一時の休戦
あれから数日たったが、サキは未だにレオンハルトとの追いかけっこを続けていた。しかしサキの作戦が功を奏し、レオンハルトがサキに近付いて来る事は殆どなかった。
レオンハルトはよほど『枕』が気に入ったらしく、その執着ぶりは半端なかった。近付けないと分かっているはずなのに、毎日やって来ては木陰からサキを見つめている。その様子を毎日見ているサキは次第に、ちょっと可哀想かな、とか思うようになっていた。
実害はないが精神的にくるモノがあるのだ。
そうして数日が経ったある日。
仕事を終えて小屋に戻って来たサキは、いつものように机で本を読んでいると、誰もいないはずの空間から声を聞いた。
「サキ」
「うぎゃあああああ!」
サキは口から心臓が飛び出るほど驚いた。
心臓をバクバクさせながらすぐに振り返ると、そこには最近では遠目にしか目撃していなかったレオンハルトが立っていた。
「ふ、不法侵入で訴えますよ!」
この世界に裁判制度があるのかは知らないが、どの世界でも不法侵入は犯罪だ。
夜に会うことはないと安心していたサキは、強行手段に出たレオンハルトを恨みがましく睨みつけた。
最初に会ったときを除いてレオンハルトが夜間に小屋を訪れたことはなかった。それ故に油断していたのだ。夜には現れることはないと。
「……眠い」
「またか!?」
お決まりの如くレオンハルトは眠そうだった。
ここまで来るともう慣れたもので、サキは椅子から立ち上がるとレオンハルトの背を押し、出ていけと暗に示した。
「寝床の提供は断固拒否します。休みたいなら自分の部屋で休んでください!」
足元が覚束なくなっているレオンハルトに若干の罪悪感を抱きつつも、サキは心を鬼にした。
このまま休息を許せば、また次も来るに決まっている。
唯一の憩いの時間を奪われてなるものか。
「じゃあ俺の部屋に」
「殴りますよ」
サキはドスの利いた声で即答した。
色っぽい感情など微塵も抱かなかった。レオンハルトはただ安眠できる『枕』が欲しいだけなのだ。
「帰ってください!」
「話が」
「え、あ!」
不意に振り向かれバランスを失ったサキは前のめりに倒れそうになったが、レオンハルトに腕を掴まれ転倒は免れた。
サキはホッと息をつき、半ば条件反射で礼を言った。
「あ、ありがとうございます」
「……ごめんね」
いきなり謝られたサキは首を傾げながらレオンハルトを見上げた。
「不法侵入の件ですか?」
「違う」
いや、不法侵入も謝罪してよ、と思ったことは心の内に留めておく。それは見下ろされる青色の瞳がいつになく真剣で、それでいて眠そうだったからだ。
眠い目を擦ってでも何かを言いに来たのだとサキは察した。
「少し前の」
その言葉にサキは首を傾げる。
少し前とはいつのことだろうか。
謝罪してほしい事がいっぱいあり過ぎてどれの事だか分からない。
「怒った事」
相変わらず文章で話さないので分かりづらい事この上ないが、サキはその短い言葉から二回目に会った時の逆切れのことだと判断した。
レオンハルトの行動は理解するのに時間がかかって、何とも面倒である。
「怖がらせて、ごめん」
レオンハルトの手が、かつて流れた涙を拭うように頬に触れてくる。そんな彼の顔を見上げれば、向けられた瞳が怒られた子供のようにしゅんとしているように見えて何だか可笑しくなった。
体はサキより遥かに大きいのに、レオンハルトを目の前にすると、子供を相手にしているような気分になる。
何故今さらそんな事を謝罪するのか分からなかったが、サキは別に怒ってはいなかった。それなのに今まで気にしていたのかと思うと、逃げ回っていたことを少しだけ反省した。
何故いきなり怒ったのか気にはなったが、こうして謝罪してもらえたのだからそれで良しとしようと、サキはその表情に笑みを浮かべた。
