桐津羽衣児11
「慰謝料出せってんだよ、クソガキ! 日本語わかんねぇのかてめぇ、あぁ?」
カツアゲか。てことはうちの配下じゃないな。一度でも三森の逆鱗に触れればどうなるか、『神国』の奴ならみんな知ってる。もしうちの奴だとしたら相当な命知らずだ。
被害者は果敢にも何か口答えしたようだが、殴られて簡単に吹っ飛んだ。鍛えてないと踏ん張れねぇよな、早く逃げるか財布渡すかしろよ、って、おい!
あいつまさか――
「とりあえず金出せばいいのにな、怪我するよりはましだろ」
「警察呼ぶ? 不良ってほんとクズばっかり――」
声をひそめて会話する友人二人の言葉なんかほとんど耳に入らず、俺は咄嗟に飛び出していった。
「えっ、桐津!?」
「待て、やめろ!」
待てない。待たない。待てるか、こんなん。警察なんかあてにならん、いつ来るかもわからない、その間にあいつが酷い目にあったらどうすんだよすでに一発殴られて痛い思いしてんだろうに、あいつこういうの全然慣れてねぇんだよ!
「静弥!」
叫んで不良との間に割って入った。不良は突然現れた俺に吃驚したようだったが、進学校の制服を着た眼鏡くんだと見てとるや、またにやにやと笑い出した。
「なんだよおめぇ、ヒーロー気取りか? 俺たちはただへーわ的に慰謝料要求してただけだぜ、なぁ?」
仲間に相槌を求める。その隙に俺はそいつの股間をけり上げた。間髪いれず顔に拳を叩き込み、地に捩じ伏せて残りの二人を見据える。
「弟に手を出すな!」
「お、とう、っはぁ!? んだよお前、HAD舐めんじゃねぇぞ!」
一人が殴りかかってくるが腰が引けてる。あんなにイキがってたくせに喧嘩慣れしてねぇんだな、こいつら。鳩尾に一発入れて耳元でどすの利いた低い声を出す。
「だからなんだよ、雑魚が。消えろ」
「ひ……」
明らかにビクついたそいつは、震えながら俺を見ると、転げるようにして逃げていった。捩じ伏せてたやつともう一人も、放してやると凄い勢いで頭を下げてから走り去っていく。三人もいたのに俺程度に敵わないのかよ。ぶっちゃけ負けるの覚悟してたのに……マジでHADなのか?
にしても、俺にもう少し力があればな……もっと痛めつけてやれたんだろうか。あいつら静弥殴りやがって。今ならちょっと三森の気持ちわかるかもしれない。つーか三森にみつかってたらこんなもんじゃ済まなかったんだから、あの不良どもにはむしろ感謝してほしいぐらいだ。
「……兄さん」
振り返ると、静弥が殴り飛ばされて尻もちをついたときの体制のまま俺を見上げていた。瞳が戸惑うように揺れている。
「……あの、」
右手を差し出し、引っ張り上げる。抱きしめて背中を軽く叩いたら、ぐす、と鼻を啜る音が聞こえた。怖かったんだろうな。ごめんな、すぐ気付いてやれなくて。
少し離れたところでぽかーんと口を開けて見ている友人たちのことは構わず、俺は静弥を連れて家に帰った。
あー、後であいつらごまかすのめんどいだろうな……。俺、なんでこんなことしてんだろ。なんでとか思ってるわりに別に後悔はしてねぇしなぁ。まぁだって、静弥は弟だ。俺は両親は嫌いだが静弥のことは嫌いなわけじゃない。静弥には何にも恨み事なんてないんだ。こいつは俺よりもっとずっと『守られるべき』対象だったんだから。
最近はうっとおしいって思うことも多かったけど、それは俺が捻くれてるからで、静弥が悪いんじゃない。俺の弟はあんなゴミどもに殴らせといていいような軽い存在じゃねぇんだよ、クソが!
