桐津羽衣児7
よくできた子供だった。
親の言うことには素直に従い、困らせたことなどない。使用人に威張ったりもせず、話しかけられれば笑顔で答える。小学校の時は常に百点で、苦手な教科があっても努力してできるようにした。
「そんなのなんの役にも立たない……」
自室のベッドに倒れ込み、低い声で呟く。いつもへらへらしている俺が突然固まってしまったのを佐上は心配してくれたが、なんでもないからと押し切って逃げるように帰ってきた。
あのままあの場にいたら、いらぬことを口走ってしまいそうだった。そんなのは俺のプライドが許さない。だって俺はもうふっきったのだ。ふっきって割り切って、全部捨ててきたはずなのに。
普段隅の方に追いやっている昔の記憶が、次々と脳裏に蘇ってくる。
俺は幼くて一生懸命で、そして、愚かだった。それはもうどうしようもないほどに。
父親はほとんど家に寄り付かなかった。愛人が何人かいたらしい。直接俺にそのことを告げる者はいなかったが、当時から聡かった俺はなんとなく察していた。 子供らしい正義感で俺はそれはよくないことだと思い、何より儚げな母親が嘆き悲しんでいるのを見ていられず、七歳のある日ついに父親に直談判しに行った。大きな家に見合う広い玄関のあがりかまちに座り、父親の帰宅を待つ。
前回の帰宅時にこっそり手帳をのぞき見たおかげで、その日は帰ってくると知っていた。十一時を過ぎ、さすがにうとうとし始めたころようやく現れた父親は、しかし俺をほとんど視界に入れずに通り過ぎて行った。
俺は慌てて、ちょこちょことその後ろをついて行く。書斎の前まで来たところで、やっと意を決して、話しかけた。
「お、お父さん、おかえりなさい。お母さんしょっちゅう泣いてるんです。もうちょっと家に帰れませんか」
父親はうるさそうに顔をしかめて俺を見下ろした。大きな存在から露骨に示される不快感に、思わず萎縮する。この家で一番偉いのは父親であり、俺はお情けで養われているにすぎなかった。なんの生産性もない、ただの子供。
「あいつの入れ知恵か、え? 子供を使うなんていかにもあいつらしいな。つまらん女だ。こんな陰気くさい家に長くいれるものか」
くるりと向けられる背に焦り、俺は必死に声をかける。
「お、お母さんのこと好きじゃないんですか! なんで、なんでお父さんは……!」
「好きだとも」
奴は振り返らずに言った。
「この家でおとなしくしてくれる限りはな。あまり私を困らせないでくれよ」
そのまま書斎に入り、厚みのある扉をばたりと閉めてしまう。
どうしたらいいのかわからずに扉を見つめ立ち尽くしていると、後ろからどさっと何かが倒れたような音が聞こえた。
「え……お母さん!? お母さん!」
見れば、青い顔をした母親が床にうつぶせに倒れ伏している。もしかして今のやりとりを聞いていたのか、と俺も青くなった。すぐに駆け寄って手を握る。
「だ、だいじょうぶ……?」
気絶したわけではないようだった。母親は辛そうに息を乱しながら、潤んだ瞳で俺を見上げる。
「ええ……いいの、ありがとうね。私が悪いのよ、あの方の仰る通り、もっと明るくできればいいのに。気が利かないし暗い顔立ちだし、つまらない女で、本当に申し訳ないわ。あの方がもっと素敵な女性をお求めになるのも仕方がないことね」
無理に笑おうとしてほろりと涙の粒を溢れさせる母親を前に、俺は胸が引き絞られる思いだった。
こんな綺麗で健気な人をどうしてここまで苦しませるのか。お父さんがお母さんに優しくしてくれればそれで全部解決するのに。幸せな家族になれるのに!
母親は深層のご令嬢で、体が弱かったものだから滅多に外にも出ず、俺と弟の世話もベビーシッターに任せていた。母乳の出も悪かったらしい。
けれど優しげでたおやかな風情の母親を、俺は憧れにも似た気持ちで慕っていた。
弱くて傷ついてばかりいる、報われない母親が可哀想だった。父親に対する激しい憎しみが燃え上がり、俺の体を熱くする。
「お母さん、お母さん、泣かないで」
俺はひざまづき、精一杯短い腕を伸ばして母親を抱きしめた。
「僕がいるよ。僕が守るから。泣かないで。大丈夫だよ」
大丈夫だよ――
懸命に紡ぐ言葉は、果たして母親に届いていたのか。
今となってはわからない。




