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ep.1 ボーイ・ミーツ・ウーマン

 スポーツ・ジャグの水を雑草の中に捨て、エナメルバッグに巨大な水筒であるそれを突っ込んだところで、田中の叫び声が聞こえた。

河東(かとう)先輩、お疲れ様っす!」

 田中はピッチの中にいて、俺は部室代わりのコンテナの前だった。距離があったので、手を振るだけにして、途中で顧問に挨拶をしてから、俺は帰路についた。

 三年生が引退して早二ヶ月。地区でも有数の弱小である我が校のサッカー部は、今年も一回戦負けで、六月早々に世代交代となった。俺は部長になったが、大層なものじゃない。部員はぎりぎりの十ニ人だ。二年生は三人だが、一人は幽霊であるため、実質ニ択だったわけだ。もう一人は渡辺という男で、俺のほうが出席番号が早いから、などのくだらない理由で選ばれたんじゃないか、とは思っている。


「おーい、河東、遅えって」

 学校近くのコンビニまでたどりつくと、渡辺がアイスをかじりながら塀に寄りかかっていた。

「待ってたのか」

「うわ、ひでぇ。さっき言ったじゃんよ。カラオケ行こうぜって」

 大げさに驚いたポーズを取って、渡辺は哀れっぽい声を出した。

「いや、今日から家庭教師のバイトだから、時間無いし。夏休みだけ短期でするんだって前から言ってただろ?」

 そうだったっけぇ?と首を捻る渡辺に、一時間だけ付き合うことにして、コンビニから引き上げた。


 お互い四曲ずつ歌って、時間切れとなった俺はカラオケボックスを出た。渡辺は続行すると言って、タッチパネルを睨んでいた。ヒトカラというやつか。本当にする人っていたのか。と意外な気がした。

 さっき歌った、ちょっと古い歌を口ずさんで、歌詞につられてスマホを見た。香穂からの連絡は無かった。最後に来たのがいつだったか、全然思い出せない。前から、あまり連絡を頻繁にするようなタイプでは無いが、だんだんと、香穂が自分から離れていっているのは実感していた。離れてかないで、と言ったのは向こうだったのに、と思わなくは無い。仲が良いのに変わりは無いけれど。

 自宅に荷物を置いて、シャワーだけ浴びた後、バイト先の生徒の家へ歩いて向かう。もともと、近所付き合いのある家で、すぐ近くなのだ。

 楠原(くすはら)、という表札を確認して、インターフォンを押すと、おばさんの高い声が聞こえてきた。よく来たわねぇ、と歓迎を受け、生徒である息子さんの部屋に通された。街のお祭りや、防災訓練で何度か話したことのある子だ。

颯月(さつき)君、だよね?」

 打ち合わせの時から名前は書類上で知っていたのだが、見慣れない名前だったから、ちょくちょく耳に入っていた読みの認識に自信が無かった。しかし、合っていたようで、無表情に会釈された。中一の時、俺もこんなだったな、とその愛想の悪さに苦笑した。

 颯月君は、俺が軽く解説をすると、すぐに理解して黙々と課題を消化していく。優秀な子だ。有名な塾の数学問題集。中学のとき、あそこのなんか絶対解けない、と言いつつ淡い憧れのあった問題集だ。今はその解説が出来るのだから、なかなか感慨深い。

 もともと付箋の貼ってあった、今日やる予定の部分まであらかた終わって、残りは結構骨のある問題ばかり、と意気込んだ時、いきなりバタバタという音が聞こえた。何事かと、動きを止めると、おばさんの、そっち行っちゃダメ!という声が聞こえ、物音が近づいてきた。そして、勢い良くドアが開いた。そこには、二十代と思しき、泥酔した女性。薄っすら、記憶にある顔だった。

「さっちゃぁん......。ん?あなた誰?」

 それはこっちのセリフだ。と余程思ったが、一応、一通りの説明をした。

「ああ、河東さん家の子なの。もう高二なんだぁ」

 しみじみと言われて戸惑う。颯月君が、お姉ちゃん、なんで帰ってきたの?と、きょとんとしている。やっぱお姉さんだったか。と思っていると、後ろからおばさんが階段を駆け登って来た。

