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犬は嫌いです

 青年と三度目の遭遇を果たしてから五日が経った。

 その日以来、サキは神経を擦り減らす日々を送っている。


「……いない、よね」


 植木の陰からそっと顔を出し、誰もいないことを確認するとサキはようやく息を吐いた。

 植え込みの陰から脱出し、身についた葉を払うと、手早くその場での仕事を片づけ、次の場所へと足早に移動した。


 今日の仕事は午前中だけで、午後は休んでいいとセルネイに言われている。それは最近疲労困憊気味のサキの事を気遣ってのセルネイの申し出だった。


 それに気付いていたサキは、有り難くその厚意に甘えることにしたのだ。


「見つけた」


 疲労困憊の原因からの声が、サキをあり得ざるスピードで動かす。

 声が耳に入った瞬間、確認もせずにサキは脱兎のごとく駆けだした。一心不乱という言葉を体現しているかのような逃げっぷりに、サキ自身もどん引きだ。

 しかし構ってなどいられなかった。出来ればもう関わりたくないし、会いたくもないと思っていた人物の執拗なまでのストーキングぶりに、サキは辟易していた。


 捕まったら逃げる事は難しい。それを三回目の遭遇で思い知ったサキは、是が非でも捕まらないようにと毎日毎日逃げまくっていた。


 前世は犬なのかと思うほど、サキがどんなに分かりづらい場所にいようと目ざとく見つけ、逃げても逃げてもついて来る。どんだけ暇なんだと悪態をつきながら、サキは逃走の日々を送っていた。


「待って」


 腕を掴まれて振り返れば、尻尾を振っている犬がいた。

 残念ながら、サキは猫派だ。


「犬は嫌いです!」

「……何の話?」


 今日もその美貌を惜しげもなく晒している青年にサキは、もう鼻血なんか出すもんか、と意味不明な決意をした。


「ちゃんと仕事してください!」


 サキは腕を振りほどくと、再び猛スピードで逃げ出した。


 そうしてしばらく走っていたサキだったが、青年が追いかけてきていないことを知ると足を止めた。

 しつこく追いかけてくる時もあれば、こうしてふと気配がなくなることもある。一体何がしたいのか分からないが、サキにとっては迷惑でしかなかった。


 青年が消えたことに安堵の息を吐いたサキは、今の内に残りの仕事を片づけてしまおうと思い、足早にその場を後にした。






◆◆◆◆◆






 午後になり、サキは木陰でセルネイに借りた植物図鑑を読んでいた。

 この世界に来てまさか文字まで読めるとは思っていなかったサキは、そのチートぶりに感謝した。

 この世界の文字は確かにサキが知っている文字ではなかったが、見ると頭の中でサキが分かるように自動変換されていくのだ。どうしてそういうことが出来るのか分からなかったが、困るモノではないし、むしろ有り難く思っていた。


 そうして集中して図鑑を読んでいたサキは、近付いてくる人の気配に全く気付いていなかった。


「見つけた」


 もう何回も聞いたその言葉に、サキは最早溜息しか出なかった。


「見つけないでください……」


 本当は小屋で休みたいと思っていたが、あそこにいては必ず見つかってしまうだろうと思ってわざわざ誰も近づかないような場所を選んで休んでいたのだが、見つかってしまった今となってはそれも無意味な事だったかと、サキは己の不運を嘆いた。