「そんなこと気にしてませんから、もういいですよ」
少しでも元気になればと勤めて明るく告げれば、レオンハルトの顔に少しばかりの微笑みが見えた。
「ありがとう」
サキの頬からレオンハルトの手が離れていく。
触れられていた頬はまだ熱を残しており、サキは少しばかり名残惜しさを感じた。
「あのね」
「はい、何ですか?」
「もう少し」
話したい。
そんな小さな声が耳に届いた。
サキにとっても久しぶりの会話だからか、もう少しくらいならいいかという思いが浮ぶ。絆されてしまったかなと思いながらも、サキはレオンハルトを追い帰す事は止めた。
「いいですよ。もう部屋にまで入ってるわけですし」
そう言って、椅子がないから寝台に座ってくれと促すと、レオンハルトは素直にそれに従った。
そうしてサキは、寝台の傍に置いてある机の椅子をレオンハルトの方に向けると、その椅子に腰かけた。
「あ、手に傷が出来てますよ」
レオンハルトの手に傷を見つけたサキは、一体どんな道順でここまで来たんだと思うと、ため息が出た。
するとレオンハルトからも声が聞こえてくる。
「サキの手にも傷が増えてる」
「そりゃあ、毎日毎日どっかの誰かさんが追いかけて来ますからね。逃げ道もそれなりに険しくなるんですよ」
最近ではレオンハルトとの接触は著しく減ってはいたが、その遭遇が減った訳ではなかった。
レオンハルトは相変わらず人気がなくなると近寄ってくるので、サキはそんなレオンハルトから日々逃げ回っていた。
逃走の日々を送るようになってからこちら、変な所に隠れたり、植え込みの間を突っ走ったりといろんなところを走り回っているせいか、サキは最近切り傷が増えていた。
それは逃げ回るサキ同様、追いかけているレオンハルトも例外ではない。
レオンハルトも低木の陰からいきなりニョキッと出てきたり、木の上から飛び降りてきたりと、いつも変なところから現れてはサキの度肝を抜いていた。その度に彼もその手に傷を作る事がよくあった。
一体何処から出てくるのか分からないレオンハルトの行動を予測しながら緊張感溢れる庭仕事をしているサキだが、最近ではそれが当たり前となっているため、レオンハルトが現れたら瞬時に逃げる技能を身につけた。
そのおかげで逃げ足だけはビックリするほど早くなった。嬉しくないが。
「ちょっと待ってくださいね」
サキはそう告げると、机の上に置いてある小箱に手を伸ばす。それはいつも持ち歩いている小箱の予備として部屋に置いているモノだった。
「手を貸してください」
「うん」
手を差し出すと、レオンハルトが素直に手を出してくる。サキはその手を取ると、小箱から張り薬を取り出し、傷に張ってあげた。
普段何気なく見ると、細くて長い指のせいか、レオンハルトの手はとても男の人の手には見えないような綺麗な手をしている。しかしこうして直にその手を取ってみると、自分の手よりも大きく、案外骨張っている事が分かる。
どれだけ綺麗で美人だろうとやっぱり男の人なんだなと、サキはしみじみ思った。
「あ、変な所にタコがある。これって剣ダコってやつですか?」
「うん。そう」
「へえ。ちゃんと騎士なんですね」
失礼な事を言いながらレオンハルトの手をまじまじと見つめていると、小さな笑い声が聞こえてくる。
「小さいね」
「何がですか?」
「サキの手」
そんな事を言いながら、レオンハルトがまるで壊れモノを扱うようにそっとサキの手を握る。その事にサキは少しばかり鼓動が速くなった。
別にそういった感情など微塵もないと分かってはいるが、超絶美人に手を取られているというだけで、不覚にもドキドキしてしまう。
「ち、小さいに決まっているじゃないですか。一応、私だって女の子な訳ですし」
「そうだね」
