終わりからはじまりへ
おいしそうな野菜たちが、そのみずみずしさを競いながら実っている。それを一つずつ丁寧に収穫すると、籠に入れた。
生でも食べられるその野菜をまた一つ採ると、腹の虫が鳴いた。
辺りをキョロキョロ見渡して誰も近くにいないことを確かめると、いただきます、と大きく口を開ける。
「盗み食いすんじゃねぇよ」
あっさり見つかってしまった。
チッとこれ見よがしに舌打ちすると、呆れたようなため息が聞こえた。
「昼だからって呼びに来てやったのに。そうか、お前はいらないのか」
「それを早く行ってください!」
言うが早いか手にした野菜を籠に入れると、急いで畑から出た。
畑の外で一人の女の人が収穫したものの確認作業をしている姿があった。
それを認めると、すぐにその人の許に向かい、収穫籠を差し出しながら声をかけた。
「イレーヌさん、これもお願いします!」
「ありがとう。助かるよ」
収穫した野菜をイレーヌに渡すと再び腹の虫が鳴いた。その豪快な音に彼女から笑い声が聞こえてくる。
「全く。アンタのお腹は正直だね」
「はう……」
すると背後からも笑い声が聞こえた。
「お前はもっと恥じらいってもんを持てよ」
「う、うるさいです! ジークフリードさんに言われたくないです!」
ジークフリードに抗議の視線を向ける。
恥じらいくらいは持っている。
しかし腹の虫の操作は出来ない。
「ほらそこに座んな。はい、コレ」
渡された包みをあけると野菜サンドが入っていた。新鮮な野菜がこれでもかとはさんであるその野菜サンドは食欲をそそるスパイスの香がした。
これはイレーヌ特性ソースで、とてもおいしくてお気に入りだった。
三人で並んで昼食をとりながら、また他愛ない話で盛り上がる。
そんな場所で、サキは雲一つない青空を見上げた。
「いい天気だな」
王宮を出てからひと月が経った。
あれからサキは、王宮の事は知らない。
◆◆◆◆◆
遡ることひと月前。
サキはとんでもないところで目が覚めた。
「ここ、どこ……?」
ふと目が覚めると見知らぬ天井が目に入り、体を起こして周りを見れば、中世ヨーロッパを思わせるような部屋の中にいた。
上品な調度品で纏められているその部屋は、どう見ても小屋の部屋ではない事が分かる。高そうなモノが視界に入ってくるが、サキはそれらをあまり見ないようにしていた。
寝ていたのはそんな部屋の中にある寝台だったが、サキはこんなフッカフカの寝台で寝た事など今までの人生で一度もなかった。
サキは何でこんなところで寝ていたのかと考えていると、不意に自分の手が何かを握っている事に気が付いた。
「ぬお!」
サキは視線を向けたサキにいる人物に絶句した。
同じ寝台の上に、気持ちよさそうに眠っている眠り姫、ではなく眠り王子がいた。
「え、嘘!? ちょっと待って!? どうしてここにレオンハルト様がいるの!? というか何でで同じ寝台の上にいるの!? 何で物凄くいい笑顔で寝てるの!?」
レオンハルトの寝顔は、それはもう幸せそうだった。
どうやらとてもいい夢でも見ているらしい。
サキはとりあえず寝台から降りようと思い、レオンハルトの手から自分の手をそっと引き抜こうとした。しかし寝ているにもかかわらず、レオンハルトの手はしっかりとサキの手を掴んでいて離れなかった。
石膏で固まっているのかと疑いたくなるほどにガッチリと掴んでいるレオンハルトの手を前に、サキは起こさないようにという配慮をやめ、思い切り引き剥がしにかかった。
空いている方の手を使ってレオンハルトの手を剥がそうとしたり、繋いでいる手を思い切り振って振り払おうとしたり。いろいろな方法で手を解こうと試みたが、全くレオンハルトの手は離れなかった。それどころか、レオンハルトが起きる気配も全くなかった。
「どうしよう、これ……」
サキはどうにもできない状況に困り果てていた。
するとその時、部屋の扉が開かれ、知った人物が入って来た。
「サキ! 起きたんだね」
嬉々とした声を上げて近付いて来たのはセルネイだった。
その後ろにはユイの姿もある。
「セルネイさん! 丁度良かった。ちょっと手伝ってください」