 サキが恨めしそうに青年を見上げると、彼はいつものようにのんびりした雰囲気でそこに立っていた。

 そしていつものように眠そうだった。


「また眠いんですか?」


 眠そうな目で見降ろされながら、サキは呆れたようにため息をついた。


「寝床は提供しませんから。自分の部屋で休んでください」


 そう冷たく言うと、サキは再び図鑑に視線を落とした。青年など無視だ。


 しかしそんなサキなどお構いなしに、青年から小さな呟きが聞こえてくる。


「……眠い」

「それしか言葉知らないんですか……」


 思わず反応を返してしまったサキは、どうしてこうなるんだと思いながらため息を吐いた。


 見つけた、待て、眠い。

 青年から発せられる言葉の大半はこの三つだけだった。


 その三つで何が伝わるというのだ。

 『眠い』しか意思表示がないではないか。

 私はアンタの枕じゃないぞ。


 と、心の中で抗議しながらサキは青年に睨むような視線を送った。


 青年はサキと同じように木の幹に背を預けて座り込むと、眠そうに眼を擦っていた。

 その仕草が何とも可愛く見えて、サキは危うく絆されそうになる。


 美人はどんな仕草であっても様になってしまうから得だと思う。


「もういっそ、そこで寝ればいいじゃないですか」


 勝手にしてくれと諦めの境地のサキは、もう青年を追い返そうとはしなかった。

 寝たら移動してしまおう。サキはそう考えていた。


 しかし。


「ち、ちょっとやめてください!」


 サキの考えを見透かしたのか、青年はサキの膝を枕に横になった。その行動に慌てたサキは咄嗟に逃げようとしたが、青年に足を掴まれ身動きが取れなくなった。

 何しやがるんだと心の中で悪態を吐きながら青年を睨むように見下ろすと、見上げてくる青年の眠そうな瞳が堪らなく色っぽく見えて、逆にサキの方がたじろいだ。


 サキは途端に顔が熱くなるのを感じ、思わず図鑑で自分と青年の顔を隔てる。


「レオンハルト」


 青年から、見つけた、待て、眠い、以外の言葉を聞いたサキは、図鑑を退かし青年に視線を落とした。

 すると深い青色の瞳と視線があった。


「俺の名前」

「……レオンハルト様、ですか」

「そう」


 相変わらず単語でしか話さない青年だったが、サキが名前を呼んだ瞬間、とても嬉しそうな顔をした。その顔を見た瞬間、サキはドキッと心臓が跳ねた。


 あの日から今日まで一日も欠かさず顔を合わせていたが、まだ名前すら知らなかった。というのもサキが青年を見つけた瞬間逃げ回っていたのが原因なのだが、今さら自己紹介というのも変な話だなと秘かに思った。


 サキは青年を見降ろしながら苦笑すると、自分の名前を告げた。


「私はサキです」

「サキ、か」


 その言葉を最後に青年はもう限界だと言わんばかりに目蓋を閉じ、すぐに眠りへと落ちていく。その寝顔を苦笑しながら見つめていたサキは、絶対足は痺れるなと覚悟した。


 そうして青年改めレオンハルトが眠りに着くと、サキは再び図鑑に目を通しはじめた。


 サキは王宮で庭師としての仕事に就いているが、庭師の知識など全く持ってはいなかった。家庭菜園くらいなら何とかなるが本格的にやったことはなかったため、初めの内は苦労も多かった。しかしながら、もともと体を動かすことは嫌いではなかったし、庭師の仕事は結構面白かった。


 はじめの頃は簡単な仕事ばかりだったが、次第に花のことや草木のことを教えてもらい、土の作り方や防虫の仕方など、セルネイからいろいろなとこを教わった。この世界に来て植物の種類や生態を一から覚えることになったが、それはそれで楽しかった。


