。店という概念自体が、このパドメ蜂窩に貨幣経済が存在することを示している。もし百人にも満たない共同体であれば、その住民はわざわざ店舗や貨幣を挟まず直接分配や交換を行うだろう。
ウルは両替商に手持ちのマテリアルを渡し、いくばくかのカネを手に入れると、塩味のきいたオヨギトリの串焼きを買って食べた。美味しいが小骨が多い。
*
パドメ蜂窩の主機関樹は他の蜂窩で多く見られるようないわゆる樹木状の姿はしていない。全てハスをベースにした形になっている。
長い茎の蓮の花が中央主機関華であり、咲き乱れる巨大な蓮の台と綺麗な真円を描いて湖面に浮かぶ弩級オニハスは、メインにつながったサブ機関樹。つまり全体像は全て機関樹で出来ているのである。
それらが渾然として花開くさまは迷宮惑星の他のどの場所とも違い、卑小なビィの生きる世界とは全く切り離されたまるで美しい夢のようだ。遠目には水上で翼を広げたヒスイサギのように優雅で美しく、近くによるとそのみずみずしい緑の葉と淡桃の華が空を覆うラピスラズリの輝きに照り映える。
そこに住まうビィたちは、蜂窩の規模にしては数が少なく、100万を少し超えるほどだ。騒音も少なく、広々として静かでやさしい風が通り抜ける音を邪魔しない。迷宮に生まれ死んでいくビィたちにとってこれ以上ない理想的な世界もないだろう。
優雅に鳥の舞うが如き麗しの蜂窩――。
と、その時。
その美しさに似合わぬ衝撃音が、ほかならぬ主機関華から低く響いた。
ウルとベルの目には、何かが爆発したように見えた。
*
「誰か、誰かおらぬか!」
老侍従が頭に埃をかぶりながら大声で叫んだ。
しかし天上殿の内宮は度重なる破壊の音と震動とで大混乱に陥り、侍従の声に応える者はいない。
「殿下! それ以上はお控えを……!」
侍従の言葉は途中で途切れた。
突然何か見えない手のようなもので胸ぐらを掴まれて、身体を天上に押し付けられたからだ。
「控えるのは貴様だ。家老のたわごとなど聞く耳持たぬ」
裸足の足音が機関樹削り出しの最高級闇黒壇の板床に響いた。
「し、しかしシュタイナ殿下……」
「控えろ、と言っておる」
侍従が悲鳴を上げた。その体が天井近くからいきなり投げ出され、床に叩きつけられたからだ。
殿下と呼ばれた男が姿を現した。褐色の肌、見事に均整の取れた長躯。崩れ落ちる天井の破片が自ら頭を垂れるようにその行く手から身を引いた。誰であれ、なんであれ、彼の足を妨げる事は許されない。いかにも不興げなその顔はやや赤らみ、蜜酒の匂いが漂う。
「近頃の端女は酌もまともにできぬか」
一房垂れた前髪を厭わしげに払ったシュタイナは、ゆったりとした薄衣を幾重にも重ねた優美な服の裾にこぼれた染みを見て大いに表情を苦くさせた。
「も、申し訳ございませぬ」
「侍従よ、なぜお前が謝る」
「人員の手配はわたくしめの差配にございますれば、あの娘御に責めはございませぬ」
「それで?」
「罰するならどうぞわたくしめに……ぐあっ!」
老侍従の言葉はふたたび遮られた。今度は見えない手に肩肘を後ろからひねられ、床に押し付けられた。奇妙に歪んだ空気から、見えない手は本当に目に映らない力場でつくられたものであることを伺わせた。門術だ。
「たわけが。誰が何を罰するか、決めるのは余だ。ただひとり余だけだ」
天上殿内宮に老侍従の声にならない悲鳴が響いた。肩関節を脱臼したのだ。
「つまらぬ」
シュタイナはそう言って、板の間に足音を響かせて自室へと向かった。秀麗な美貌には、戯れに侍従を責めても苛立ちが刻まれたままだ。
あとに残されたのは何人かの負傷者と、ほとんど全裸の端女たちが、ひたすら嵐が通り過ぎるのをまって震える姿だけだった……。