サキは天の助けとばかりにそう願い出ると、セルネイは何の事か言わなくても分かったようだった。
「ハルトの手が離れないんでしょう? 残念だけど諦めて」
「何故!?」
手が離れない呪いにでもかかってしまったのだろうか。笑えない。
そんな事を考えていたサキだったが、現実はもっと笑えなかった。
「僕らも離そうとはしたんだけど無理だった。まあ二人とも寝てたし、まあいいかと思ってそのまま寝かせておいたんだ。でも安心したよ。二日も起きないから心配してたんだ」
「二日!?」
セルネイの言葉から推測すると、サキは丸二日間この寝台で眠っていたという事になる。それに加えて隣で眠るレオンハルトの事を考えると、人が寝ているのをいい事に隣で添い寝してやがったのかと思わずにはいられなかった。
「何でこんな事になって……」
どうしてそんな事になったのかと若干頭を抱えたくなったサキだったが、ふと忘れていた記憶が蘇ってくる。
すると、それを察したかのようにセルネイから声をかけられる。
「体は平気?」
気遣うようなその声音に、サキは自分が大怪我を負っていた事を思い出し、思わず腹部に手を当てる。しかしその部分に触れても全く痛みなどはなく、また包帯すら巻かれていない事も認めた。
「傷が、ない……? あの、もしかして」
サキは思わずユイに視線を向けると、彼はどこか申し訳なさそうに視線を落していた。
「ユイさん」
「申し訳ありませんでした」
ユイはそう言って深々と頭を下げてきた。
その事にサキは大いに慌てる。
「え、嘘!? もしかして失敗ですか!? あれ? でも私平気ですよ? あ、もしかして一時的に塞がってるだけとかそういう事なんですか!? 困ったな……、何とかして生き延びないとレオンハルト様に嘘ついた事になっちゃうし……」
どうすればいいだろうかとサキが考え込んでいると、セルネイから大丈夫だと声が聞こえてくる。
「怪我の事ならもう大丈夫だよ。傷はユイがちゃんと塞いだから」
「そうなんですか? いきなり謝られたから失敗したのかと思っちゃいましたよ」
サキはセルネイの言葉に一安心すると、寝台の上ではあったが、きちんと正座し、深々とユイに頭を下げた。
「ユイさん。助けて頂いてありがとうございました」
そう感謝の言葉を告げると、ユイからも礼の言葉が聞こえてくる。
「私の方が貴方に感謝しているのです。本当にありがとうございました」
「え? あれ? 何でお礼を言われているのかさっぱり分からないのですが……?」
何か礼を言われるような事をしただろうかと記憶を手繰り寄せてみたが、怒られる事はしたような気がするが、礼を言われるような事は一切していなかった。
サキは分からないというように首を傾げていたが、ユイはその答えを教えてはくれなかった。
「殿下にとって貴方がどれだけ大切な方であったのかを知らず、私は貴方に酷い事をしてしまいました。もう少し貴方の話を聞いていればと、今さらながらに悔いております」
そう言って再び謝罪の言葉を口にするユイに、サキはそんな事はないと首を振った。
「ユイさんは私の事を『異端の魔力持ち』だと思っていたのでしょう? だから早く王宮から逃がそうとしてくれたんですよね? だったら謝らないでください。私はユイさんに感謝していますから」
「サキさん……」
ユイが『異端の魔力持ち』だという事を知った時、同類の情けで逃がしてくれた事実を知った。本来なら死は免れなかっただろうに、彼はそれをせず、生きる道を与えてくれたのだ。
それに加えて傷まで塞いでくれたのだから、サキはユイに感謝の念しか浮かばなかった。
「ところで、何でこの人は私の手を握ったまま幸せそうに寝てるんですか? というかこの手離したいんですけど……っ」
サキはそう言いながら再度隣で眠っているレオンハルトの手を自分の手から引き剥がしにかかった。しかし案の定、彼の手が離れる事はなかった。
「許してあげてよ。あの日からハルトもまだ目を覚ましてないんだ。君はもう大丈夫そうだけど、ハルトはまだ起きられないみたいだし」
「え? どうして……」
サキは隣で幸せそうに眠っているレオンハルトに視線を向けた。
