ep.4 するべきでないこと
R15要素のある描写があります。
ご注意ください。
ーーーーなんか今、夏月さんすげぇこと言わなかったか?
うまく頭で処理しできないまま、呻くように口を開く。
「え、あ。あの、それって」
ワタワタしているうちに、そっぽを向いていたはずの夏月さんは、俺に寄り添うようにくっついて座りだした。
「余裕なさげだね、少年」
こっちの焦燥を他所にへらへら笑っているのをちょっと睨む。そうだったんですか、俺のこと好きなんですか。そこまで考えて、飲みかけのままおいてあったビールを、俺はひっ掴んで煽った。
「もう、いらないんじゃなかったの」
「そう思ってたんなら、さっきなんでくれたんすか」
「だって、してみたかったんだもん」
悪魔だ。俺はそう思いながら、缶を空にして、ゴミ箱に放る。そこ、缶捨てちゃダメなのに。そんなことをぶつぶつ言い出した口を、俺は強引に塞いだ。
なんだか悔しかったから、本当はもっと、夏月さんが慌てるくらいのことをしたかった。でも、キスをしたことも、されたことも初めてだった。だから、塞ぐだけでそれ以上どういう風にすればいいのかわからなくて、俺は唇を離した。
向かい合って、目を見ると、少し泳いでいた。ちょっとは慌てさせられたらしかった。
「好きでもない人にそんなことしていいのかな?」
「させてるのは、誰ですか」
そう言いながら、背中の方にどろどろした何かがながれているような感覚に襲われた。口移された酒と寄り添う体に翻弄された、と欲望に身を任せてしまうのも、十七の男としては"健全な"選択なように思える。実際、体は熱い。でも、わからない。押し倒し方ではなくて、俺の中の隅っこで身を潜めている、香穂の忘れ方が。
「ごめん。そうだよね。高校生だもんね」
くしゃくしゃと俺の頭を撫でて、耳元で、目が据わってるよ。と呟いた。うるさいですよ。と身を引きかけた俺の腕を掴んで、夏月さんは言って欲しくなかった事を言った。
「ごめんね。カホちゃんじゃなくて」
泣き出しそうな声だった。俺はたまらなくなった。夏月さんが俯いてしまったのを、俺は掴まれていない方の手で無理矢理こちらを向かせた。
「別に、夏月さんが香穂だったらよかったなんて思いませんよ」
目の端の涙を親指で拭って、少し手を降ろす。ぎゅ、と夏月さんは腕を掴む手を強めて、引く。
「あの、そろそろ、やばいんですけど」
「いいよ。構わないから、武春の好きにしてよ」
「構わないって、そんな」
不純な。俺は心の中で叫んだ。自分は夏月さんに傾倒しているんだと、認めざる得ないのがわかる。
俺はこの人だけを、好きなわけじゃない。でも、抗いきれない。もう、体が昂ぶってどうしようもない。
「生真面目なんだから。嫌いになっちゃうよ?」
「それは……嫌です」
俺は彼女を抱きしめた。少し汗ばんでいた。自分でもわかっていたのか、だからお風呂入るって言ったのに、と夏月さんは俺の胸に顔を半分うずめながら言った。それは征服感のある光景だった。別に構いません、と耳元で呟いたら、変態ね、と夏月さんは笑った。
ベッドに、勢いよく組み敷くと、ギシッというリアルな音がした。首筋に唇を這わせて夏月さんの髪を撫でた。耳を優しく咬むと、小さく呻いた。反応があったことに、全部脱がせるのももどかしいくらい、俺の頭の中は欲望に支配されてしまう。香穂じゃない。もう押し倒した瞬間にそれは痛烈に感じていた。しかし、それは俺を押しとどめてはくれなくて、むしろ遠慮を無くさせていた。背徳感が倒錯して俺をどうしようもなく掻き立ていた。欲しい、欲しい、欲しい、欲しい。向けるべき欲望の方向が間違っている、分かる、でも正しい方向なんて用意されていない。ただ、俺は、俺はひたすら体を探って夏月さんを鳴かせて、いつの間に置いたのかベッドサイドにあった小さい箱の中身を、震える手で取り出して使った。見下ろすと、夏月さんは満足気に微笑んでいた。俺は余裕もなく、端の上がった唇に深くキスをして、そのまま動き続けた。声を上げそうになるたびに、香穂の姿がほんの隅っこにだけ、ちらついた。
どうして、どうしてなんだ、今、俺は夏月さんに向ける欲望だけに塗れてるんじゃないのか、香穂だったら良いなんて思っちゃいないのに……
どうしようもない虚しさが広がるのから、意識を遠ざけるように、一層俺は夏月さんを激しく抱いた。感じたことも無いような波が俺を襲った。