道中ずっと無言で俯いていた静弥は、家の中に入り、俺が切れた頬の皮膚を手当てしてやると、ようやく口を開いた。
「――ありがとう」
「いーよ、あいつら弱かったし。災難だったな。お前が抵抗するなんて珍しいんじゃねぇの?」
わざと明るい口調で言うが、静弥の表情は晴れなかった。
「……病院から連絡があったんだ。それで動転してて――」
病院? ていうと、母親か。
「お母さん、もう駄目だって」
「駄目、って……え、マジで」
マジでヤバいのか。だってまだギリ三十代だぜ。それで死ぬなんてある……のか? ちょっとしたことですぐ寝込んでたわりには、決定的に重い病気は罹ったことがなかったのに。
「助かんないんだって言われた。でもお父さんは――」
その先は言わなくてもわかる。見舞いに行く気すらないんだろう。だって父親は母親を愛してない。ほんの少しの好意すらない。
結婚して子供まで作ったというのに。でも愛はなくともそういう行為はできるってこと、俺は身をもって知ってる。
「今さらじゃん。お前だってもう親父には期待してなかっただろ?」
だからそんな辛そうな顔をするな。いつまでも苦しむな。お前にはどうにもできないんだから。お前のせいじゃないのだから。
「あの人だって親父には来てほしくないんじゃねぇの」
「違う……兄さんもわかってるだろ。お母さんはお父さんが好きだったんだよ。俺たちじゃ慰められないほど」
静弥の言葉に、苦い気持ちが蘇る。
物語のお姫様みたいに美しくて儚げだった母親は、いつも遠くを見つめていた。見えないものを見ようとするかのように切なげな表情で、細く折れそうな指を堅く組んで。
俺はそれが、凄く嫌だった。俺なんかはまったくあの人の視界に入っていないと思い知らされるようで。
「兄さん、俺はさ……お母さんに腹を立てたこともあったよ。なんで俺にこんな思いさせるんだろう、どうして守ってくれないんだろうって……でも病室で青い顔して横たわってるの見たら、やっぱり泣けてきて――死んだらどうしよう、生きててほしいってそればっかり。優しくされたこともあったんだよ。たった一人の母親なんだから。どうしたって好きなんだ、お母さんを守りたいんだ……」
静弥の目からぼろっと涙が零れた。一度出ると止まらなくなったようで、制服の袖で拭おうとするのを止めさせて、ハンカチを差し出す。
あの人が見てるのは最後まで自分で、どんなに母親の幸せを願おうとする息子がいても顧みることはなく、ひたすら小さい世界に閉じこもって嘆き暮らしているばかりだ。それでもお前はそんなことを言うのか。お母さんと――呼べるのか。
しゃくりあげながら泣きやもうと努力している静弥を見下ろしていると、不思議な感覚が湧き上がってきた。これは俺じゃない。俺だったけど、俺じゃない。俺はもう完成してしまった。だけどこいつは――こいつの可能性は。
じわじわと、胸の奥から暖かい感情が広がっていく。ぎゅうう、と胸が引き絞られ、頭が痺れる。でもそれは、母親が泣いているのを見た時のような激しい苦しさじゃない、もっと静かで、もっと愛しい。大切にいつまでもしまっておきたくなるような。
夕暮れの朱が窓ごしに部屋を赤く染める。郷愁的なぼんやりとした明るさの中、
俺は自分の意識が着実に塗り変えられていくのを感じていた。静弥はやっと泣きやみ、詫びるように俯いている。
こいつだってきっとかつての俺と同じぐらい虚しさを覚え、絶望して、求めても得られないものに涙しただろう。
でもまだ諦めていない。楽な方に逃げたりはしない。
静弥は馬鹿だけど、きっとそれは俺よりずっと優しくて、我慢強くて、真面目だからなのだ。俺が居られなかった場所に踏みとどまっている。まっとうであろうと、努力している。
――眩しいなぁ、と思った。眩しくて可哀想で切ない。こいつがいつか報われればいいのに。そのまっすぐな眼で選んだたった一人を、手に入れることができたなら。
幸せで暖かい道を歩めたなら。
誰かに対してこんなことを思ったのは、初めてだった。
俺はふっと笑って、静弥の頭をそっと撫でた。静弥は曇りのない眼差しで俺を見上げる。見なれているはずなのに、その姿はとても美しく見えた。
世界の色が変わる。ずっと心の隅で燻っていた倦怠感や苛立ちが少しずつ消えていく。見えない枷が外れたかのような解放感。三森を守ると決めた時、佐上もこんな気持ちだったんだろうか。今でもこんな気持ちでいるんだろうか。だとしたらあいつは、なんて幸せなんだろう。
静弥がいて良かった。愛がなくても、母親が産んでくれてよかった。こいつは俺の弟だ。俺が守らなくちゃいけない。その存在が俺を救う。唯一の、家族なのだから。
「お前は俺みたいになるなよ」
「……え?」
「俺はもう汚れちゃったからさ。『お前』には戻れない……だから」
お前に託すよ。全部。俺が持っていた夢も希望も優しさもすべて。
「俺は誰にも守られなかった。だからお前を守ってやる」
久しぶりに、清々しい気持ちで心からの笑顔を浮かべて見せる。
静弥は驚いたように俺をみつめ、しばらくしてから、「……うん」と嬉しそうに微笑み、頷いた。
桐津編終了。手のかかる子でした…。