レオンハルトはサキを死んだと思って後を追おうとしていた。その事実を知っているサキは自分の記憶が途切れた後、何があったのかと不安になった。
握られている手からレオンハルトの温かな体温を感じると、サキは思わずその手を握り返した
「簡単に言うと、今のハルトは重度の貧血状態なんだ」
「貧血?」
「ハルトは君に血をあげたから」
セルネイの言葉にサキはハッとした。
サキは負った傷のせいでかなりの血を失ったはずだった。たとえ傷をユイが塞いでくれたと言っても、彼は傷を塞ぐだけで血までは元に戻せなかっただろう。だから血は誰かからもらわなければならなかったという事は理解できる。しかしサキが流した血の量は一回の献血で取られる血の量より遥かに多かったに違いなかった。
人から血をもらうと言っても、その量には限界があるはずなのだ。多くの血を一人から得ようとすれば、提供してくれる相手の方が生命の危機に陥ってしまう。
レオンハルトが重度の貧血だという事は、ギリギリまで血を分けてくれてたという事に他ならなかった。
サキはレオンハルトが未だに隣で眠っているその訳を驚愕と共に理解した。
「レオンハルト様は大丈夫ですよね? ちゃんと起きますよね?」
縋るような視線をセルネイに向けると、彼は大丈夫だと返してくれる。
「顔色も良くなってきたし、きっともうすぐ起きると思うよ」
「そうですか……、よかった」
折角生き延びたというのに、レオンハルトがいなくなってしまえば意味がなくなってしまう。
ようやくレオンハルトを『見つける』ことができたサキにとって、レオンハルトがいなくなるなど考えたくもなかった。
「幸せそうな寝顔してるしね。いい夢でも見てるんじゃない?」
そんなセルネイの言葉に誘われるようにレオンハルトの寝顔に視線を向けたサキは、本当に幸せそうに眠っている彼の様子に思わず笑みが浮かんだ。
「サキ……」
寝顔を見つめていると、不意にレオンハルトの寝言が聞こえてくる。
「夢の中でもサキと一緒にいるみたいだね」
「あはは……」
ニコニコ笑っているセルネイの言葉に、サキは乾いた笑みが浮かぶ。ふとユイの方に視線を向けると、彼もまたクスクスと笑っていた。
サキは恥ずかしさを感じながら、レオンハルトの寝顔を前に諦めたようなため息をついた。
「サキ……一緒に……」
どんな夢を見ているのかは知らないが、名前を何度も連呼しないでもらいたい。
「……俺の部屋へ」
寝言であっても、その言葉は聞き捨てならなかった。
「部屋に連れ込んで何をしようとしてるんだあ!」
サキはそんな叫び声を上げながら、眠っているレオンハルトに強烈な頭突きをお見舞いした。
そうしてレオンハルトも起き上がれるようになった頃、サキは王宮を出た。
その後、見送られていた姫の後宮入りは無事になされたという。
◆◆◆◆◆
そんな訳で、現在サキはジークフリードの故郷に来ていた。
ジークフリードの故郷では今が収穫時期だということもあり、こうして手伝っているのだ。
「なんか悪いね。大怪我してたっていうのに」
「いえ、もう全然平気ですから。動いてないと体が鈍ってしまいますし」
気遣わしげな視線を向けてくるイレーヌにサキは笑顔を向けた。
死の淵を彷徨うほどの大怪我だったにも関わらず、サキは異様なまでの復活を遂げた。それはいろんな人たちが協力してくれたおかげでもあった。
傷口はユイが閉じてくれたのだと聞いた時、サキは自分の考えは間違っていなかったのだと知る事が出来た。
ある意味あれは賭けだった。
死を目前にした時、レオンハルトのことが頭を過ったが、それと同時にレオンハルトがまた一人になってしまうのではと心配になった。
死ねない。その想いがサキを突き動かした。
しかしこの世界には治癒魔法が存在しない。医療技術がどれ程のものか知らなかったサキはそれに賭けることもできなかった。
自分が知り得る情報の中で一番可能性が高いものでなければ、生存の可能性も消えていく。そう考えた時、『異端の魔力持ち』の能力を思い出した。
ユイが協力してくれるかどうかは分からなかったが、どの道死にそうだったのでレオンハルトに会いに行くことを優先して、後のことはジークフリードに任せた。