 庭師を初めて半年。仕事にも慣れてきたので、教わるだけでなくこうして自分でも勉強して、少しでもセルネイの役に立つことがサキの当面の目標だった。


「サキ、こんなところに――」


 不意に聞こえてきたその声に図鑑から顔を上げれば、少し離れた場所に包みを手にしたセルネイが立っていた。

 しかしおかしなことに、セルネイはその場から一歩も動かず、一定の距離を保ったまま近づいて来なかった。


「どうしたんですか?」


 首を傾げながらセルネイを見れば、驚きというか、困惑といった顔でこちらを見ていた。


「それは……」


 セルネイが指さす先には、レオンハルトがいた。サキは忘れていたと言わんばかりに、その存在を思い出す。


 図鑑に夢中になるあまり本気で存在を忘れていた。どれくらい時間が経ったか分からないが、そろそろ起こした方がいいだろうか。


 サキはそんな事を思いながらも、とりあえずレオンハルトは放っておく事に決める。


「とりあえずコレは気にしないでください。それより何か御用ですか?」

「コレ……」


 セルネイは一瞬ぽかんと口を開けたが、次の瞬間声を上げて笑い出した。

 何事だ、とサキは呆気にとられたが、膝に乗っている頭が動いたことに気づき、視線を落とした。


「あ、起きました?」

「ああ……」


 不機嫌そうに眉根を寄せながら目蓋を開いたレオンハルトに、サキは一瞬、先日のことを思い出した。


 サキは未だに何故レオンハルトが怒っていたのか全く分からなかった。それ故に、また何か気に障ることでもしただろうかと不安になる。


「あの……」


 サキは言葉を続けようとしたが、レオンハルトが起きあがったことで言葉を呑みこんだ。

 レオンハルトはあの日の寝起き姿とは打って変わって、機敏な動きで立ち上がると、そのままサキに背を向け立ち去って行った。

 サキはその寝起きとは思えない動きに呆気に取られながら、その背を無言で見送った。


 もしかしたらあの日も寝起きで機嫌が悪かっただけだったのだろうかと、サキは少しばかり考えた。


「そろそろ笑うのやめてくれません? ていうか、何に笑ってるんですか?」


 未だに面白そうにくすくす笑っているセルネイに冷たい視線を送れば、ごめんごめんと苦笑を返された。


「サキはあれが誰だか知ってるの?」


 セルネイがレオンハルトの事を言っていることは分かるが、そんなに有名な人なのだろうかとサキは首を傾げた。


「有名な方なんですか?」

「そりゃ、国境戦での一番の功労者は彼だからね」


 サキは驚きに目を見張った。

 まさかそんな凄い人だったとは思わなかった。

 会えばいつもボーっとしていて眠いしか言わないレオンハルトという人物は、サキの中では変人扱いだった。


 しかしながら、レオンハルトは毎日毎日追いかけてくるような変人であっても騎士なのだ。それを思えば戦場で戦っていたのだろう事は理解できる。しかし如何せんその姿が想像できないのは、日々の追いかけっこのせいだろう。


「そんな立派な人には見えない……」

「へえ、そう?」


 面白そうにニヤニヤしているセルネイの様子にサキは居心地が悪くなる。

 何やらよからぬ誤解をされているというのは言われるまでもない。


「言っておきますけど、あの人は私を『枕』としか認識してませんから。さっきだって用が済んだらさっさと行っちゃいましたし」


 礼くらい言っていけ、とサキは今さらながらに怒りがわいた。そしてもう二度と膝枕なんかしてやるものかと心に誓う。


「さっさと行っちゃったのは、僕が来たからじゃないかな」


 セルネイの言葉にサキは首を傾げる。


 レオンハルトは一度もセルネイに視線を向けなかった。確かにセルネイは笑っていたので存在は知れていただろうが、それだけで不機嫌に去って行くだろうかとサキは首を傾げた。


「ん? 待てよ……」


 その時、サキはふとあることに気がついた。


 レオンハルトはいつも人影が見えると何処かへ消え、サキが一人になるとまた現れていた。その事を考えると、レオンハルトに対する回避方法が自ずと見えてくる。


 サキは悪巧みをする悪代官のような笑みを浮かべると、明日からの平穏な日々を思った。


「サキ……顔が悪人になってるよ」


 ハッとしていつものように人の良さそうな笑みに戻すと、今晩じっくり対策を練ろうと、一旦レオンハルトのことは保留にした。


「そう言えば何か用があったのでは?」

「ああ、さっき料理長に焼き菓子を貰ったんだ。あげるよ」


 そう言ってセルネイが手に持っている包みを差し出してくると、サキはパッと目を輝かせながらそれを受け取った。


 包みからは何とも言えない甘い香りが漂ってきて、サキはそれだけで幸せな気分になった。


「ありがとうございます!」


 わざわざ作ってもらったのだろうことは分かっていた。いつも気を遣ってくれるセルネイにサキは感謝の気持ちでいっぱいだった。だからこそ、向けられた厚意は精一杯の笑顔で受け取ることにしている。


