橋間彰宏1
ぎゅうぎゅうと四方八方から体を圧迫される。いきなりぎりっと足の甲を踏まれて、危うく叫びそうになった。
この鋭い感じ、ハイヒールか? でも誰がやったかなんてわからない。下を見ても人の足が見えるほどの隙間はないんだから。じんじん痛む足をちょっと浮かせる。
汗と香水、整髪料、その他もろもろの匂いが混じった空間の中で、俺はそっと溜息をついて鞄を持ちなおした。毎度のことだけど、ラッシュアワー時の電車は半端じゃなくキツい。学校に行く前に疲れきってしまう。
男の俺でも疲れるんだから女の子ならもっとだろうな、と同情しながら隣に立つ女の子を見た。ラフでパンクな服装からしてヒール靴よりスニーカーのが合いそうなので、俺の足を踏んだ犯人ではないだろう。
肩をちょっと過ぎたぐらいの黒髪に黒い縁取りメイク、美人なのもあいまわってなんか尖った雰囲気だけど、さすがにこのすし詰め電車には敵わないらしく嫌そうに眉を寄せている。
『次はー、○○ー、○○ー』
アナウンスの直後、電車は止まり扉が開いてどっと人が外に溢れ出た。間髪入れず外の人が中に入ってくる。
その怒涛の移動の際、女の子は俺から少し離れた。ていうか、離れようとした? でも、どうやら降りるわけでもないみたいだ。なんで動く必要があるんだろう。明らかに人の波に逆らった動きだったぞ、今の。
不思議に思ってなんとなく目で追っていたら、女の子は体をびくっとさせて、苦悶の表情を浮かべながら歯を噛みしめだした。
え、なに? お腹でも痛いのか? なんか変――あ、あぁ、そういうことか!
俺は謝りながら人の壁を無理やりかき分けて、女の子に近づいた。
その後ろでやにさがっていた中年男の手を掴み、捻りあげる。
「い、いだだだだっ!? なんだね、君!」
「なんだねじゃねーよ、弁えろおっさん。女の子にこーいうことしていいと思ってんのか」
「は!? な、なにを言ってるのかわからないね、新手の美人局かい、このっ」
必死に手を振りほどこうとするおっさんを無視し、涙眼で呆然と俺を見上げている女の子に聞く。
「どうする、こいつ。突き出す? ほっとく?」
「……殴る」
「え」
言うが早いか、女の子は右の拳でおっさんの頬をがんっと殴りつけた。怒りを凝縮させたような鋭く重いパンチだった。かっこいい。
おじさんは簡単にのされ、ふらっと近くのサラリーマンに寄り掛かる。迷惑そうな顔のその人に、とりあえず俺が謝っておいた。すんません巻き込んで。
はぁはぁと息をつきまだ腹立ちが収まらない様子の女の子に、なんでそれ最初にしなかったのと聞くと、彼女は悔しそうに答えた。
「だってここ狭いから。こいつ抓ろうとしてものらくら逃げるし、満員電車で殴ったりなんかできないでしょ。だから離れたのに、ついてきやがって! でもあんたが来てくれたおかげでちょっとスペースあいて助かった。ずっと殴りたかったの」
あぁうん、確かに今はみんなちょっと遠巻きになってるな。たいした距離じゃないけど、あの誰もが密着状態からよくこれだけの空間作り出せたよなぁ。
「じゃああたし、次の駅だから降りるね。ありがとう、助けてくれて」
にこりともせず女の子は言い、ほかの大勢の乗客と一緒に降りて行った。
俺の周りはまたぎゅうぎゅう詰めになり、見物人の俺に対する興味は失われた。
あ、痴漢のおっさんどうなったんだろ。ざっと見わたした限り姿が見えないから、さっき止まったとき逃げてったのかもしれない。
ああいう奴は絶対また痴漢やるよなぁ。やっぱずっと捕まえておいて駅員に突き出すべきだったか? んー……。
まぁいいや。痛い目みてちょっとは懲りただろ。俺学校行かなきゃだし。お、バイブ鳴ってる。
