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庭師の魔法と君の秘密

 サキの周りからレオンハルトが消えた。それはもう影も形もないほど完全に消えた。

 最初の頃はどうせまた不意に現れるだろうと思っていたが、そんな気配は全くなかった。


 そうしてレオンハルトと遭遇しない日々を過ごしていたサキは、いつの間にか彼を探している自分に気付いてはため息を吐く日々を送っていた。


「あれだけ追いまわしてたくせに……」


 本日もやって来ないレオンハルトに悪態を吐きながら、サキは庭仕事に従事していた。


 せっかく良い友人関係が築けるかもしれないと思った矢先に、レオンハルトは姿を見せなくなった。サキはその薄情ぶりに腹を立てながらも、ようやく平穏の日々が戻って来たのではないかと思うことにした。


 しかしどんなに平穏な日々が続こうと、心のモヤモヤは全く消えなかった。


「最近、彼見かけないね?」


 不意に掛けられた声に顔を上げれば、そこにはセルネイの姿があった。


 開口一番に触れてほしくない話題を振ってくるセルネイに、サキは渾身の睨みを送っておく。すると、ごめんごめん、とセルネイから苦笑いが返ってきた。


 膝枕の一件以来、セルネイには何度かレオンハルトとの攻防戦を目撃されていたようで、事あるごとにからかわれていた。

 しかし今はそれが少しばかり辛く感じてしまう。


「いい感じだと思ったのにな」

「冗談でもやめてください」


 そんな淡い感情なんて微塵もなかった。それは向こうも同じだろう。

 恋慕の情ではなく友としての情が芽生えそうだったのだが、それは幻に終わった。


 こちらの都合を一切考えていないその行動に、もう振り回されるのは御免だ。


「用がないならもう行きます」


 そう言って踵を返そうとしたサキは、セルネイにそれを止められる。


「待った待った。ちょっとお願いがあるんだ」


 ついて来て、と言うセルネイに、サキは首を傾げつつ彼の後に続いた。






◆◆◆◆◆






 セルネイについてやって来たのは東に位置する建物で、所謂後宮という場所だった。

 二人の王子は確か二十六歳と二十二歳だったはずだが、二人にはまだ決まった相手がいなかった。

 サキは例え王子であろうと、他人の婚活状況に微塵の興味もないので、王宮内で国の未来が危ぶまれていることなど知る由もなかった。


「実は、近々ここに妃候補の姫が入るらしいんだ」


 後宮は代々王位を継ぐ者が使う場所だ。ということは、この後宮に入るのはレオルヴィアの妃候補ということになる。


 サキは、へえ、と声を上げると、どうでもいいというように言葉を返す。


「それはめでたいですね」

「本当にそう思ってる?」

「すみません、興味ないので……」


 正直にそう言えば、セルネイに苦笑された。


「まあそう言う訳で、困ったことに僕はここの庭の管理が出来なくなってね」

「え、後宮って男子禁制なんですか?」

「そうじゃないんだけど……」


 言葉を濁すセルネイにサキは首を傾げる。

 言いたくなさそうなセルネイは、困ったといった顔で息を吐いていた。


「実は侍女長に立ち入り禁止を言い渡されてね……。僕がいると不祥事が起こるとか何とか言われて……。誤解しないでほしいんだけど、僕はそんな不謹慎な人間じゃないからね」


