第1話「Sランク」
深く蒼く、際限のない水面に小さな波紋が広がる。
その上には少女の艶めかしい足があった。
歳は十三か十四程度であろうか。腰よりも長い暗紅色の髪が滑らかに舞い、その顔立ちは年相応の愛らしさと儚さを兼ね備えていた。
少女は何も身に着けていなかった。大人の身体になりかけている独特な裸身が僅かな光を反射させる。
少女は水面を、まるでピアノを弾くかのように舞い続けていた。
――いつまで舞い続ければいいの?
少女はそれこそ永久の時間をこの水面上で舞い続けた。やめるという概念は存在しなかった。
不思議と肉体的疲労は感じなかった。それどころか人として生きる機能を失っていた。何も食べる必要もないし、寝る必要もなかった。
あるのはただ舞うという義務のみ。まるで誰かに操られているようにひたすら舞い続ける。
そして、少女は知っていた。
この踊りはマリスの根源を為すものであることを……。
しかし、知っていても止められない。
少女の肉体がたとえ休む必要がなくても、確実に精神は蝕んでいる。
かつて少女には溢れんばかりの才があった。秘めたる魔力は当時、誰一人として追随を許さなかった。
それどころか魔力は尽きたことすらなかった。膨大な魔力容量とそれを自然回復する力があまりに異常だったのだ。
しかし、それ故の悲劇か。
少女は魔力枯渇によって死ぬこともなく、永遠と舞い続けることになるのだ。おそらく精神崩壊を起こしても肉体と魔力に問題無ければ舞い続けることになるだろう。
少なくても、少女にはこの永遠の呪縛から解放される術はない――
―――
迂闊だった。
人間が住む大陸とマリスが住む魔大陸は海で隔てられている。
そのため、マリスは攻め込む手段として、転移の魔法、もしくは魔方陣を用いる。
今回は魔方陣の仕業であるが、まさか魔力の反応がここまで薄いものは初めてだった。
おかげで魔方陣だと気付かずに踏んでしまった。
「…………ここはどこだ?」
見渡すと、そこは洞窟の中だった。薄暗いがどこからともなく光が存在したため、周りの様子を把握することができた。
マリスが使用する転移の魔方陣は基本的に一方通行であるため、こちらから魔大陸に移動することはできない。
しかし、その際魔方陣は魔大陸側にしかないはずなのに、なぜかこちら側にもあった。
魔大陸に戻れるのかと思って、魔方陣に足を踏み入れてみたが反応はなかった。
おそらく魔力が切れてしまったのだろう。
「……とりあえず外の様子を見てみるか」
洞窟内を探索したところ、上に続く階段があることを発見した。
「人工物……?」
まさか階段が存在するとは思っていなかった。
人かマリスかは分からないが、何者かにとってこの魔方陣はおそらく特別なものだったのだろう。
階段以外に外に出られそうな場所はなかったので、そのまま階段を上ることにした。
その階段は想像以上に長く続いた。地下何階ぐらいの高さなのだろうか。
そして、階段の終着点に着いた。出口には蓋がされてある。
蓋はかなり重かった。大人がおもいっきり力を入れないと動かないぐらいには重い。
少年は蓋を横にずらし、身を乗り出した。
そこは青く澄み渡る空が広がっていた。
「戻ってきてしまったのか……」
少年は三年ぶりに人間が住まう大陸に戻ってきた。
見渡すと、そこは森の中だった。鳥達がチュンチュンと鳴いている。
しかし、同時にとある違和感を感じていた。
マリスの気配を近くに感じたのだ。
「……近いな」
少年はマリスの気配を感じる方向へ駈け出した。
森を抜けるとすぐにマリスの大群を発見した。
全体で二百ぐらいのマリスがそこにいた。狼のマリスは百、馬が五十、馬に乗っている人型が五十といったところか。
どこかに向かって走っているようだ。
――生かすわけにはいかないな。
少年は首に掛かった純白の十字架のペンダントに指を添える。
刹那、ペンダントは輝くと同時に大きく変形する。
そこには大きな純白の槍が現れた。少年の背丈よりも十分に長い。
槍を右手に持ち、マリスへと走りこむ。
一瞬の内にマリスの大群の前に現れる。
あまりに瞬間の出来事に前方にいた狼の形をしたマリスがたじろぐ。
少年はその隙を見逃さなかった。
先頭にいたマリスの頭に大きな刃を突き刺した。
引き抜くと同時に黒い血が飛び散る。
我に返った狼のマリスが少年に襲い掛かった。
「……そんなに集団で襲ってくれると逆に楽だな」
一閃。
五体のマリスは一瞬で胴体を真っ二つになった――
――数分後。
二百体いたマリスは一体残らず息絶えていた。
あまりにあっけなく、少年は傷一つすら負わなかった。
槍をペンダントに戻し、マリスが向かっていこうとしていた方角を見た。
この先に町でもあるのだろうか。
今いる土地がどこであるのか分からない状態であったので、町があるのなら調べてみた方がよさそうだ。
そう思い、少年は歩き始めようとした時、その方角から何かの大群がやってくるのを見つけた。
――あれは……騎兵?