「お茶の時間にはちょっと遅かったけど、今からでもどう?」


 その誘いにサキは是非にと承諾したが、少々問題があった。

 座ったまま動かないサキにセルネイからちょっとした疑問が投げかけられる。


「……もしかして、立てなくなってる?」


 サキは笑顔でセルネイに向く。


「ええ、犬畜生のせいで立てません」


 その台詞にセルネイは再び声を上げて笑っていた。


 どれだけの時間膝枕をしていたのかは足の痺れが如実に語っていた。

 恩を仇で返された気分のサキは、その笑顔の裏にどす黒い感情を抱いていた。






◆◆◆◆◆






 次の日からサキは勝者だった。

 サキは場所と時間を駆使し、完全とまでは行かないが、余程のことがない限り一人にならないようした。すると予想通り、レオンハルトは人目があれば寄ってはこなかった。

 しかしサキの周りからレオンハルトの気配が消えたわけではない。木陰から恨めしそうな視線を向けてくるレオンハルトを見つけた時はさすがに噴き出してしまった。


 そんな訳で、今日も木陰から見つめているレオンハルトの視線を感じながら、サキはせっせと庭仕事に励んでいた。


「ふふん。そうやって木陰で悔しがるがいい。私をずっと困らせてたんだから、今度は貴方が困ってくださいね」


 鼻歌交じりに箒で落ち葉を集めながら、サキは悔しそうに木陰から見つめてくるレオンハルトに不敵な笑みを向けた。


 サキが今いる場所は南側のとても日当たりの良い庭の一画だった。

 そこは建物の近くであるため、使用人や下働きの人たちが頻繁に行き交う渡り廊下から丸見えの場所だった。


 誰かの視線が常に向けられているような場所であればレオンハルトは近付いては来ない。

 その考えは正に大当たりだった。


「でも何で人前だと近付いて来ないんだろう?」


 ふと浮かんだ疑問に、サキはしばしその理由を考えてみる。


 レオンハルトは北での国境戦の功労者だとセルネイは言っていた。そうであるなら、人目を忍んで行動する意味などないはずなのだ。

 戦で武功を上げたというのなら大勢の人にその姿を知られているだろうに、何故レオンハルトは今も近くの木陰で恨めしそうな視線を向けているのか、サキにはさっぱり分からなかった。


「モテ過ぎて困ってる、とか?」


 レオンハルトは騎士であり、先の戦でも武功を上げた。おまけに見目も麗しいとなれば女性からの人気は絶大だろう。という事は女性に囲まれる事を危惧しているから人目を忍んでいるという事だろうか。


 そんな事を考えながら、それなら出歩かなければいいのにとサキは思わずにはいられなかった。


「全く、何で私に構うんだろう。本当に意味が分からない。安眠枕なら布団屋さんで買えばいいのに……」


 サキはチラリと木陰にいるであろうレオンハルトに視線を送った。すると彼は淋しそうにサキの方を見つめていた。


 その姿に、サキは物凄い罪悪感に襲われる。


「ま、負けるな、私! コレは戦いだ!」


 別に何を争っている訳でもないのだが、何故か負けたくないという思いがサキの中にはあった。

 その感情は、遊びなのにいつの間にか本気で勝負に挑んでしまっているようなモノと似ていた。


 そうしてサキは落ち葉を集めて袋に入れると、それを持ってその場所を移動する。すると木陰にいるレオンハルトも同じように移動を開始した。


 それを感じながら、サキは思わずため息を吐いた。


「騎士の仕事って一体どうなってるんだろう?」


 そんな事を呟きながら歩みを進めていた時、ふとある事に思い至り、サキは一気に血の気が引いた。


「ま、まさか、私の素性がバレて監視してる、とか……!?」


 亡国の姫だ、とか、敵国のスパイだ、とかいうような壮大な素性を持っている訳ではないが、異世界の人間だというだけでもこの世界の人たちにとっては驚きの素性となるだろう。