ジークフリードは王宮へと引き返してくれた。ユイは傷を塞いでくれた。レオンハルトは血を分けてくれた。そしてセルネイにも助けてもらったようなので、サキは助けてくれた彼らに心から感謝した。
「嬢ちゃんが大人しく寝台に横になってる姿なんか想像できねぇ」
そう言って笑うジークフリードの頭をイレーヌは遠慮なく叩いた。
「アンタねぇ。誰のせいでこの子が怪我したと思ってんの!」
「何すんだ! 嬢ちゃんへの恩返しはもうしたぞ!?」
イレーヌはジークフリードの奥さんだった。
驚くべきことに、ジークフリードは妻帯者だったのだ。
それを正直に話したら、失礼な、とジークフリードは口を尖らせていた。
ジークフリードとイレーヌは幼馴染だったようで、サキから見てもとても仲のいい夫婦に見えた。
イレーヌはジークフリードの前では気丈に振舞っているが、サキと二人きりになった時、ジークフリードを庇ってくれてありがとう、と涙ながらにお礼を言ってくれた。
本当に相思相愛のこの二人はお似合いだなとサキは密かに思っていた。
「これから出荷のことでちょっと話があるから、ジークあと頼むね」
「ああ」
そう言ってイレーヌは行ってしまった。
それを見送りジークフリードと二人きりになると、サキはふと神妙な顔つきになった。
「すみませんでした。結局巻き込んでしまって……」
「ん? 何だよ今さら。気にすんなって。俺としては長い休暇が貰えてツイてたしな」
そう言って豪快に笑い飛ばして許してくれるジークフリードに、サキは感謝の気持ちでいっぱいになった。
「あの時、私自分の事しか考えられなくて、ジークフリードさんの事にまで頭が回らなくて……」
「当り前だろう? あの時嬢ちゃんは大怪我してたんだから。だが、嬢ちゃんが助かってよかったよ。俺を庇って死んだなんて事になったら、俺は殿下に殺されてただろうよ」
今回の一件で、ジークフリードはただ巻き込まれただけの憐れな人物だった。
ジークフリードの里帰りを知っていたユイは丁度いいとばかりに彼にサキを押しつけた。そうとは知らず、サキはそんなジークフリードにレオンハルトの事を話してしまった。
本当なら何も知らないはずだったジークフリードは、サキを引きとったばかりにとんでもない国家機密を知ってしまったのだ。それは彼にとって不運以外の何ものでもなかった事だろう。
怪我を負い、自分の事しか考えられなかったサキは、王宮にジークフリードが戻ったらどうなるのかを考えてはいなかった。
機密事項を知ってしまったもう一人の人物として確定してしまったジークフリードには、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「いやしかし驚いたな。まさか入れ替わっていたとは……」
誰が、とは決して口にはしない。それはサキも同じだった。
「私は知らなかったので、現状の方に違和感がありましたけどね」
レオルヴィアとレオンハルトの一件は、今まで通りレオンハルトが『レオルヴィア』を演じるという形で決着した。
それは誰でもないレオンハルト自身が決めたことだった。
サキはそれを否定することも肯定することもなかった。ただレオンハルトの意志を尊重した。
レオンハルトがどんな思いでそれを選んだのかサキには分からないが、それは決して諦めではないことは分かった。
己の立場と国の未来を考えてその道を選んだのだろう。レオンハルトは『レオンハルト』がいない世界に残ったのだから、彼の勇気は称えたい。
レオンハルトは今までずっとその場所に一人で立っていたのだ。だからこそ、少しでもレオンハルトの支えになってあげたいとサキは強く思っていた。
「そういや、連絡来たぞ」
唐突に話題を変えられたのでサキは首を傾げたが、すぐに何のことかを察し、ジークフリードに詰め寄った。
「ど、どうでした?」
サキは息を呑んで、ジークフリードの答えを待った。
ジークフリードとサキがどうしてここに長期滞在しているのかというと、国家機密を知ってしまったためだった。