サキの手を愛おしそうに見つめながらレオンハルトが言葉を返してくる。そんな彼を前にサキはどこか落ち着かず、早く手を離してくれないものかと思っていた。
「最近」
「は、はい。最近なんですか?」
「足速くなった?」
唐突に話題が変わった事に対しては、最早つっこむ気力すら起きない。
「……ええ。そりゃあもう」
サキは力なくそう答えを返した。
鬼ごっこをさせたら向かうところ敵無しだ、と胸を張って言えるくらいには、サキの逃げ足は速くなった。
それがレオンハルトのせいであるという事は最早言うまでもないだろう。
「私長距離走とか苦手だったんですけど、今ならフルマラソンを走れそうです」
「ふるまらそん?」
「あ、いえ、その、何でもないです」
サキは慌てて言葉を返し、あはは、と誤魔化すような笑みを浮かべた。
この期に及んで異世界の人間だなどと知られてしまえば、魔力がない事まで知られてしまう可能性がある。それは何としても避けたい事態だった。
誰もが魔力を持ち、誰もが魔法を使える世界では、サキの存在は異質なものでしかないのだから。
「何というか、貴方のおかげで最近足腰が鍛えられたというか、体が日々丈夫になっていくというか……」
「よかったね」
「……何だろう。貴方にそれを言われると何か腑に落ちない」
サキは何とも言えない表情でレオンハルトを見つめた。
好きで体を鍛えているのではないのだがと思うと、目の前の男の頬を思い切り左右に引き伸ばしてやりたくなる。
「あ」
「どうしたんですか?」
不意に声を上げるレオンハルトにサキが首を傾げていると、彼から答えが返ってくる。
「膝枕」
「膝枕? してくれとか言わないですよね?」
「して欲しいけど、そうじゃなくて」
「……本音はとりあえず隠してくれません?」
素直だな、とか思いながらもサキはレオンハルトの発言に脱力する。しかしそんなサキを余所にレオンハルトが言葉を続ける。
「お礼言ってなかった」
「お礼? ああ、そう言えばあの時さっさと行っちゃいましたっけね」
「ごめんね」
「いいですよ、別に」
「膝枕、嬉しかった。ありがとう」
相変わらず文章で話さないレオンハルトだが、表情に乏しいその顔が嬉しそうな笑みを湛えると、本当に嬉しかったのだろう事がちゃんと分かる。
サキはそんなレオンハルトに、してあげて良かった、という気持ちが浮かんでくる。
「いつかまたしてあげますよ。気が向いたら、ですけどね」
その笑みをもう少し見ていたいと思ったサキは思わずそんな事を言ってみるが、予想に反して、レオンハルトはその瞳を少しばかり翳らせてしまった。
そんなレオンハルトの様子に、上から目線の発言だっただろうかとサキは少々慌てた。
「すみません。気に触ったというなら謝ります」
「ううん。嬉しい」
そう言いながらも、レオンハルトの表情は何故か冴えないものだった。
サキはどうしたのだろうかと心配になってしまう。
「レオンハルト様……?」
「あ……」
名前を呼んでみると、少しばかり視線を落していたレオンハルトが視線を上げる。するとさっきまでの暗さが嘘のように、その表情には嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「名前」
「名前? レオンハルト様の?」
「うん。呼んでくれた」
「だってそれが貴方の名前だし」
名前を呼ばれた事がそんなに嬉しかったのだろうかと少々首を傾げたが、本人が喜んでいるならそれでいいかと、サキは思った。
「もう一度呼んで」
「レオンハルト様?」
「うん」
嬉しそうに微笑んでいるレオンハルトの笑顔に、サキは少しばかり頬が熱くなった。
超絶美形の微笑みは、それだけで絆されるには十分な威力を持っている。
恐るべし、レオンハルトの微笑み。
「あのね、サキ――」
そうして、サキはしばらく聞き役となってレオンハルトの話を聞いた。