 確かにセルネイは、その整った容姿と親しみやすい雰囲気で、侍女たちの間では人気が高い。サキは顔を赤らめた侍女たちと話しているセルネイを何度か目撃した事があった。


 そんな侍女たちに目をつけられないよう対策を講じ、セルネイの私的な情報を彼女たちに流しているのは内緒だ。


「そんなこと思いませんよ」


 苦笑しながらセルネイを見れば、彼はどこかホッとした様子をしていた。


「浮いた話の一つや二つ、男の人なら当たり前でしょう?」

「……君の男性に対する認識は間違っていると僕は言いたい。男として」


 ただの一般論を言ったつもりだったのだが、セルネイはなぜか肩を落としていた。

 サキとしてはそういった人がいるという認識だけがあって、実際に会ったらそれはそれで不誠実だとか思うだろう。


 そうやって会話をしながら進んでいくと、後宮の庭に出た。


 さすがセルネイの手掛けた庭だけあって、その美しい景観は後宮という場所に相応しい彩りをしていた。


「僕はここに入れなくなるから、ここの管理をサキにお願いしたいんだけど……」


 何か危惧していることでもあるのか、セルネイが少しばかり言い淀む。その様子に、荷が重すぎると思われたのだろうかとサキは少々不安になった。


「私ではダメなのでしょうか……?」

「そうじゃないよ。ただ、君は魔法が使えない。それが心配で……」


 王宮で働いている者は、既にサキが滅多に魔法は使わないという認識をしている。しかし外から入ってくる姫やそのお付きの者たちはそれを知らない。


 セルネイはそのことを心配しているようだった。


「大丈夫です。今までだって何とかなったんですから、誤魔化し切って見せます」


 サキは安心させるように胸を張って見せた。


 確かにサキもそのことに不安を感じないわけではないが、いつまでもセルネイに甘えてばかりではダメなのだ。

 サキは一人でも大丈夫だと言うことを見せて、少しでもセルネイの負担を軽くしたかった。


「任せてください」

「分かった。頼むね」


 何かあればすぐに言うようにとセルネイに厳命されたが、とりあえず任せてもらえることになり、サキはその事に嬉しさを隠せなかった。

 サキは一つの庭を全て任されるのは初めての事だったので、気合を入れて頑張ることをセルネイに誓った。


「そうそう、ちょっとこっちに来て」


 そう言われてセルネイに付いて行くと、着いた場所には一つの花壇があった。

 その花壇には一面真っ白い花が植えてあり、風がそよげばふわりといい香りが鼻腔をくすぐった。


「この花を赤系色の花に植えかえておいてほしいんだ。種類は任せるから」


 本当は冬になるまで咲き続ける花のようで、それまではこのままにしておくつもりだったらしい。しかし後宮が開かれることになり、侍女長から花の植え替えを依頼されたのだという。

 そのとき出入り禁止のことも言い渡されたのだと、セルネイはため息を吐いていた。


「植えかえどうするんですかって言ったら、サキにやらせろって……」


 魔法が使えないサキにとって植えかえ作業は結構な重労働だった。後宮はサキのいる西の端からは一番遠い場所だ。移動だけでも時間がかかる。花壇の大きさから、花の運搬だけでもかなりの量になるだろう事が知れる。

 侍女長はサキも魔法が使えると思っているので、サキに任せるような事を言ったのだ。しかし残念な事にサキは魔法など一切使う事が出来ない為、その全てが自力という事になる。


「私は構いませんよ。こう見えても結構体力はあるので。でもこの花、このままじゃダメなんですか? こんなにいい香りなのに」

「この花は香りがいいから後宮の庭にはぴったりなんだけどね……。この花、色が白いだろう?」


 この花壇に咲いている花は真っ白だ。もしこの花壇の花に色があるなら、この庭は華やかさを増すだろう。サキとしては今のままでも落ち着いていて好みだが、やはり華やかにしておいたほうが後宮としての見栄えもいいだろうと思った。