「こら! 夏月(なつき)!」

 サツキとナツキか、年が離れている割に似たような名前だな。などと考えているうちに、お姉さんはおばさんの謝罪とともに、下へ引きずられて行ったのだった。



「ほんっとうにごめんなさい!」

 一夜明け、また家庭教師として楠原家を訪れると、中に通されてまもなくお姉さんに謝られた。横でおばさんもごめんなさいねぇ、などと言っている。

「あ、いえ別に、大丈夫ですから」

「いや、いきなりあんな醜態を晒してしまって、ほんとうに失礼なことしちゃった」

「一瞬でしたし、気にしないでください」

 何度かの押し問答の後、とりあえず授業だといって、颯月君と部屋に向かった。彼は相変わらず優秀で、ちょっと指向を変えた問題をコピーして持ってきたのだが、少しのヒントであっさり解いてしまった。

 二時間の授業を終え、下に降りると、お姉さんはまだリビングに居た。おばさんは出掛けているらしい。

「二人ともお疲れさま! さっちゃん。良い子できちんとお勉強できた?」

「姉ちゃん!」

 中学生にはあんまりな言い草だが、言った本人は気にせず颯月君に寄って行って、脱兎の如く逃げられていた。階段を上がって行ってしまった弟を見送って、せっかく久しぶりに会ったのにー、などと呟く。泥酔時は会ったのに入らないらしい。と、俺はちょっとおかしくなった。

「そうだ、武春君。さっきコンビニに行く途中で河東さんに会ったんだけど、急に仕事が入ったから遅くなるって伝えてと言われたよ」

「あ、そうでしたか。ありがとうございます」

 そういえば、スマホを持ってくるのを忘れていた。これは、帰ってきたら母さんに小言の一つでも言われそうだな、とうんざりした。帰りに夕飯買って帰ろうと思った矢先、お姉さんは、はっと何かに気づいた顔をした。

「夕飯もしかして一人?」

「ええ、そうですね」

 親が居なければ、そして香穂も忙しければ、夕飯は一人だ。香穂は、まだニ年生だというのにもう勉強にかかりきりになっている。医学部に行くとかなんとか言っていたから、そのためなんだろうが、置いてけぼりを食らっている気分ではある。

 返事を聞いて、お姉さんはにこにこしながら言った。

「それなら、昨日のお詫びに奢るよ。なにがいい?」

 予想外の言葉に、俺は慌てた。

「え、そんな。いいですよ。逆に申し訳ない」

「いいから! このままじゃ、決まり悪くって嫌なのよ」

 再度押し問答が始まったが、結局俺は折れた。どこが良いと聞かれたので、近くのファミレスを希望し、颯月君は行かないということだったので二人で出かけた。


 俺はグラタン、お姉さんはカルボナーラを選んで、お冷を飲んだ。どっちもクリーム系だねぇ、と笑うのをみて、もう少し大人びたものを選ぶべきだったと後悔した。なんにしても、グラタンはガキくさかった。

 白っぽい料理の皿が二つ並び、さあ食おう、というところで、ドアの開いた音が鳴った。そのすぐ後、甲高い声が割って入ってきた。

「あら、楠原さん。お久しぶり」

 現れたのは、お姉さんと同じ位の年らしき女性。夏も盛りだというのに、肌が真っ白だ。こういう人を見るたび、どう過ごせばこんなに白いままで居られるのかと、毎年真っ黒に日焼けする俺としては、かなり不思議だ。

「ひ、久しぶり」

「こちらに帰ってきてたのね」

「まぁ、近いからね」

 そうだったかしら、というように首を傾げ、まるで舞台上にいるかのように、その女性はこちらを振り返った。

「どなた様?」

 たぶん、お姉さんに聞いたのだろう。しかし、こちらを見ているので、俺はとっさに答えかけたが、思いとどまった。

「弟の、家庭教師。ちょっと迷惑かけちゃったから、お礼にご飯を」

「あらそう。ここで?」

 その女性は、高そうなワンピースを着ているし、手に持っている車のキーには四つ連なった輪のエンブレムがついていた。だから、ちょっと気分が悪くなった。昨日の出来事よりずっと。