用事を全て終わらせる勢いで、レオンハルトは言いたい事をあれもこれもと言い募っていた。どうやら接触が著しく出来なくなったために、ここぞとばかりに言いたい事を言っているらしい。その勢いにサキは若干押され気味になったくらいだ。
あの日転んだ怪我はもう治ったのか、とか、この前の逃げっぷりは凄かった、とかを次々に告げてくるレオンハルトの記憶力の良さに、サキは唖然とした。
自分でも忘れているようなことをレオンハルトにつらつら語られたサキは、ここまで来るといっそ天晴れだと思いながら、彼の話を聞いていく。
それは忘れてくれ、というような事まで事細かに覚えているレオンハルトにはさすがに脱力したが、サキはそれを不快には思わなかった。
少年のように語り続けるレオンハルトの様子が、本当にこの数日楽しかったのだと告げているようで、サキはそれを偽りだとは思わなかった。相変わらず単語の言葉が多いが、それでもレオンハルトの気持ちは十分に伝わってきた。
全くこちらの気も知らないでよく言うなと思いながらも、いつの間にかサキもつられて笑っていた。
「変なの」
「何が?」
「だって今日の昼間は貴方から逃げ回ってたのに、今はこうして一緒に話してるから」
そう言ってサキが笑みを向けると、レオンハルトも笑みを返してくれる。その事が嬉しくて、サキの笑みは更に深くなった。
結局のところ自分もこの数日間の逃走劇を楽しんでいたのだと気付くと、サキはその事がおかしくて声を上げて笑った。
その時は迷惑でしかなかったその追いかけっこは、今では楽しい思い出として心に残っている。それを語り合える誰かがいることは、こんなに嬉しくて、大切なものだった。
サキにはこの世界で気を許せるのは今のところセルネイしかいなかった。だからこそ、レオンハルトとはこれから友人になれるといいなと秘かに願った。
そうして、どれ程の時間が過ぎたか分からないほどに語り合った頃、眠そうにしながら懸命に語っているレオンハルトの話を、サキは苦笑しながら中断させた。
「眠いのでしょう? 仕方ないので寝台を提供します。今日全てを話さなくても、また明日がありますから」
向けられている瞳が、もう限界間近と言わんばかりにまどろんでいる。これでは帰しても道端で倒れることは必至だ。
サキはやれやれと息をつきながらレオンハルトの上着を脱がせると、横になるように促した。するとレオンハルトがそれに従って寝台に横になる。
「……忘れないでほしい」
不意に聞こえたその声に、サキはレオンハルトに視線を向ける。すると寝台に横たわったレオンハルトの瞳が悲しげに揺れた気がした。
「俺のこと、忘れないで」
まるで今生の別れのように告げられた言葉に、サキは胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
そんな悲しそうな顔をされたらこちらまで悲しくなってくる。
サキはどうしてそんな事を言うのかと思いながら、痛む胸に手を当てた。
さっきまであんなに楽しそうに話していたというのに、今のレオンハルトは過ぎてしまった時間を悲しんでいるような表情をしていた。
その様子を目の当たりにすると元気づけなくてはという思いが浮び、サキは努めて明るく言葉を返す。
「何言ってるんですか。レオンハルト様は印象が強すぎて、忘れようったって忘れられませんよ」
どうせ明日も追いかけてくるのでしょう、と問いかけてみたが、レオンハルトからの返事はなかった。
何も言わずに目を閉じるレオンハルトの髪をそっと梳きながら、サキは静かに声をかける。
「おやすみなさい、レオンハルト様」
その声に誘われるようにしてレオンハルトは眠りへと落ちていく。
相変わらずのお休み三秒ぶりに苦笑しながら、サキは寝台に腰かけ、レオンハルトの寝顔をしばらく見つめていた。