ep.5 夏の終わり
ミンミンと煩かったのが、いつの間にかリンリンという羽音に変わった、晩夏の夜。よく磨かれた窓越しに見えるのは、昼とうってかわって涼しげな外だ。少し前まで、十脚ほどのテーブルには背の高いグラスばかりだったのに、小さなコーヒーカップがちらほら現れ出している。そろそろ帰りなさい、とおばさんからさっき電話が来たというのに、立ち上がりもせずに香穂は見慣れない化学のテキストの上に突っ伏した。
「明後日から学校やだよう」
「お前、宿題できんてんだからいいだろ。俺終わってないんだぞ」
「でも、日記でしょ? 終わってないの。てか、なんで日記なんか溜めるのよ。書く意味無いじゃない」
我が高校きっての無駄な課題と評判の『夏休みの記録』だ。学習記録ならまだしも、これはその名の通り、夏休みにあった出来事を記録しなければならない。受験生の、勉強に時間を食われる日々を読んで何が楽しいのだろう。しかも、三行以上書かなければならないという制約付きだ。わけのわからない課題だが、必須課題なのだ。
「そうだけどさぁ。逆にそんな律儀に毎日書いてんの香穂だけだろ」
「全部一気に模試前日に書いてるのも、武春だけだよ」
そんなこたぁねぇよ。とぶつぶつ言いながら手を動かす。夏休み最終日の模試。昨日までは焦って勉強していたが、直前になって逆に落ち着いてしまった。久しぶりに香穂に会ったというのもあるだろうけれど。やっと八月までたどり着いた日記を眺め、日付を遡って見て、固まる。
「おーい、武春くんペンが止まってるぞ」
「お、おう」
七月末の出来事、ね。俺は頭に浮かんだ情景を振り払った。書けるわけが無い。
「今日、も。勉強で、たいへんでした」
「さっきから一週間くらい、一行目ずっとそれじゃん! 」
そう突っ込んで、香穂はグラスから氷を一つ口に入れて、がりがり噛んだ。
結局、おばさんの連続電話攻撃に負けた香穂が、もう帰ると言い出したので、まだ十日分ほどあったが、俺は日記をたたんだ。昔馴染みの店主さんに挨拶をしてから、喫茶店を出て、すっかり暗くなった外を並んで歩く。
「あー、やだやだ、学校やだ」
「そんな嫌か。でも始業の前に模試あるし、香穂ってどっちにしても塾とかあったんだろ?」
「模試は近所で受けるだけだし。塾より学校のほうが、気がずっと重いの」
国公立を受験するという香穂は、毎日のように塾だ。今日は午後だけだが休みだと言い、いつもの喫茶店に誘われて、ほぼ一ヶ月振りに会ったのだ。よくもそんな生活が送れるな、と、もう十数年一緒にいるくせに、計り知れないものだと思った。
「たっくんさぁ」
「え?」
たっくん。懐かしい呼称だ。小学生のとき、俺がやめてくれと言うまで、香穂は俺をたっくんと呼んだ。
「なんで、たっくんなの?」
「いや、なんとなく。……あのさ、私、たっくんに何かした?」
何か。なにかしらであればいつもしている。
「何かって?」
「うーん。何だろ」
首を傾げる香穂は、いつだかテレビで見たフクロウみたいだ。ちょっと頬を膨らませているからだろうか。そのまま伝えると、ちょっとではなくなった。
「たっくん嫌ぁーい」
俺としては、可愛らしいフクロウを思い出して言ったのだが、気に召さなかったようだ。
「嫌いで結構だ。つーか、別に俺、香穂に特別何もされた覚えないんだけど」
「そう? ならいいんだけどさ」
あんまり良く無さそうに言って、香穂は手提げを大きく振った。
「だってさ、今日のたっくん。なんかおかしいよ」
「おかしい? どこがだ」
「うーん。どこだろ」
はっきりしないことを言う香穂なんて、珍しい。いつも変に論理的なのだ。俺以上に、人の感情に鈍く、こういう内面の話になると滅法弱いからだろう。しばらく考えた後、人気のない道で、香穂は俺の前にいきなり飛び出し仁王立ちした。
「えっとね。まず、話しかけても、三回に一回くらい聞いてない」
「そうか?」
「そうだったよ」
かなりの高確率で無視をしていたことになる。そんなにぼんやりしてただろうか。
「次に、窓の外をずっと気にしてる」
「マジで?」
ふんふん、と二度うなずいて、香穂は、俺の顔を指差した。