ズボンのポケットで震える携帯を取り出し見てみると、メールが何通か来ていた。その一番上に物騒な文字が踊っている。
『死体見つけた from津田恵登』
「……なんだそれ」
呟いた言葉は、電車の音に紛れて消えた。
第一章★橋真彰宏
夜の街に入る一歩手前の道の脇に、ひっそりと『Magie und Dunkelheit』という金文字が刻まれたドアがある。中に入れば暗めの照明と高級家具が作りだした雰囲気のいい空間が広がっていて、流行りの言葉で言うなら隠れ家的な店だ。
そこの二階に居候してるのが、津田恵登、年齢不詳の家出少年。
印象はかなり幼い。でもそれはあの無邪気で明るい性格のせいもあるだろうから、見た目だけで言うなら、十五歳ぐらい? 一年前に店のオーナーである験也さんにどっかから拾われてきて、そのまま居ついてしまった。人懐っこいから、みんなに弟みたいに可愛がられてる。
悪戯っぽいところはあるけど、死体とかそういう笑えない冗談を言うような奴じゃない。しかもいつもうざいぐらいに多用する絵文字が一つも入ってなかった。
すぐに詳しく説明しろとメールを返したけど、その返事はまだ来ていない。大丈夫かあいつ。女子並に携帯手放さないもんだから大抵三分以内には返信来るのに。まぁあのメールの内容がマジなら無理もないけど……。
恵登は、俺らと仲良いわりには喧嘩とか事件とか血なまぐさいことがすげー苦手で傷つきやすい。死体なんか見たら相当ショック受けてるはずだ。
今そばに誰かいんのかな。験也さんいればいいけど、いないなら俺行ってやった方がいいかな、と心配になりながらも学校に向かう。と、校門に辿りつく手前で三森綾野に出くわした。
俺と同じ高校の制服を着て、後ろで髪をポニーテールに結んでる、目ぇぱっちりの可愛い女子。さばさばしてて話しやすいから、男女問わず友達が多い。
「三森、おはよ。お前の家あっちじゃなかったっけ?」
「あ、橋間。はよー、そうだけど、昨日は制裁の日だったから」
「またかよ。バレない程度にな」
「別に隠す必要なんかないよ。後ろめたいことしてないもん。それより橋間、恵登からメール来た?」
「え、お前にも?」
もしかして恵登、チームのメンバー全員にメール出したのか?
「うん、てゆーか私は電話も。私のお父さん刑事でしょ? だからどうすればいいか聞きたかったみたい」
「あぁ。なるほど」
一度だけ挨拶したことのある、渋くて背の高いおじさんを思い出し、俺は納得した。三森がファザコンなのも頷けるようなかっこいい人だった。犯罪者の検挙数も断トツらしい。パニクってるわりには恵登の判断力はちゃんと働いていたようだ。
しかし、危ないところには滅多に行かない恵登がそんな物騒なもんと遭遇することになるなんて。まさかチーム絡みじゃねぇとは思うけど……最近ヤバい奴多いし、どうなんかな。原西――はそこまでトんでないか。てゆーか、そう思いたい。血の気が多くて短気で喧嘩っぱやいけど、犯罪者になるほど性根は腐ってないはず。……多分。
「恵登、超怖がってて、験也さんが一生懸命宥めてるって。なんか店の裏に死体が転がってたらしいんだよね。やだねー」
「へぇ。店かぁ」
軽く相槌をうつ。そりゃ怖いよな、殺人鬼が近くにいるかもなんて考えたら。
あとで慰めて……まぁ験也さんがいるなら大丈夫か。
「じゃあ今日はマギダン行けねぇの?」
それはちょっと困るなぁ。俺こないだあそこに生物の教科書置き忘れてきたから取りに行こうと思ってたのに。
「そーかもね。多分今日いっぱいは警察の事情聴取で終わるよ。験也さんは恵登につきっきりだろうから店は開けるかどうか……今は警官が何人か店の周りうろついてるみたいだし、必要ない限り集まらない方がいいかも。とりあえず恵登のメールだけじゃみんな不安になると思って、簡単に説明のメール出しといた」