日差しの眩しさで目が覚めた。彼女は俺の隣でこちらを向いて寝ていた。俺は昨晩のことを思い出して、気恥ずかしい気分になった。自分じゃないみたいだったから。そして、どこかで香穂を見た気がしたから。馬鹿だと思う。自分でも。漂う空気は、まだ夜のそれを残していた。もう日は高く照りつけているのに、こんなふうであることが、酷く卑猥なことに思えた。昨晩したことよりもずっと。
俺は起き上がってシャワーを浴び、ベッドに脱ぎ捨てたTシャツを着る気にはなれなかったので、下着とズボンだけ履いた。窓を開け、台所で換気扇を回した。もう、日は高い。飯だ、何か作ろう。
米の場所がわからないなぁと思いながら、勝手に開けた冷蔵庫には、買い物したばかりなのかいろいろと食材が詰まっていた。ここまできちんと詰まっていると、逆にどれを使っていいのかわからない。これならいいだろうと、卵と牛乳を取り出す。米も見当たらないことなので、フレンチトーストを作ることにした。食パンはなぜだか電子レンジの上に乗っていた。浸ったパンを焼いていると、夏月さんが起きてきた。
「なに、作ってんの? 」
「フレンチトーストですよ。見たまんまじゃないすか」
「へぇ。美味しそう」
夏月さんは初めて見たみたいに言って、洗面所に消えた。そして、帰ってきてから慌てた。
「てか、ごめん。なんか、用意させて。あ、あれ。なんで上裸? 跳ねて熱くない?」
「俺も勝手に冷蔵庫開けてすみません。……そりゃあ。あのTシャツをもう一回着る気にはなれません」
ベッドのほうを見て言うと、夏月さんは決まり悪そうに苦笑いして、うなづいた。
まぁ、俺のせいだけど。と焼く音で聞こえない程度の声で呟いたつもりが、聞こえたらしく、頭を軽くはたかれた。
「そーいうこと、朝になってからは言わないの! 恥ずかしいでしょ! なんか!」
「だって、事実じゃないすか」
「いや、でも、ああいうことに持ち込ませたのは私だし。って、ああ。もういいって恥ずかしい」
何を思い出したのか、頭を抱えながらソファへ沈み込みに行ったのをへらへらと笑って、俺はこみ上げる気恥ずかしさに耐えた。そして、紛らわすがてらに、手に持ったフライ返しの取っ手を見て言った。
「調理器具、オレンジで統一してるんですね。他に、布団もだし、そこのクッションもオレンジ」
「そう言えばそうだね。私、オレンジ好きなのよ。だから、自然と選んだのかな」
夏月さんは、そう言ってクッションを持ち上げた。確かに、似合うな、と俺は思った。
「ねぇ、武春」
出来たてのフレンチトーストを美味しそうに食べながら夏月さんは、素肌にチャック付きパーカーという、滑稽な格好の俺を見た。昨日着たリネンシャツは、悪いと知りつつ天日干ししている。
「なんすか」
「私たちって付き合ったことになってるの?」
柔らかいはずのトーストが喉に詰まる。そばにあった水で飲み込んだ。
「付き合ってくれるんですか?」
「私、何才か知ってる?」
疑問に疑問。正確には知らない。だが、社会人であることは確かだ。五つ以上は上なはずだ。
「二十四、とか?」
「お、あたり。でも、もうすぐ二十五」
「誕生日いつなんですか?」
「来月」
学年で言えば、七つ違い、か。七年。小学校を卒業しても余りが出る。
「香穂ちゃんのこと、好き?」
夏月さんは頬杖をついて、首を傾げて言った。七歳も年上の人だと俄かに信じられないくらい、可愛らしい。
「たぶん、まだ好きです。もう十年も前から」
こんな風に素直に口に出したのは、告白したとき以外無かっただろう。
「十年か。凄いね」
夏月さんは俯いた。残っていたトーストを食べて、口を空にしてから俺は言った。
「どうしょうもないんですよ。香穂のことが好きなのが、もう普通になっちゃってて。切り離したら、俺自身まで無くしそうなくらい。……いろいろとダメですね。これで付き合っちゃあ」
「生真面目ね」
昨日聞いたようなことを言われ、そう言う問題かよと俺は笑った。笑うしかなくて、笑った。
俺はまだこれから四年以上学生をやるつもりで、彼女はそのうちにいい年になる。俺には想いを残している人がいる。難しいのは、目に見えていた。
「勉強、頑張んなさいよ」
「あなたが言いますか?」
「それも、そうね。また、ご飯一緒に食べに行ってくれる?」
「勉強って言った口でよく言えますね。……呼んでくだされば、来ますよ」
やはり、不純だ。と俺は思った。