イルヴェルトには報告しなければならないとユイに言われ、王宮にいてはまた厄介なことになりかねないと、当初行く予定だったジークフリードの里帰りにサキも同行してきたのだ。
それはサキとジークフリードを守るための対策だった。
王宮で捕まれば逃げ道はない。しかし外でなら追っ手がかけられてもジークフリードの腕なら逃げ切れる。そう考えての処置だったのだろう。
サキがその考えを口にするとジークフリードは、お前を守りながらでも逃げ切れる、と自信満々に言っていた。サキはそんなジークフリードに素直に感謝した。
そんな訳でサキとジークフリードは王宮からの連絡待ちという状態にあった。
「無罪放免……とはいかなかったようだな」
神妙な面持ちで語るジークフリードをサキは嫌な汗をかきながら見つめていた。
無罪放免ではなかったということは、有罪判決が下されたということだ。
有罪になってしまったのなら罪状は軽くはないはずだ。
どうしようと顔を青くしているサキの様子にジークフリードは追い打ちをかける。
「逃げるか」
「やっぱり死罪確定ですか!?」
まずい事になったとあたふたするサキにジークフリードは豪快に笑った。
「俺は嬢ちゃんがいなかったら本当に死罪だったよ」
そう言って苦笑するジークフリードは、サキから視線を外すと空を見上げた。
「そもそも嬢ちゃんがいなかったら、こんな重要機密知ることはなかったんだけどな」
「う……」
横目でニッと笑うジークフリードに、サキは言葉に詰まってしまった。
少々恨みがましい視線を送ってみれば、それを見たジークフリードは声を上げて笑っていた。
「心配すんなって。命にかかわることじゃないから」
ジークフリードの安心させるようなその眼差しに、サキはひとまずホッとする。
しかし無罪放免ではないのだ。
まだ安心はできない。
「じゃ、じゃあどんな罰が……?」
恐る恐る聞いてみると、ジークフリードは面倒くさそうにため息をついていた。
サキはその様子に、一体何がと息を呑んだ。
「殿下の近衛騎士になれ、だとさ」
「え?」
近衛騎士というのは王族の身辺警護をする騎士のことかとサキは考えた。
その特別措置の背景には、レオンハルトやユイが奮戦したのだろうことが窺い知れた。
「よかった」
不可抗力とはいえ巻き込んでしまったことには変わりないので、もし重い罪ならどうしようかと冷や冷やしていた。
しかしそんなサキを余所に、ジークフリードは少々眉根を寄せていた。
「よくねえよ」
サキの思いとは裏腹にジークフリードは不服そうだった。何故だと不思議そうな顔を向けると、ジークフリードは長い溜息を吐いた。
「近衛ってのは貴族出身の奴が中心で構成されてんだよ。俺みたいな成り上がりが入ってもいい顔される訳ねえだろ。それに公式の場での警護もしなきゃならねえし。俺にとっては左遷と同じだ。……まだ副団長と兼任ってことだけが救いか」
凄まじい嫌がりようである。
話を聞く限り気持ちは分かるが、死ななかっただけましだろう。
そう言ったらじろりと睨まれた。
「お前、人事だと思って……。そうだよな、お前はいいよな」
突然ジークフリードは投げやりな発言をしながらため息をついていたが、サキが何のことだと首を傾げれば、途端に彼の顔がニヤついた。
サキはその笑みに何やら嫌なものを感じて冷や汗をかいた。
「嬢ちゃんは後宮入りが決まったそうだ。良かったな」
「………………は?」
何を言っているのかサキは理解しなかった。
それはサキの理解の範疇を越えていたため、思考回路が考えることを拒否したからだ。
サキは澄み渡る青空を眺めながら、今日はなんて気持ちのいい日なのだろうと思った。
そんな現実逃避はジークフリードの声で現実に引き戻される。
「どこに旅立とうとしてるんだ。戻って来い」
「……逃げましょう」
「はあ?」
サキは思い立ったが吉日と言わんばかりに勢いよく立ち上がると、自身についた土を急いで払い落した。
「何で逃げるんだよ。よかったじゃねえか。殿下の事、好いてるんだろう?」
「何トチ狂ったことぬかしてるんですか!?」
サキは勢いよくジークフリードに向いた。
「殿下は友人として好きなんですよ! 恋慕の情なんてありません!」