「あと、なんか大人っぽくなってる。顔が老けたのもそうだけど。なんか、この頃は中身も」
そう言われて、俺はぎくりとした。これ以上ない心当たりがあったからだ。抽象的なことは苦手なはずの香穂なのに、こんなことに直感が働くとは、怖い話だ。
「今、びっくりしたでしょ。微妙に縮こまったもん。たっくんのことは、お見通しなんだからね!」
好きだと言われて、途方に暮れかけたやつがよく言う。それは半ばブーメランのように、自分に返って来たが。
「たっくんって言うのやめろって」
「ごまかしてる! あやしい。絶対なにかあったね。言うまで帰さないよ」
俺がというより、お前が帰らないのがまずい。と先程までの電話の頻度から思ったが、どちらにしても長引かせるのは具合が悪かった。とはいえ、どう言えばいいのやら、俺にはわからない。
「どう言えばいいんだろ」
上目遣いで見つめてくる香穂を、可愛いと思うからこそ、どんどん口は重くなる。
「早く言ってよ」
「わかってるって」
俺はため息をついた。香穂をじっと見つめ返してやったあと、言った。
「お前以外に、好きな人が、出来たかもしれない」
「へ? ほんとに! よかった!」
素直に嬉しそうな香穂を苦い気持ちで見つめながら、口を開く。
「でも、わかんない。正直、お前の事、まだ好きだし。俺、最悪なの。いろいろあったんだけど、だとしても、失礼なことをした」
好き。三回目だというのに、声が震える。でも、俺が言いたいことはそこでは無かった。
「失礼なこと?」
「うん。好きなひとにしか、するべきじゃねぇような、こと」
香穂は数秒のあいだ眉をひそめて、思い当たったのか、目を丸くした。
「え。ちょ、え? 」
なぜか忙しなく辺りを見回して、誰も居ないというのに、俺ににじり寄って香穂は声を低くした。
「まさか、武春」
「うん」
「き、キスではなく?」
「そうだね」
香穂は、ええ! と小さく叫んだ。これまでの経験上、またもズレたことを考えちゃいないだろうな。という懸念があったので、わかりやすいようにスラングを多用したが、杞憂だったようで、わかってるよ!と止められた。
「しかも相手、八つも年上なんだよ」
おろおろする香穂に追い打ちをかけるようにそう言って、俺は歩き出した。
「えっ、八つも?」
「うん。八歳違う。学年は七年なんだけど」
うー、と唸りながら落ち着かない香穂を、無理もないとは思いつつ軽く叱る。
「いや、あの。七年の差って別に、最近じゃ、そんな言うほどじゃないんだろうけどさ。武春が、ってなると、びっくり」
「そりゃそうだよな。俺もびっくりしてる」
街並みが、商店街から住宅地へと変わってきた。もうすぐ立花宅、もとい香穂の家に着く。
「身も蓋もないこと聞くけど、何回?」
「一回。先月の末に」
「おばさんたち居ない時じゃん。まぁ、そりゃそうか」
香穂は、すっかり群青に染まった空を仰いだ。
「乱れましたなぁ、たっくん」
「不埒ですよ、ほんと」
冗談めかして言って笑った。香穂とこんなことを話すなんて、変な気分だった。同時に、やはり虚しかった。もうほとんど到着しかけたのに、またも香穂は俺の前に立ちはだかった。
「あのね、武春。そんなことしといて、まだ私が好きだなんて、馬鹿なこと言ってちゃダメよ」
そんなこと。俺は顔をしかめた。
「私、今ひどいこと言ってるよね。でもね、私、たっくんとは付き合えないし、そういうことは出来ない。嫌いだからじゃなくて、好きなんだけど、でも」
「うん。わかるよ」
何度も自分に言い聞かせたことだ。わかっている。俺は苦笑いした。
「武春。私ね、もう武春がいなくても大丈夫だよ。国立の医学部に入れるくらい、しっかりしなきゃなんだもん。絶対、大丈夫。だから、武春も」
ね?と微笑んで、香穂は家に向かった。俺は止まったままでいた。
「またね! 今度は、すっきりした顔で会うんだからね!」
転けそうな様子で玄関に入って行ったのを見送って、俺は長く息を吐いた。
そんなぼんやりした顔してたのかよ。と心の中でぼやきつつ、踵を返して、すぐそこの角を曲がった。俺の家、河東の表札まであと数分で着いてしまうだろう。