 侍女長の意見も大方そのようなものだったらしい。


「これってジーラですよね? この花に赤色ってありませんでしたっけ?」


 確か赤色と黄色があったはずではと首を傾げると、セルネイは、おしい、と不正解を示した。


「ジーラに似てるけど、この花はイシラシ。残念なことに白色の品種しかないんだ」


 赤いイシラシの花があればいいのにね、とセルネイは苦笑していた。


 確かにこの花の香りを失くすのは惜しい。ここにあればこそ、その香りを建物内にも風が運んで行けるのだが、白色しかないことが悔やまれる。


 サキは少し考えるような仕草を取ると、ふとあることを思いついた。


「ちょっと考えがあるのですが、試してみてもいいですか?」

「? それは構わないけど……」


 頭に疑問符を浮かべているセルネイに、サキは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。


 この方法なら、植替えをせず、この香りを残したままにできるだろう。


「私の『魔法』を見せてあげますね」

「魔法って、君は魔法が使えないはずじゃあ……」

「ふっふっふ。今はまだ内緒です」


 どういう事か分からないというように首を傾げているセルネイに、サキはただ笑みを向けるだけだった。


 こうして、その日からサキは『魔法』のための準備をはじめた。






◆◆◆◆◆






 驚くべきことにこの世界にはジョウロがなかった。水やりは魔法で賄えるので、道具で水をまくという概念すらこの世界にはないらしい。

 実際にセルネイは魔法で水やりをしていたので、サキはなんて便利なんだと少し羨ましく思っていた。


 しかし魔法で水が出せるにもかかわらず生活用水は井戸水という、何とも良く分からない世界の常識がこの世界にはあった。

 サキがいた世界と同じようなモノがあったり全く違うものがあったりと、いろいろと驚くような事が多々あるが、サキは特にそれを不便だとは感じていなかった。


 ジョウロがない事実を知ったサキは、当然ジョウロを作った。水桶を改造して作ったジョウロは、もちろんハスロ付きだ。

 なければ作ればいい。作れなければ慣れればいい。そんな考えを持っているサキは、この世界に来た当初は戸惑いもしたが、この世界への適応はそれなりに早かった。


 そんな訳で、サキの思いつきはジョウロでないと達成できないため、ジョウロを作っておいて良かったとサキは心底思っていた。

 これは異世界から来たサキだからこその作戦であり、その仕掛けのタネを知らない者からしたら『魔法』に見えなくもないような方法だった。


 そうして、いつものように担当箇所を回り終えてから後宮の中庭へとやって来たサキは、いつものように庭の手入れをし、最後にイシラシの花が咲く花壇に水やりをした。


「こんなに上手くいくなんて、自分でもびっくりだ」


 サキは薄紅色に色づいた花を満足そうに見つめた。

 仕掛けとしては実に簡単なことだ。サキはただ染料で色付けした水を毎日与え続けただけだった。

 どうやって知ったかも憶えていないような曖昧な知識だったが、花は見事に色付いてくれたのでサキはホッとしていた。


 後宮に妃候補がやってくるのは三日後との事だったので、それまでに間に合ってよかったとサキは作戦の成功を喜んだ。


 セルネイが見たらきっと驚くだろう。そう思うだけで、悪戯をするときのようなわくわく感が込み上げてくる。


「一輪持って行こう」


 セルネイに成果を報告しようと思い、サキは道具の中から園芸用のはさみを取り出すと隅の一輪を切った。


 するとその時、近くから人の気配を感じた。


「すみません。ちょっとよろしいですか?」


 背後からかけられた丁寧な呼びかけに、サキは振り向きながら立ち上がる。


 そこには侍従の格好をした二十歳半ばほどの青年が一人立っていた。

 その青年から微笑みを向けられると、サキは慌てて居住まいを正した。


「何か御用でしょうか?」

「ええ、ご挨拶をと思いまして」


 そう言って微笑む青年は穏やかな雰囲気の持ち主で、初対面であるにも関わらずサキに好印象を与えた。


「はじめまして。私はレオルヴィア殿下の侍従をしております、ユイと申します。貴方がこちらの庭を管理されると聞きいておりましたし、丁度お見掛けしましたのでご挨拶に伺いました。今後、顔を合わせる機会もあると思いますので、主人共々よろしくお願い致します」


 その完璧な一礼にサキは感嘆した。

 さすが王子の侍従、礼儀作法は素晴らしい。

 庭師に対してでも礼を欠かないその姿勢にサキは若干緊張する。


「私はサキと申します。こちらこそよろしくお願いします」


 そう頭をさげると、ユイは微笑みを返してくれた。

 なんて礼儀正しい人なのだろうかと思うと、レオンハルトとの身勝手さが余計に際立って見えた。


 レオンハルトは、不法侵入から始まり、ストーキング、寝台占拠にその他諸々。そして最後に会ったときも不法侵入だった。


 つい最近の出来事だったはずなのに、それはもう思い出となっている。サキは語る相手のいない思い出に淋しさを感じ、少しばかり気分が落ち込んでしまう。


「どうかされましたか?」


 黙り込んだサキに、ユイから気遣わしげな声がかけられる。サキはハッと我に返ると、大丈夫です、とユイに笑顔を向けた。


「今日はもう手入れは終わりましたので、私は失礼させて――」

「ユイ、何してる」


 その声にサキは目を見張った。


 その声を知っている。

 つい最近まで聞いていた声なのだから聞き間違えたりしない。


 サキは耳に残っている懐かしいその声に少しばかり鼻の奥がツンと痛んだ。そしてその人影に目を向ければ、予想通り、数日前まで嫌というほど顔を会わせていた人物がそこにいた。


