ep.6 ターニング
夏が終わってから卒業するまでは、驚くほどあっという間だった。
数回だけ夏月さんと夕飯を食べに行ったりしたが、ほとんど勉強ばかりしていた。当たり前だが、かったるいことは確かだった。
桜の蕾が、いまかいまかと膨らんできた頃。俺は、第一志望には落ちたものの、第二志望は受かり、浪人は免れた。第一志望校しかオープンキャンパスに行ったことは無かったので、父親と二人で、通うはずの大学に、書類の提出も兼ねて見学しに行った。なかなか悪くない雰囲気で、父親も嬉しそうにしていた。大学生かぁ、と柄にもなくしみじみした。
俺の合格から一ヶ月後、香穂も合格を勝ち取ったという連絡が入った。第一志望にしていたという、日本最北の国にある大学には落ちたらしいが、通える範囲にある大学には受かったとのことで、お互い引越しせずに済みそうだね、と電話口で複雑な気分になった。俺の様子は、少しおかしかったんじゃないかと思うが、香穂は香穂で第一志望に落ちたことが少なからずショックだったらしく、元気のない声だったので、気付かれはしなかった。
俺は立花宅の前で香穂を待ちながら、腕時計を見た。五分ほど約束の時間は過ぎていた。報告の電話の後、二人で東京へ買い物に行こうと誘ったのだ。受験と、その手続きが終わってから、自動車教習所と、高校の友達との飯ばかりだったので、久しぶりの遠出だった。
「ごめん! 遅くなって」
ドアを勢いよく開けて、香穂は出てきた。その後ろからおばさんの、たっくんごめんねー、という声が聞こえる。
「いいよ。そんな待ってないし」
受験であまり動かなかったはずなのに、香穂はすこし痩せて見えた。でも、心配していたより元気そうだった。
駅まで歩いて、いつも高校に通う方向とは逆の電車に乗った。二度の乗り換えの後、だんだん背の高い建物が増え、電車も混んできた。席もだいぶ埋まっていたので、ドア付近に立った。隙間に余裕がなく、隅に押し込められる。
「なんか、背伸びた?」
かなり近い距離で、香穂は俺を見上げて言った。
「勉強してたのに?」
「それもそうか」
ガタン、という大きな音と共に、電車が強く揺れた。香穂の方に倒れこみかけて、ドアに手をついた。ちょうど、抱き込むような体勢になった。その時、俺の鼓動は早くなった。しかし、それは自分でも驚くほどに、ほんの少しのことだった。香穂はちょっと顔をしかめて身を引いた。少し前まで平気で抱きついてきてたくせに、と俺は香穂との距離を感じた。それと同時に、俺は少なくとも見てくれは大人になったのだ、と思った。黒い濁りのある想いを、淡くともまだ抱えたままでこの年まできた。と。そして俺は、決して受け止めてもらえないそれが、腐って本当に一生こびりついて離れなくなる前に、捨てなければならないのだ。たとえ、自分を無くしかけるとしても、越え難い壁の向こうであったとしても、俺を好きだと言ってくれる人が居るのだから。好きな人に、好かれない事の寂しさとその感情のしつこさを、よく知っていて、俺はあの人をとても好きで、時間はかかっても、きっと一途に愛することが出来ると、思えるから。
思考の海に浸かっているうちに、人の多い都会に着いた。いくらかの洋服屋や、雑貨屋を香穂に付いて見て回ったが、俺自身は特に何も買わなかった。他に、武春は見たいところある? と聞かれ、花屋ってあんのかなと言ったら、変な顔をされた。その疑問を流して、チェーン店のカフェに入った。
香穂はミルクティー、俺はココアを注文した。カフェなんだからコーヒーくらい飲みなよー、と自分を棚に上げて香穂は言った。睨んでやると、にやりとした。俺がコーヒーを飲めないことは、よく知っているのだ。
「疲れたー、人酔いって本当にするんだね」
「確かにすげぇ人混みだった。でも、その割きっちり買うもんは買ってんのな」
横に置かれた紙袋の数々を見た。
「だって、忙しくて全然買い物できなかったし」
「まぁ、だろうな。俺も車の免許取りに行ってたりしてて、あんまどこにも行ってない」
即行で取りに行ってんのね、と笑った後で、香穂は真剣な顔になった。
「どこにもって、その、前に話してた女の人のところにも?」
「そうだな。寒くなってきてからは、会ってない」
実を言えば、行きづらかったのだ。いつも呼ばれて行っていたし、合格の報告以外、俺たちの間に連絡は無かったのだ。でも、俺はもう、逃げないと決めた。
「だから、今日、行くつもり。さっき花屋あるか聞いたでしょ?」
「花、持ってくつもりなの?」
俺は頷いた。香穂はまだ少し残っているミルクティーをそのままにして、立ち上がった。
「え? もう出んの?」
「そういうことなら、早くしなきゃ。花屋くらい、地元着いたらあるよ」
俄然、勢い付いた香穂に圧倒されつつ、店を出た。相変わらず人の多い界隈を、すり抜けるように駅に向かった。
「武春、頑張ってよ!」
「おう」
地元の駅まで帰ってきて、しばらく歩いたところで、香穂と別れた。さっき買った、オレンジ色の小さい花束が、まだ元気であるのを確認して、ほとんど走り出す勢いで、夏月さんの家を目指した。ラインで、これから三十分後くらいに、家行きます。とだけ、連絡をした。土曜日の夜七時。家にいてくれよ、と半分祈るような気持ちだった。
アパートの前に着いて、スマホを見て、いいけど、急にどうしたの? というコメントに、ほっとした。どうやら、家には居るようだ。
何度も鳴らしたことのあるインターフォンを、恐ろしく緊張しながら押す。はぁい、という声のすぐ後、ドアは開いた。現れた夏月さんは、最後に会った時より、小さく見えた。
「夏月さん。話があって、来ました」
「え? う、うん。どうぞ、入って」
俺は中に入り、夏月さんをソファに座らせて、目の前に跪き、花を差し出した。ちょっと痛いか、と思ったが、ここでかっこつけないでどうする、と夏月さんを見つめた。
「ちょ、ちょっと。花? なんでそんな」
「いいから。おとなしく聞いててください」
おろおろしている夏月さんを落ち着かせて、軽く呼吸を整えた。
「俺、まだ十八だし、香穂のこともあったし、難しいことはわかってます。でも、決めたんです。ずっと前から、わかってたはずのことだけど、決心つかなかったこと、やっと決めたんです。あなたが嫌なら、一生香穂と会いません。引っ越すと言うなら、大学を卒業した後で、着いて行きます。だから、俺と付き合ってください。あなたが俺で良いと言ってくれるなら、絶対に、貫き通します」
そこまで一気に言った。夏月さんはしばらく黙って、泣き出した。
「……真面目なんだから」
こんなことふざけて言う人、居ないですから。と俺は、立ち上がって夏月さんを抱きしめた。
「うん。すごく嬉しい。でも、本当に言って欲しいこと、まだ言ってくれて無いんだけど」
胸に額を押し付けて、夏月さんは言った。少しの間の後、俺は思い当たった。
「好きですよ。あなたが、一番、好きです」
一番。そうだ。だって、今、夏月さんを抱き込んだ俺の鼓動は、壊れそうなほど早い。
「本当に?」
「ええ、本当に」
「……彼女、だもんね?」
そう言って顔を赤くした夏月さんを、俺は心から、いとしい、と感じた。