「……そんな」
突然背後から声が聞こえたかと思ったら、何かが倒れるような音がした。何だと振り返ると、そこには膝をつき地に手をついて項垂れているレオンハルトと、それを慰めているユイの姿があった。
何でここに、とか、いつから居た、とかそんなことよりも、何でその格好なのかが一番気になった。
「何してるんですか?」
不思議そうに首を傾げるサキに、その場にいた男たちが揃ってため息を吐いたというのは言うまでもない。
王宮に戻せる目処がたったということで、いても立ってもいられず迎えに来たと聞いたときは、呆れてものが言えなかった。
一国の王子がおいそれと私情で出歩いては傍にいる人が可哀想である。
「ユイにも怒られた」
隣を歩くレオンハルトはそう言って項垂れていた。
相変わらず大きな子供だなと思うと、サキは思わず苦笑が浮かんだ。
突然現れたレオンハルトに話がしたいと言われ、今は二人だけで林の中を散歩している。
まさかここまで来るとは思っていなかったので、サキはレオンハルトの登場に嬉しいやら困るやらで何とも言えない心境だった。
「……全く」
隣に目をやればそこにはレオンハルトがいる。
レオンハルトはこれからも『レオルヴィア』であることを決めた。しかし『レオンハルト』である自分自身も捨てないと言っていた。それは『レオルヴィア』も『レオンハルト』もレオンハルトの中で生かし続けていくということだった。
どちらか一方を消すのではなく、両方とも存在するモノとして。
レオンハルトは自身の生き方を、そう決めたのだ。
今、サキの隣を行くその人は『レオンハルト』だ。
「おいそれと王宮から出て来ちゃダメですよ」
「だってサキが」
二人だけで林の中を散歩している今は周りに誰もいない。それをいいことにレオンハルトは素に戻っている。
誰かに見られたらどうすると思ったが、はじめて会った日からの追いかけられていた日々を思い出せば、レオンハルトが如何に上手く立ち回っていたかが分かる。
王宮というその場所で、あれだけ走り回っていたのに、よく見つからなかったものだと感心する。
「また、逃げるかと」
「逃げませんよ」
サキはため息をつきながらレオンハルトに目をやった。
確かに見つかれば逃げるといった日々を送っていたのは事実だが、サキはもう逃げようとは思っていなかった。そのことをレオンハルトに伝えたはずだったのだが、未だに不安があるのだろうか。
サキは困ったように苦笑すると言って聞かせるように言葉を紡いだ。
「傍にいるって言ったでしょう?」
何ができるか分からないが、傍にいると約束したのだ。それを違えることは決してしない。
「うん」
安心したように微笑むレオンハルトにサキも笑顔を向ける。
レオンハルトは進む道を決めた。
歩き出したばかりのレオンハルトを傍で見ていてあげなければと、サキは保護者のような思いを抱いていた。
しかしそんなサキには一つだけ納得できないことがあった。
「処分の事、聞きました」
その言葉にレオンハルトの動きが一瞬止まった。
どうやら何を言われるかを分かっているらしい。
サキはそんなレオンハルトに遠慮なく告げた。
「私、後宮には入りませんから。断固拒否します!」
傍にいると約束したが、それとこれとは話が別だった。
機密事項を知ってしまったがために処罰は免れないことは分かっていた。しかし死罪確定の状況から、レオンハルトはサキやジークフリードを助けてくれたのだ。
それはサキだって分かっている事だった。
ジークフリードはまだいい。
嫌がってはいたが、王子直属の近衛騎士は選ばれた者しかなれない貴重な役職だろうし、騎士という職業からも離れていない。
それに比べてサキは庭師から妃候補にジョブチェンジだ。笑えない。
ようやく仕事も覚えて毎日楽しく仕事に励んでいたというのに、後宮に閉じ込められるなど御免だった。
それにサキには気がかりなこともあった。
「私は庭師です。それじゃダメなんですか? 私には王宮で働く以外に身寄りもありませんし、絶対に王宮から出て行ったりしませんから」
「そんなにイヤ?」
どこか淋しそうなその響きのサキはきっぱり答える。