「レオルヴィア殿下、お越しになられていたのですか?」

「え? レオルヴィア……様……?」


 ユイが読んだその名前は、サキが知っているその人の名前とは異なるモノだった。


 何かがおかしかった。


 目の前にいるその人の装いは騎士服ではなく、きっちりとした貴族風の服だった。

 その髪も、その瞳も、その容姿も、その声も、その全てが知っている人のものであるはずなのに、その人は『レオルヴィア』だった。


「庭師か」


 向けられたその深い青色の瞳が酷く冷たくて、サキは何も言えなくなった。

 何の関心もないといったその態度は、まるで存在を否定しているかのように感じられて、サキは居た堪れなくなった。


「用が済んだのならさっさといけ」


 冷たく言い放たれるその言葉にグッと奥歯を噛みしめる。


 心がズキリと痛んでも、サキには何も言えなかった。


「この方は私が引き留めていたのです。そのような言い方は」

「煩い」


 自分の侍従に冷たく言い放っている『レオルヴィア』を黙って見つめていたサキは、この場から今すぐ逃げたい衝動に駆られていたが、思いに反して、体はその場から動かなかった。


 庇ってくれようとしたユイにまで『レオルヴィア』は冷たかった。身の回りの世話をしているユイにまでこのような態度であるなら、『レオルヴィア』は噂通りの冷血無慈悲な冷たい人なのだろう。


「まだいたのか」


 鬱陶しいと言わんばかりの瞳が再びサキに向けられる。その瞳が睨むように眇められたのを認めると、サキは慌てて腰を折った。


「す、すみません。私はこれで失礼させていただきます」


 姿勢を戻したサキは『レオルヴィア』に視線を向けることなく、逃げ出すようにその場から走り去った。


 一刻も早くその場から離れたかった。

 一体何がどうなっているのかサキには分からなかった。

 ただ一つ、強く思うのは『冷血無慈悲のレオルヴィア』にはもう二度と会いたくないということだった。


 あんな姿はもう見たくない。


 同じ顔で、同じ声で。


 そこにいたのは『レオンハルト』だった。






◆◆◆◆◆






「どういう事……っ」


 後宮の庭からある程度遠くまで走って来たサキはその足を止めると、どうにもできない気持ちを抑えるように手を握りしめた。


 先ほど目の前に立っていたのは確かにレオンハルトだった。しかし彼はどういう訳か『レオルヴィア』としてそこにいた。

 『レオルヴィア』はこの国の王子だ。しかもその魔力の多さから次期国王という立場でもある人物だった。そうであるのなら、『レオルヴィア』としてそこにいたレオンハルトはどういう立場の人物なのだろうか。