「そうか。ありがとな」
仕方ない、生物の教科書は隣のクラスの奴に借りよう。いつもながら手際のいい三森に礼を言うと、三森は「どういたしましてー」と屈託ない笑みを浮かべた。そうすると可愛さが際立って、三森のことは友達としてしか見てない俺でもはっとするぐらい魅力的になる。
スタイルいいし小顔だしまつげバサバサだし目大きいし、さっぱりして面倒見良くて正義漢。そんな奴がモテないはずもなく、去年同じクラスだった俺は何回か三森が呼び出されているのを見た。結局誰とも付き合わなかったみたいだけど。
あ、でもよく一緒にいる佐上なんかは……まぁ恋人っていうか姉弟みたいなもんなのかな。佐上、連れ回されてる感じするし。
「なに、人の顔じろじろ見て」
俺を見上げて不思議そうに言う三森に笑って、その頭を撫でた。さらさらのいい感触。
「いや、かわいーなーって思って」
「褒めてもなんもでないよー。あんたがハイジみたいなこと言うの珍しい」
「ほんとなのに」
「ふーん。ありがとう」
軽口を交わしながら昇降口に入る。上履きに履き替え、階段を登り始めたあたりで、三森が話題を変えた。
「あ、そうだ、聞きたいんだけど、橋間って立川さんとつきあってんの」
「え? 立川って涙夜? いや、ふつーに幼馴染。つきあうとかねぇよ。つーかお前知り合いだったっけ?」
立川涙夜は俺の幼馴染だ。穏やかで優しい優等生。お隣さんだったから、昔はよく一緒に遊んだものだった。今はあいつお嬢様校にいるからそんな会わないけど仲良くはしてる。
「うーん、あのさぁ」
三森はこころなしか少し不機嫌そうに言う。
「こないだ偶然知り会って。世間話してたら、マギダン行ってみたいって言われたんだよね。私あんなふわーっとした人がまさかマギダンのこととか知ってると思わなくて吃驚してたら、アキくんがやんちゃしてる時どんな風にしてるか知りたいからって」
「へー」
「へー、じゃないよ。あの人絶対あんたのこと好きだよ。別に橋間が誰と付き合おうがかまわないけど、めんどくさいことにだけはしないでね」
めんどくさいこと? なんだそれ。
「涙夜と恋愛感情はねぇよ」
「あんたはそうでもあっちは違うんだって。くれぐれもチームの中で修羅場起こさないように気をつけて」
「だから、つきあってないって。つーかそれ言うならハイジのほうがそうだろ」
女の子とっかえひっかえじゃん。俺、あいつが同じ子連れてるのみたことねぇよ。
三森は複雑そうな顔になった。
「ハイジは……私もあんまり好きじゃないけど、けじめはつけてるから。あいつはそーいう点凄く頭回るから絶対修羅場にはしないんだよ」
確かに、あいつは恨まれるような遊び方はしない。適当に手ぇだしてさっと身を引く。バランス感覚がいいのかな。顔がいいおかげかそんなことしてても女に人気あるし。
「まぁどうしてもとは言わないけど……できればマギダンには連れてこないでね。橋間は良くも悪くも影響力あるんだから。ほかの奴らまで彼女連れて来たら、マジ収拾つかなくなる」
「おぉ」
苦笑しながらも素直に頷く。
三森は真面目だからなぁ。心配しなくても、別にたいしたことにはならないと思うけど。もし俺絡みの恋愛沙汰がチームに持ち込まれたとしても、だからってほかの奴らが『俺も恋人紹介する!』とはなんねぇだろ。
ハイジは性格的に絶対遊び相手を自分のテリトリーに入れないだろうし、美木は男女問わず誰かと仲良くしてるとこを見たことがない。圷は……なんつーか、恋人作るようにはとても見えん。常にいるんだかいないんだかわかんないような奴だし。存在感が極端に薄いんだよな、あいつ。