目視できる範囲では把握できないほど数が多い。
発見されると面倒なことになりそうだったので、森の方から隠れて様子を見ることにした。
兵達はマリスの死骸を見て立ち止まった。
均一化された鎧と武器。一目見てこの国の軍だと分かる。
おそらく発生したさっきのマリスの大群を殲滅しに来たのだろう。
しかし、少年が倒してしまった故にその目的を失ってしまったようだ。
軍はしばらくして、マリスが来た方向へ走っていった。
少年はその行く先を見た後、逆方向へと足を進めた……。
―――
幾らか経った後、町が見えてきた。
平らな土地に建てられた町で、周囲にはマリスの対処のせいか石壁が連なっている。
入口には兵が二人門番をしていた。
少年は何事もなく兵の間を通ろうとしたが。
「止まりなさい。パーソナルカードの提示をしなさい」
「……は?」
パーソナルカード?
初めて聞いた単語に少年は動揺する。
町に入るのにそんなものは必要なかったはずなのに。
この三年の間にそういう制度ができたのだろうか。
「……? パーソナルカードを持っていないのか?」
少年は瞬時に考える。
そして、いくつか選択肢を見出した。
一つ目、無くした。二つ目、作っていない。三つ目、逃げる。四つ目、倒す。
とりあえず倒すのは論外だ。既に顔も見られたし、目立つ行為は控えるべきだろう。
続いて、逃亡だが、無くしたフリをして一度離れるのは悪くない。その後、この町に侵入すればいい。しかし、正攻法ではなく、何かしら失敗する可能性があるので、最後の手段とすべきか。
最初から作っていないと言うのもいかがなものだろうか。現在では、作っていない人間の方がおかしい可能性が高い。
紛失したのならどうだろうか。マリスに襲われている最中に落としたことにすれば、とりあえず疑われないだろう。その後、上手くパーソナルカードを作って貰えれば、他の町でも活用できる。
「……マリスから逃げている最中に無くしました」
「それは災難だったな。とりあえず再発行するから付いてきなさい」
最終的に無くしたことにした。疑われていないようだからよしとするべきか。
兵に付いていき、ある建物の中に入った。
促されるまま椅子に座り、目の前には三十歳ぐらいの女の人がいた。いかにも事務職らしい雰囲気だった。
紙とペンを用意しながら、女の事務の人は口を開いた。
「お名前は?」
「……ユリエル。ユリエル・エルバドール」
「出身はどちら?」
「……サード国のフォーサイト村です」
「サード国!? それは随分南の方から……」
大分北の方へと移動してしまったらしい。
「すいません。現在地が分からないのですが」
「え? ここはセーカルド国のシッキス町よ」
「セーカルド国…………」
サード国は大陸の南端に位置しており、大陸内で最も暑い地域でもある。
それに対して、セーカルド国は大陸の中央から少し北にずれた位置になる。冬になると雪も降るため、サード国に比べるとその気温差は激しいといえる。
「とりあえず質問はこれだけ。あとはこのプレートに手をかざしてね。サーチの魔法が掛かってるから、あなたの肉体の情報を自動で読み取ってくれるわ」
サーチの魔法で少し躊躇したが、別に後ろめたいことはないはずなので素直にユリエルは手をかざした。
一瞬、僅かな電流が流れたような気がした。
「…………え?」
プレートに浮き出た文字を見て事務の人は硬直する。どうやら現れた文字や数字に認識が追いついていないらしい。
「どうしたんですか?」
「……い、いえっ、なんでもないわ!」
事務の人は動揺しながら考え込んでいるようだ。
「…………ちょっとここで待っててね」
そう言いながらそそくさと奥の方へと引っ込んでしまった。
ユリエルは顔には出していないが内心かなりビクビクしていた。柄にもなく手のひらに変な汗をかいた。
しばらくして、さっきの事務の人の上司だろうか。四十歳ぐらいのお偉いさんらしい男がやってきた。
その男は対面の椅子に座り、口を開いた。
「君がユリエル君? 初めまして、私の名前はマヌエル。セーカルド軍の第四番隊の隊長をしている者だ」
まさかの軍人の登場である。
「はあ……それで俺に何か用ですか?」
「たまたま用があってこの町に滞在してたんだがね。何か掘り出し物を発見したらしいから直々にここに来たって訳さ。君、パーソナルカード発行のためにそこのプレートに手をかざしただろ? あれ、肉体の情報を読み取るついでに内在する能力をランク付けするんだよね。GからSランクまであるんだけど、君の戦闘ランクどれだったと思う?」
わざわざここに来たってことは。
「……Sですか」
「そう、Sランク。その歳でSランクは正直異常だ。最初にそう聞いた時は疑ったが、ここに来て確信に変わったよ。私も武を究めていてね。立ち振る舞いにあまりに隙が無さすぎる」
「はあ」
「そこで君にお願いがあるんだ。まあ、有り体に言えば勧誘だがね――」