 サキは訳が分からない状況に頭が混乱気味だった。


「あの人はレオンハルト様だったのに……」


 ただ一つ分かっている事は、『レオルヴィア』と呼ばれたあの人が本当は誰であったのかという事だけだった。


「……セルネイさんはきっと知ってたはず」


 レオンハルトが国境戦の功労者だと教えてくれたのはセルネイだった。だとすると、セルネイはレオンハルトの事を知っているはずなのだ。

 そして、セルネイはサキとレオンハルトの追いかけっこを知っている唯一の人物でもあった。


 彼ならきっと何かを知っている。


 サキはその事に思い至ると、その場を駆け出し、王宮庭師の許へと急いだ。






 確かに確認を怠っていた自分も悪い。しかし上手いこと濁していたほうも悪い。

 サキは猛然ダッシュで庭を走りまわり、ようやく目的の人物を見つけた。


「セルネイさんっ覚悟!」

「うわああ! 危なっ」


 勢いのままに右ストレートを繰り出したが、あっさり避けられてしまった。

 サキは盛大に舌打ちするとセルネイに詰め寄った。


「私が膝枕した人は誰ですか!?」

「え、何? 謎掛け?」


 セルネイは一言もレオンハルトのことを名前では呼ばなかった。いつも『彼』と呼び、濁していたのだ。もっと早くそれに気づくべきだったと、サキは舌打ちしたい心境だった。

 それはつまりセルネイはレオンハルトが誰であるのかを知っていて、敢えて名前を呼んではいなかったのだろうから。


 サキはこれ見よがしセルネイを睨みつけると拳を握りしめた。


 何を思ってセルネイが隠していたのかは知らないが、知ってしまった以上、このままでは気が済まない。


「さっきレオルヴィア殿下にお会いしました」

「……そう」


 サキはセルネイの表情が全く読めなくて、眉根を寄せた。


「レオルヴィア様がレオンハルト様なんですか? それとも、レオンハルト様がレオルヴィア様なんですか? もう訳が分かりません!」


 これこそ謎掛けのような問いだが、セルネイは事も無げに答えた。


「レオルヴィアはレオルヴィア。レオンハルトはレオンハルトだよ」

「二人いる、ということですか?」

「いや、一人しかいないよ」


 どっちだ、とサキはますます訳が分からなくなった。


 レオルヴィアはレオルヴィアで、レオンハルトはレオンハルト。

 だとすると、先ほどの『彼』は一体誰なのか。


 セルネイはきっと真実を知っている。しかし教える気はないようで、サキの疑問には何一つ答えてはくれなかった。


「サキが会った『レオルヴィア』は誰だった?」


 変な質問をされたが、その質問の答えは考えるまでもなかった。というよりは答えは一つしかない。


「レオンハルト様でした」


 サキははっきりと断言した。


 追いかけ回されたのも、寝台を占拠したのも、全部レオンハルトだった。だからこそ 『レオルヴィア』に会ったとき、サキはその滑稽さに胸が苦しくなった。


 拗ねたような仏頂面で言い難そうに言葉を発し、睨むその瞳は揺らいでいた。


 何故そんなことをしているのか、何故そこにいるのに別人のフリをしているのか、サキには分からなかった。

 ただ一つ言えるのは、『レオルヴィア』と呼ばれたあの人は間違いなく『レオンハルト』だったということだ。


 結局、誰かなんていうのは、結論を聞いたところで自分の中にある認識は変わらないのだろうとサキは思った。


「それが答えだよ」


 そう言って力ない笑みを向けてくるセルネイに、サキは何とも言えない気持ちになった。


 数日前は名前も知らない仲だった。その時は相手が誰かなんて悩んだりしなかった。しかし理由はどうあれ、知ってしまった事実はサキの許容範囲を越えていた。


「『彼』が王子殿下なんですね……」


 サキにとって『彼』はレオンハルトだ。しかし彼はどうなのかといえば、それはサキには分からない。しかし先ほどの彼は『レオンハルト』ではなく『レオルヴィア』であろうとしていた事は確かだった。


 セルネイは一人しかいないと言っていた。それはつまり、名前はどうあれ『彼』が王子であるということだった。何故そんなややこしいことになっているのか、それを本人に確かめる術はもうなくなってしまった。


 レオンハルトが目の前から消えたのはきっと何か理由があるからで、そこにはもうサキは立ち入ることはできないのだろう。

 サキは庭師だ。王族の事に口を出せる立場にはいない。


「もう私が首を突っ込んでいい話ではありませんね。相手は王子、私は庭師。住む世界が違いすぎます」


 何の気まぐれかレオンハルトはサキを追い回していたが、あの日を境にそれをパタリとやめてしまった。それは理由があっての事なのか、それとも飽きてしまっただけなのか。後者であるなら、とても悲しい。