「嫌です」
木の幹に手をつき項垂れるレオンハルトの様子に、サキはため息しか出なかった。
サキは別にレオンハルトのことが嫌いで拒否しているわけではないのだ。好意そのものは嬉しいが、後宮に入れと言われたらそれは困るとしか言えなかった。
サキには魔力はない。
もし後宮に入ってそのことが知られれば、レオンハルト自身にも害が及ぶ可能性がある。それは何としても避けなければならなかった。
ようやく自分の生き方を決めたレオンハルトの重荷になるようなことはしたくない。
「後宮入りを取り下げてもらえないなら、王宮には帰りません」
「サキ……」
不意に手を取られたことに驚いてレオンハルトを見上げると、そこには深い青色の綺麗な瞳がサキを映していた。
「どうしても?」
瞳をウルウルさせて顔を覗き込んでくるその半端ない破壊力の表情に、サキはたじろいだ。
もう見慣れたと思っていたその完璧な容姿にはまだそんな使い方があったのかとサキは一気に頬を赤くする。するとレオンハルトはそのことに目ざとく気付いたようで、彼がその口元に笑みを浮かべた。
しまったと思った時にはもう遅く、既にレオンハルトの手が腰にまわされていた。
「ちょ、バカ、離し」
動揺するサキを面白そうに見つめているレオンハルトは全く離す気はないようで、サキがどんなに暴れてもその腕はびくともしなかった。
「離してくださいよ……」
恥ずかしくてレオンハルトの肩口に額をつけ俯くと、背に回されているレオンハルトの腕が更にサキを強く抱いた。
「淋しかった」
サキに会えなくて。
耳元で小さく囁かれた声に、サキは思わず苦笑した。
こんなにはっきりした意思表示ができるようになった分前より厄介だが、いい事だとサキは思った。
自分を押し殺して生きるくらいなら、こっちのほうが断然いい。
『レオンハルト』でいてくれるほうがサキには嬉しいことだった。
「王宮には帰ります。でもそれは庭師としてです」
お願いします、と切に願うように見上げれば、レオンハルトは困ったような顔つきになった。
後宮入りが今回の件の措置であることは分かっている。重要機密を知ってしまったのだ。目の届くところに置いていたほうがいざというとき対処しやすいということだろう。
それはサキにだって分かっているし、それがどれだけ譲歩された措置なのかも理解している。
しかしそれを受け入れたことによってさらなる事態に発展することをサキは恐れているのだ。
だから後宮には入らない。
サキは断固譲らなかった。
「俺の事、嫌い……?」
悲しそうなレオンハルトの顔が真近くから見降ろしてくる。
未だ腰は抱かれたままになっており、上体を少し離している状態なのだ。近すぎて卒倒しそうだ。
「瀕死の状態で嫌いな人に会いに行く人間がどこの世界にいるっていうんですか。私が貴方を嫌う訳ないじゃないですか」
「本当?」
聞いているくせに物凄く嬉しそうにしているレオンハルトは、久しぶりに犬に見えた。
だから犬は嫌いなんだってば。
そう思いながらもサキはその様子に笑ってしまった。
「もう後宮には姫がいるじゃないですか。今さら私が入ったところで何になるんですか。大人しく庭師やってますから、後宮入りは勘弁して下さい」
苦笑しながらレオンハルトの瞳を覗き込む。
このままでは堂々巡りだ。
何とかレオンハルトから取り下げの言葉を引き出さなければ。
そう思っていたら、レオンハルトから提案があった。
「俺はサキの後宮入りを取り下げない。サキは庭師を続けたい。だったら、後宮に入っても庭師を続ければいい」
「………………はい?」
いつになく長文で話すレオンハルトに気を取られて、何を言ったのか聞き取れなかった。いや、聞き取りたくなかった。
「無理」
「む」
その短い会話の中にお互いの言い分がこれでもかと込められていることを、サキもレオンハルトも理解した。
そうして譲らない二人の攻防戦はしばし続く。
夏の日の出来事は終わりを告げ、季節は秋へと移り変わる。
そうして、物語も終結からはじまりへと進んでいく。
はたして、どちらの言い分に軍配が上がったのか。
それはまた、別のお話。