「すごく若い彼氏さんかな、とか思っちゃった」

「ち、違う違う」

 すごく若いってそんな年齢違うのか? と思ったが、さすがにいくつですかとは聞けないだろう。

「ごめんなさいね、邪魔しちゃって」

 そう言ってセレブは、奥の席にいた"連れ"らしい小学生くらいの男の子三人を呼んで、一緒に帰った。どうやら、このファミレスにはあの子らを呼びに来ただけのようだった。一人の服に、乗馬している人のエンブレムを見つけて、やっぱセレブだ、と思った。

 セレブ達がさっさと出て行ったのを見て、お姉さんはホッとしたようだった。

「あの人ね、大学の時の同級生なの」

 そう言って、お姉さんはこの辺りでは知らぬ者の居ないお嬢様御用達な女子大をあげた。確かに、そこは高い品性と高い学費で有名だ。先ほどの発言で前者が疑わしくなったが。

「家から近かったから選んだんだけど、もう、全然合わなくて。ダメね、私みたいなのが、あんな場違いなとこ通っちゃ」

「大変でしたね、それは」

 言ってから、失礼だったかと思ったが、お姉さんは、そうなのよー、などと言いながらカルボナーラを食べ出したので、大丈夫なようだった。俺も倣って、グラタンに手を付ける。

 食べながら、あまりにも大学が苦手過ぎて、実家近くの就職先に通える場所で、一人暮らしをするのに、いかに母校から離れたところにするかという観点で決めた。という話から、不誠実な彼氏の愚痴まで聞かされた。しかし、それは不思議と楽しいものだった。

「ほんと、嫌よ。振り回されてばーっかり。そんで挙句捨てられちゃうのよ、きっと。もうすでに、わかっちゃうんだからダメね」

 なんとも返事のし辛いことを言われ、仕方なく笑い返すと、お姉さんはバツの悪そうな顔をした。

「ごめん。自分の話ばっかりして」

「いえ、いいんですよ」

 俺はもうとっくにグラタンを食い終わっていたが、お姉さんはカルボナーラをまだ半分残していた。

「あんま食わないんですね」

「うーん、いつもはそうでもないんだけどね」

 だいぶ固まり出しているのをほぐしながら、ほんのちょっとだけ、口に運んだ。

「逆に、武春くんは足りてる? もっと食べる?」

「いえ、大丈夫です。お腹いっぱいです」

 正直、腹八分目にも満たなかったが、奢りだと思うと、さすがに頼めなかった。

「そう? ならいいんだけど」

 そう言って、お姉さんは笑った。可愛らしい顔だなぁ、と俺は思った。


 しばらくの後、ファミレスを出て、お礼を言って別れた。全然知らない人だったはずなのだが、案外楽しかったな、と少し嬉しかった。

 それが通じたのかどうなのかはわからないが、家庭教師のバイトが終わった後も、お姉さんはちょくちょく俺を食事に誘った。一人で飯、ということが多い俺はだいたい断らなかった。何ヶ月か経ったあと、頻度がさらに増えだして、彼氏さんは大丈夫なのかと心配になって聞いたら、別れてしまったと言われた。原因は俺では無いらしいのには安心したが、そう話すお姉さんが、ひどくさみしそうだったので、おろおろしながら拙い言葉で慰めると、優しいね、なんて言われて、なんとも言えない気分になった。


 学校での香穂は、もう話しかけるのも躊躇われるくらい忙しそうだった。学校以外では、ほとんど会わなかった。だんだんやつれていくのが見てられなくて、瓶詰めの疲労に効きそうな栄養ドリンクをあげたら、優しいね、と言われた。そして、俺はまた、なんとも言えない気分になったのだった。

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