 しかし過去の事だと割り切ってしまえばこれから先また平穏に暮らせるのだから、それでいいではないかと思い直す。


 サキは浮かび上がる淋しさを押し込め、この話はもうやめようと告げるために口を開いた。

 しかしサキが言葉を発する前にセルネイから声が聞こえた。


「サキも諦めるの?」


 笑顔の絶えないセルネイ顔から、笑みが消えた。

 その悲しそうな表情にサキの心はチクリと痛む。


 相手は一国の王子だ。おいそれと声はかけられないし、本来なら会うことすら難しい人だったのだ。サキにとっては雲の上の人物で、『彼』は遠いところにいる存在だ。


 今の状況が普通のことで、あの数日間が異常だったのだ。

 諦めるのではなくもとに戻っただけだ。サキはそう自分に言い聞かせるが、セルネイは更に質問を重ねてくる。


「どうして手放すの?」


 重ねられる質問がサキを困惑させる。


 数日間というその短い間の出来事は決して夢や幻ではない。実際にあったことで、今となっては大切な思い出だ。それを手放すつもりはないし、忘れようとも思わない。ただ、もうあの日々を送れないということだけが、サキに淋しさを感じさせた。


「まだ手は届くのに……。サキも……レオも……」


 ふと悲しげに視線を落としたセルネイの様子に、サキは言葉を詰まらせた。


 諦めたいわけじゃない。手放したいわけじゃない。

 しかしそれでも諦め、手放さなければならない事はあるのだ。


 サキには今まで、諦め、手放したものがたくさんあった。

 足掻いてもどうにもならないことはある。それをサキは十分に知っている。


 レオンハルトの事も、自分ではどうにもできない事なのだとサキは思っていた。


「一つだけ事実を教えてあげる」


 セルネイの真剣な眼差しがサキに向けられ、その口から嘘偽りない真実を告げられる。


「彼は『レオルヴィア』だよ。『レオンハルト』じゃない」

「え……?」


 それはサキがした質問の答えだった。


『俺のこと、忘れないで』


 ふと、レオンハルトの言葉が脳裏に浮かぶ。


 忘れないでほしいというのは彼自身のことだと思っていたが、そこにはもっと、何か別の意味もあったのではないかと、サキは今さらながらに思った。


 忘れないでほしいと言ったレオンハルトは、一体どんな気持ちでそれを告げたのだろうか。


 『彼』は『レオルヴィア』であって『レオンハルト』ではない。では何故、自分の事を『レオンハルト』だと名乗ったのか。

 そこにはサキには計り知れない何かがあったに違いなかった。


「で、でも確かに『レオルヴィア』様はレオンハルト様でした。間違いありません!」


 必死にそう言い募ると、セルネイが嬉しいような淋しいようなよく分からない表情になった。


「そうか……。でもね、レオがそうであろうとするから『レオンハルト』はいないんだよ」

「どういう事ですか……」


 訳が分からなかった。

 首を傾げて視線を向けてみても、セルネイは力ない微笑みを浮かべているだけで、何も答えてはくれなかった。


 レオンハルトはいない。ではサキと日々を過ごした『彼』は一体誰であったというのか。サキの中では『彼』はレオンハルトでしかないが、『彼』は一体誰でありたかったのか。


 サキにとって『レオンハルト』は他の誰でもなかった。


 追いかけ回されたのも、寝台を占拠したのも、膝枕をしてあげたのも。その全てがサキとレオンハルトだけの思い出だった。

 思い出となったその記憶の中には、レオンハルトとの日々が今も鮮明に残っている。


 では何故『彼』は消えてしまったのか。いや、消えようとしているのか。


 分からない事だらけの現状が、サキには歯痒くて仕方がなかった。


「猶予は二日」


 唐突に示された期限が何を意味しているのかサキには分からなかった。

 しかしセルネイに視線を送っても、やはり解答はもらえなかった。


「見つけてあげてよ」


 誰を、などとは聞かなくても分かった。


 『レオンハルト』を見つけてあげて。

 セルネイの不思議な色合いを持つその瞳が、そう告げていた。


 しかしサキにはまだ分からないことがたくさんあった。


 『レオンハルト』と『レオルヴィア』。誰が誰で、何が何なのか。考えても明確な答えは出なかった。サキには圧倒的に情報が少なすぎるのだ。


 そんな状況の中で、サキに分かることはただ一つ。


「今度は私の番、というわけですか」


 レオンハルトの『見つけた』という言葉を何度も聞いた。あの時はいつまで続くのかとうんざりしていたが、その日々を懐かしく思う今となっては、もう一度だけ『見つけた』というレオンハルトの声が聞きたかった。