第一マギダンにみんなが集まるのなんて週に一回ぐらいで、それもすることといったら近況報告してちょっと酒飲むだけ。俺が女の子招いたところで、「ふーん」て言われるのが関の山だ。
涙夜がなんでマギダンに来たいのかはよくわかんねぇけど、チームでの俺が見たいって言うなら見せてやりゃいいんじゃねーかなぁ。どうせ普段とたいして変わらないんだから。
一応俺はマギダンで集まる時はまとめ役みたいな立場にいる。が、三森との力関係からもわかるように、大した権力は持っちゃいない。ちょっと俺の意見が尊重されることが多いってぐらいのもん。
ま、喧嘩は強いほうだけど、俺レベルの奴なんて珍しくない。
みんながまとめ役とか面倒くさがってやらなかったから俺にお鉢が回ってきただけ。何も知らない下っ端の奴からやたらキラキラした眼で見られるたび、なんかこそばゆい気持ちになる。
俺そんなに立派な奴じゃないぜ、って言いたいけど三森に怒られるから我慢。上に立つならどっしり構えてろってさ。十八でどっしりも何もねぇよな。
あ、そういえば。
「瀬田さんは死体のこと知ってんの?」
「えー? どうなんだろ。恵登、メンバーみんなにメール出したみたいだから瀬田さんのとこにもいってるとは思うけど。瀬田さんなら犯人まで知ってんじゃないの。できれば警察に情報提供してほしいんだけど、無理かなぁ」
ため息をつき、三森は少し俯いた。
根っからの正義馬鹿な三森は、今まで相手が誰であろうとおかまいなしに『悪』を懲らしめてきたが、さすがに瀬田さんほどの規格外な人間相手だと勝手が違うらしい。
人間っていうか――『神様』だからな、あの人。高みにいすぎて抗う気すら起きない。
今のところ瀬田さんのやってることは三森の正義に反してないからいいけど、もし将来三森が瀬田さんを『悪』認定したらどうなるのかと思うと、ちょっと怖い。三森はマジで妥協しねぇし、瀬田さんは下手すると人一人ぐらい簡単に殺せるからなぁ。
三森も多分それはわかってて、普段は瀬田さんの話題をなるべく避けてる節がある。
「橋間、私ここで……」
三のAの札が下がった扉の前で止まった三森に、俺は首を傾げた。
「あれ? 三森Cじゃなかったっけ」
「になりんにCD返さなきゃだから。じゃあね、死体の話、またわかったこととかあったら連絡する」
笑顔に戻りそう言って、三森はA組の教室に入っていった。
「あ、三森おはよー」「ねぇ今橋間くんと話してた? 仲いーの?」「いいなぁ、あの人カッコいいよね」
中から聞こえてくる女子たちの声にちょっと笑う。
実は俺はわりと好かれてるらしい。バレンタインなんか本命義理含めて袋一杯貰うし、たまに靴箱にラブレターが入ってたりする。もちろんそれは嬉しいことで、めっちゃ周りの奴らに羨ましがられたりもするけど、正直よくわかんないんだよな。
女の子は普通に可愛いと思う。でも、だから好きだとかつきあいたいとかいうのは全くない。要するに恋をしたことがない。
中一のとき一回だけ、学年一可愛いって言われてる子に告白されて、別にヤじゃなかった、ていうか普通に嬉しかったからつきあったんだけど、手ぇ繋いだら頬を染めるその子を見てやっぱなんか違うなぁって思って別れた。
だって俺は全然ときめかないんだ。相手を想って切なくなったりドキドキしたりしないんだ。
俺が女の子に感じる可愛さは、子犬とかハムスターに感じるものと同じだ。
そう気づいたので、それからは告白されても断ってる。こんなんでつきあったら相手に失礼だろうから。
しかしかといって男にときめくわけでもなく……なんかなぁ。俺、一生恋愛できないのかもな。
ちょっと残念な気もするが、ま、友達いっぱいいるからいいや。
鞄を持ちなおして、自分の教室に向かった。