 もしも異世界の人間だと知られてしまっているなら、騎士であるレオンハルトが監視という名目で毎日毎日付き纏ってくるのも納得できる気がする。

 安眠枕欲しさに追いかけていると言われるよりは余程正当な理由だ。


 しかしながら異世界の人間である事が知られてしまったら、きっと面倒を見てくれているセルネイにも迷惑をかけてしまう事になる。

 それだけは何としても回避しなければとサキは強く思った。


「ま、まだそうだって決まった訳じゃないし、とりあえず確認しないと」


 そう考えてはみたが、サキにはセルネイしか頼れる者がいない。そのため、探ろうにも手立てがなかった。

 ただ一つ手立てがあるとすれば、それはレオンハルトに直接訊いてみる事だった。


「誘導尋問の技術なんて私にはないし……、それ以前に、彼の言葉が理解できるのかが問題だ……」


 単語で話すレオンハルトとの会話は推理小説並みに難解だ。


「ああもう! 当たって砕けろだ!」


 サキはそう自分に気合を入れると、進行方向をレオンハルトに向けた。


 そうして大股で木陰に隠れているレオンハルトの許まで行くと、彼が途端に嬉しそうな雰囲気を纏いはじめた。


 あまり表情は動かないというのに、その雰囲気だけで感情が読み取れる。

 レオンハルトはなんとも珍しい特性の持ち主である。


「サキが来てくれた!」

「何というか……、嬉しそうで何よりです……」


 嬉々とした声を上げるレオンハルトを目の当たりにしてしまうと、サキは来るんじゃなかったという思いが浮かんでしまう。


「あの、訊きたい事があるんです」

「何?」


 サキはどうやって話を切り出そうか迷いながらも、結局単刀直入に訊いてみる事にする。


「その、何で毎日私の事を追いかけ回すんですか?」

「え、それは……」


 言い難そうに口籠ってしまうレオンハルトに、サキはやはり監視が目的だったのだろうかと不安になった。


「何か目的があったり、するんですか?」


 これくらいがサキの精一杯だった。


 もし本当にレオンハルトが監視の目的で周りをうろついているというのなら、彼がそれを素直に話すとは思えない。しかし監視しているのかと直接訊いて、そのまま牢獄コースは御免だった。


 サキは言葉を返してこないレオンハルトを窺いながら、不安ばかりを募らせていた。


「目的は、ある」


 ようやく返って来たその言葉に、サキはビクリと肩が震えた。

 そして続く言葉をビクビクしながら待っていると、レオンハルトから躊躇うような声が聞こえてくる。


「……知りたい」

「何をですか?」

「サキの事」

「やっぱり監視しされてる!?」


 勢い余って本音が出てしまった事に、しまった、とサキは急いて口を両手で抑えたが、言ってしまった言葉は最早取り消しがきかなかった。


「監視?」


 監視、という言葉を聞いたレオンハルトの表情が一気に険しくなる。それを目の当たりにしたサキは一気に顔を青くした。


 サキは慌てて弁解しようと口を開いてみたが、この場を切り抜けるいい案など咄嗟に浮かばず、何も言葉を発せない口をあわあわと戦慄かせていた。


「誰に?」

「え、何?」

「監視の事」


 いきなりグッと腕を掴んでくるレオンハルトは、どこか焦っているようにも見えた。

 サキはそんな彼を前に、監視している事を誰に聞いた、という事を言ったのだろうと思い、思わず身を硬くした。


「どうして」

「だ、だって、いつも見張って」

「いつも?」


 レオンハルトの顔がますます険しくなっていく。それを認めると、サキは嫌な汗が止まらなかった。


「気付かなかった……っ」

「わ、私だって、その、さっき気付いたばかりで。ずっと、気付いていた訳じゃなくて」

「ごめん」

「え、あれ? 何で謝ってるんですか?」

「何処にいる?」

「な、何が?」

「刺客」

「刺客!?」


 辺りと警戒するように見回しているレオンハルトからいきなり物騒な言葉が聞こえてきたが、今の会話からどうして刺客の話になってしまったのかサキには全く分からなかった。


「ちょ、待って、何処に刺客が!? 冗談なら怒りますよ!?」


 サキは武術の心得など全く以ってこれっぽっちも持ってはいない為、人の気配を察する能力など備わってはいない。そのため何処にいるかも分からない刺客に恐怖し、思わすレオンハルトに身を寄せてしまった。

