ep.3 酒を杖にし
お姉さんはその後、恐ろしいピッチで酒を飲みながら、仕事の愚痴を垂れ出した。一時間以上休まずにしゃべり続けた挙句、汗をかいたからもう一回風呂に入るなどと馬鹿なことを言い出したのを全力で止めて、代わりに俺が風呂場へ行った。俺自身も酒が入っていたので烏の如く冷たいシャワーだけさっさと浴びて、元彼の物だというラフな着替えを借りて、押入れから布団を引っ張り出した。邪魔になったのでちゃぶ台は仕舞った。
「もうねぇ本当にひどいわよ、挙句に、責任は君にもあるんだからな。だと! なによもう!」
しこたま酒を飲んで、呂律はかろうじて回っているがかなり口調は乱れている。何を思ったのか、ベッドの上に仰向けになって何度も寝返りを左右に繰り返している。
「ひどいです。たしかにひどいですけどそれ何回目ですか、もう百回は聞きました」
「そんなに言ってない!正確には八回!」
「数えてたんですか? 」
「冗談だってーのー」
いい加減ベッドから埃が立ってきたのではないかと思えるほど、ベッドでバタバタしているので、起き上がって左手でお姉さんの右腕を掴み動きを止めさせた。
「酔っ払い過ぎですよ。早く寝てください。そんな暴れてたら、余計酔いますよ」
手をそのままに少しだけ顔を近づけてそう嗜めると、お姉さんは俄然押し黙った。急な沈黙に気まずくなって体勢を直そうと手を放しかけた。が、それは叶わなかった。逆に腕を掴まれて、軽く引っ張られた。
「武春」
「……なんすか」
「好きな子とか、居るの? 」
突拍子もない質問だ。取り繕うこともできず、顔が熱くなったのがわかった。
「居るんだ」
「うるさいですよ」
「どんな子? なんて名前? もしかして付き合ってたり? あ、付き合ってたらさすがにこんなとこ来ないか」
「とりあえず、普通に座らせてください」
そのまま座ればいいじゃない。などと呟きつつ腕を放してくれた。俺は、布団の上に座った。
「なんかちょっと変な子ですよ。うまく言えませんが。名前は香穂です。付き合ってません。もう二回振られてます。もう二年くらい前のことです。でも、仲いいですよ。幼馴染なんです」
「君にとってはただの幼馴染じゃないけど? 」
「まぁ、そう、ですね」
あんまりあけすけに言われて、思わず顔をそらしながら返してしまう。
「報われない」
同情を含んだ言葉だった。そんなもんでしょ。とボソボソ言って、横になり布団をかぶる。
「そう言うお姉さんだって、前までずっと不毛なことを言ってたくせに」
「私は君の姉ちゃんじゃない!」
「じゃあ、楠原さん」
「それもなんかよそよそしくヤだ」
名前で呼べと言うのだろうか。正直、ちょっと気恥ずかしい。クラスの女子で名前で呼んでいるのは、香穂くらいだ。どこかで聞いた、名前で呼ぶと女性を惚れさせやすい。なんて誰が言ったことなんだろうか。そいつに一発怒鳴ってやりたい。それか、小学生のときからずっと名前呼び、だなんてそんなのはノーカウントだということなのだろうか。
「もしかして、名前知らない?」
そんなわけあるかい、と思いながら目線を戻して、驚いてしまった。見たこともないくらい、不安げな顔をしていた。本当に知らないと思っているのか。それとも。
「夏月……さん」
俺が名前で呼ばないことを悲しがっているから、なのだろうか。わからなくて、俺は夏月さんの目を見て言った。だから、黙ってしまうと、ただ見つめあうだけになる。それは数秒以上の間続いた。夏月さんは一度俺から目を逸らした。でも、またこちらを見て、照れ隠しみたいに笑った。とても幼い表情だった。
「おしい。さん付けなくていいのに」
「いくつ年が違うと思ってるんですか?」
「失礼ね」
確かに。俺はそう思った。女性に年齢を気にさせるような言動はタブーだ。知ってる、ちゃんと。でも、動揺が正しい判断を鈍らせている。
「わかってるわよ。わかってるんだけど、さぁ」
俺に言うというより、自分に言うみたいに夏月さんは言った。そしてなぜか、廊下に出て行った。
どうしたんだろう。と思っていたが、かすかな水の音の後、すぐに戻ってきた。夏月さんは冷蔵庫に手を伸ばし、またビールを手にとって開け、一口煽る。まだ飲むのかと、さすがに体は大丈夫なのか心配になってしまって、じっと見ていると、飲み込んでから言った。
「飲みたい?」
俺はよほど物欲しそうな目をしてたのだろうか。夏月さんはおもむろに俺のほうへ寄ってきた。いや、マジで酔っちゃったらまずいんで、そう言いかけて、俺は固まった。覆いかぶさるように顔を近づけてきたのだ。
「あの、えっと、夏月さん?」
「これね、高いのよ、結構」
これ?ビールが?そりゃ本物のビールだし。俺は身動きが取れないまま、そんなことをぶつぶつと頭の中で言っていると、夏月さんはビールを少しだけ含んだ。そして、それを俺にくれた。その液体の苦味を感じたのは、唇の離れた後だった。
「濃いでしょ。高いやつは濃いのよ」
「この状態で濃いか薄いか判断できるほど、俺の神経は太くないですよ」
不思議と気持ち悪いとは思わなかったが、あまりのことにそれだけ言い返すとぼんやりしてしまった。なぜこんなことをしたのか、なんの意味があるのか、ガキをからかうのに理由なんて無いんだろうか。人物の心情理解は俺の苦手分野なのに、いきなり難問すぎる。
「若いわね」
「そりゃ、十七ですから」
解答者泣かせの登場人物は、少し目を眇めて俺を見た。
「そうね」
そう、寂しそうに言った夏月さんを振り払うこともできないまま、でも見つめることもできないからまた目を逸らし、同じ体勢でしばらく静かになってしまう。
「動揺してる? 」
「しないわけないでしょう。……夏月さん、酔いすぎです。ガキをからかってるつもりでしょうけど、こっちからすれば」
「ちがう」
夏月さんは強い口調でそう言った。じゃあなんのつもりで、こんな。圧されて小さな声になった俺にたたみかけるように言う。
「少なくとも、今は違う」
そう言い切って、夏月さんは勢いを無くした。俺は何も言えなかった。
「あのね、私、いっつも、恋人には振り回されて来たの」
何度も聞かされた事だ。毎度々、怒りのこもった口調で。しかし、聞こえた声は細く震えていた。
「ごめんね。少し前までは、からかうつもりだったの。ずっとからかわれる側で、疲れちゃったから。高校生なら、子供みたいなもんだって思って」
夏月さんは体勢を戻して、俺の横に座った。
「本気にならないでいられるだろうなって思ったから。振られるのを怖がるのも、もう嫌で。結局、本当に捨てられちゃったし。じゃあ、今度は逆の立場になってやろうと」
「ひどいなぁ。遊ばれてたんすか、俺」
「そうなる、かな。でも、カホちゃんって子が好きなんでしょ。所詮、私には男を振り回す才覚なんて無いのね」
俺はちょっとムッとした。
「よく言いますよ。充分俺は振り回されてます。受験生なくせに、呼び出されてちゃんと訪ねちゃうくらいには」
「そうだけど。だって、こんな」
夏月さんは体育座りで、あごを膝に乗せてそっぽを向いた。
「こんなに、好きになるつもりなかったもん」