 見つけられるだろうか。

 そう思うとサキは少しばかり不安になる。


 レオンハルトは『レオルヴィア』であろうとしている。それは先ほど会った時に悲しいほど思い知った。


 サキは庭師で『彼』は王子だ。

 それでも探しに行っていいのだろうか。迷惑ではないだろうか。

 そんな事を考えて、サキは思わず苦笑が浮かんだ。


 先にこちらの都合を無視していたのはあっちだ。今さら何を遠慮することがある。

 そんな言葉が頭に浮かぶ。


「私が不敬罪で捕まったら、骨くらいは拾ってくださいよ」

「はは、そうなったら、レオを道連れにして僕も死んであげるよ」


 物騒なことをさらりと言ってのけるセルネイは、もういつものセルネイだった。その事を認めると、サキはセルネイに笑みを向けた。


 どれ程のことが出来るか分からない。

 しかしもう一度だけでいい。

 レオンハルトに会いたい。


 それだけが、今のサキを突き動かす原動力となっていた。


「このまま終わってしまうのかと思ったけど、サキが気づいてくれたからまだ二日ある。まだ間に合うから」


 猶予は二日。それが意味するところをサキはようやく理解した。


「後宮に姫が入るまで、ということですか」


 後宮に姫が入れば、レオンハルトは『レオルヴィア』として妻を娶り、王位を継ぐだろう。そうなれば『レオンハルト』はもう二度と現れることはない。

 セルネイはそう暗に言っているのだとサキは思った。


 後宮に姫が入るのは三日後。

 時間はもう明日と明後日しか残されていない。

 しかしまだ二日残っている。


 時間はまだあると自分に言い聞かせ、サキはできる事をやろうと決意する。


 レオンハルトと名乗り、忘れないでほしいと言ったのは、己が『レオンハルト』でありたいという表れだっただったのではないかとサキは思った。本当は『レオンハルト』でいたいと思っているくせに、何が彼をそこまで頑なにしているのか。

 サキはその理由を必ず見つけ出そうと心に誓う。


 サキにとっての『彼』はレオンハルトでしかいないのだ。だからこそ、レオンハルトにもう会えなくなるのは嫌だった。


「……どうして、全て話してくれないのですか?」


 セルネイが洗いざらい話してくれれば話は早いのだが、彼はサキ自身に答えを見つけさせようとしている。


 まわりくどいやり方だが、何か理由があるのだろうか。


「僕には誓約があるから。サキに話せるのはこれが限界なんだ」


 誓約。それが意味するところは分からないが、セルネイは多くを語れない立場にいるということだ。

 守秘義務でも負わされているのだろうか。庭師なのに。


「……全く、みんな面倒くさいんですよ」


 諦め気味にため息を吐いたサキは脱力したように肩を落とした。


 セルネイにしてもレオンハルトにしても、答えを持っているはずなのにそれを表に出さないとは、何とも厄介な事態に首を突っ込んでしまったものだと、サキはため息を吐いた。


 セルネイが話せないなら、他の人に聞けばいい。

 レオンハルトが『レオルヴィア』でいようとするなら、『レオンハルト』を引きずり出せばいい。


 サキの心は固まった。


「セルネイさんってレオンハルト様と仲がいいんですね」

「どうして?」

「だってそうじゃなかったら、レオンハルト様のこと『レオ』って呼ばないでしょう?」

「あ……」


 今気付いたという顔でしまったと言っているセルネイの様子に、サキは可笑しくなった。


 二人がどんな関係なのかということも、今聞いたところで話してはもらえないだろ。すべては事が済んでからだ。そしたら洗いざらい吐いてもらおう。


 サキはそう決意し、まだ謎だらけの現状を打破する覚悟を決めた。




 そうして逃走劇は追跡劇へと変わることとなった。


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