 サキはレオンハルトの腕にしがみ付きながら、辺りに視線を巡らせる。


「貴方騎士だし、刺客とか来ても勝てますよね? 大丈夫ですよね!? というか、何処に刺客がいるんですか!? 早くここから離れた方がよくないですか!?」


 質問ばかりが口から出るが、それに答えは返って来ない。その事に不安を抱きながらレオンハルトを見上げると、彼は何故か嬉しそうにソワソワしていた。


「サキが俺に」

「ん?」

「しがみ付いてる……っ」

「……」


 嬉し泣きしそうなレオンハルトが感動に打ち震えている。その口からは今にも、刺客さんありがとう、という言葉が出てきそうだった。

 その様子を目の当たりにしたサキは、頭がイカレてしまったのかと本気で心配してしまった。


 先ほどまでの緊張感は何処に行った。帰って来い。


「何で嬉しそうにしてるんですか!? 刺客は!? いるんじゃないの!?」

「いるの?」

「いないの!?」


 どういう事だと呆気に取られるサキは、レオンハルトを見上げたまましばし呆然とした。


「どういう事、ですか……?」

「監視」

「え、あの」

「誰にされてるの?」

「え?」


 聞かれた質問に、サキは思い切り首を傾げた。


 何かがおかしい。いや、何処からおかしかったというべきだろうか。


「貴方がしてるんじゃないんですか?」

「? してないよ?」

「え、待って。じゃあ毎日私の事を追いかけ回しているのはどうしてですか?」

「だから」

「はい」

「サキの事、知りたいから」


 整理しよう。


 サキはレオンハルトが毎日付き纏ってくるのは監視が目的なのではないかと思った。しかしレオンハルトはただサキの事を知りたいだけだった。


 互いの考えている事が全く噛みあっていなかったという事は、先ほどの会話も全く噛み合ってはいなかったという事で。


 『監視している事を誰に聞いた』というような事を聞かれていると思ったその言葉は、『誰に監視されているのか』という事を聞きたかっただけのようだった。

 という事は、次に聞いた『どうして』という言葉は『どうして監視などされているのか』という事を聞いていたのだろう。


 そうやって考えていくと、レオンハルトはサキが刺客に狙われているのだと勘違いしたという事になるのだろう。


 サキはようやくその結論に至ると、壁に頭をぶつけたくなった。


「絶好調に平和じゃないですか!」


 サキはこれっぽっちも危険などなかった事に対して、思わず叫んでしまった。

 刺客がいなかった事には安心したが、手放しでは喜べない何かが心に残る。


「なんか、疲れた……」


 レオンハルトはサキにだけ気付かれるようにいつも近くにいるのだ。それが監視というなら滑稽な話だった。

 対象者にだけ気付かれている監視者など聞いた事がない。普通は逆だ。


 それに気付くと、サキは自分の馬鹿さ加減に泣きたくなった。


「……眠い」


 不意に聞こえてきたその平和な言葉に、サキは猫のようにパッとレオンハルトから距離を取った。すると眠気を抑えるようにして顔を片手で覆っているレオンハルトが、物凄く残念そうな雰囲気を醸し出す。


「来るんじゃなかった!」


 そんな叫び声を上げながら、サキはその場から脱兎のごとく駆け出す。

 しかし少しばかり走ったところで、サキはクルリと踵を返し、レオンハルトの許へ戻った。


「手」

「ん?」

「怪我」


 レオンハルトの単語言葉がうつった訳ではないが、サキは簡素にそう告げると、腰につけている道具入れを漁り張り薬が入っている小箱を取り出した。


「また新しい傷作ってるし……」


 サキはブツブツ文句を言いながらレオンハルトの手を勝手に掴み、少々乱暴に張り薬を傷に張りつけてやった。


 レオンハルトが顔を手で覆った瞬間その手に赤い筋を見つけてしまったサキは、逃げようとした足を止めて戻ってきてしまった。

 大した傷ではないと分かってはいたが、見てしまった以上、無視も出来なかった。


「もう! いつもいつも変な所に隠れてるから傷が出来るんです! もう少し考えて行動したほうがいいと思います!」

「えへへ」

「えへへ、じゃないです! 何で笑ってるんですか! 私は貴方の事を心配して――」


 サキはその後、少しばかりレオンハルトに説教を続けたが、彼はニコニコと笑っているだけで話にならなかった。


 サキはこれからも続くであろう逃走の日々を思うと、最早ため息しか出なかった。


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