君のもとへ
レオンハルト視点です。
急いで執務室に戻ったレオンハルトは、部屋に入るなり、目的の人物に詰め寄った。
「ユイ、昨日サキと何を話した」
その危機迫る勢いのレオンハルトにユイは少々目を見張っていた。
「どうされたのですか、突然」
「いいから答えろ!」
怒りを孕んでいるその雰囲気にユイは眉根を寄せていたが、すぐさまもとの穏やかな顔つきに戻った。
「庭のことについて少しお話しただけですが?」
その言葉にイシラシの花の件を知ったのはユイだと断定した。
レオンハルトは睨むような視線をユイに向けながら、口を開く。
「サキをどうした」
「存じ上げませんが」
素知らぬ顔でしらを切るユイにレオンハルトは歯噛みした。
ユイには王命が下されおり、誰よりも『レオルヴィア』の存在を護っている。
それをレオンハルトはよく知っていた。
子供の頃からレオンハルトとレオルヴィアの侍従をしていたこの男は、レオルヴィアが死んだあの日から一度もレオンハルトを『レオンハルト』と呼ぶことはなかった。それは、そうすることを国王とイルヴェルトが決定し、それをレオンハルトが受け入れたからだ。だからこそ、今さら『レオンハルト』に戻りたいなどと知れたら、サキの命は消されてしまう。
レオンハルトは焦る気持ちを懸命に宥めながら、ユイを睨みつけていた。
「サキさんがどうしましたか? 殿下が気にかけるとは珍しいですね」
「とぼけるな。俺は『レオルヴィア』として生きていく。それはこれからも変わらない。だから、サキは返してくれ」
懇願にも似たその言葉をユイがどう捉えたかは知らないが、目の前の男は不意に渋面な顔つきになった。
「返せ、とはどういう意味ですか? あの方はただの庭師。殿下と何のご関係が?」
疑いの眼差しを向けてくるユイを前に、レオンハルトはグッと言葉を呑む。
ユイはまだ一言もサキが『レオンハルト』の事を知っている事実を口にしていない。もしかしたら、まだその事をユイが知らない可能性もあったという事か。
しかしユイは確かにイシラシの花のことは知っているはずなのだ。この男が後宮の庭に行ってそのことに気付かないわけがない。しかしサキが何を知ってしまったのかまでは知らなかったのかもしれない。
そう思うと今の言葉は失言だったとレオンハルトは顔を歪めた。
「あの方は何をご存じなのですか?」
「それは……っ」
重ねられる質問がレオンハルトに重く圧し掛かる。
サキはユイに捕まったのではないのか。
ユイは何も知らなかったのか。
思わぬ事態に黙り込んでいると、ユイは呆れたようにため息を吐いた。
「サキさんが何故貴方の事をご存じだったのかようやく分かりました」
ハッと顔を上げると、咎めるような眼差しのユイがそこにいた。
やはりユイはサキが事情を知っている事実を知っていたのだ。
レオンハルトは鎌をかけられたのだと気付くと、悔しさで奥歯を噛んだ。
サキを捕えたのはユイだ。
もう間違いはない。
「サキをどうした」
睨むような視線を送ると、ユイはそれを真っ向から受け取った。
そんなこととでも言うように。
些細なことだと言うように。
ユイの口から発せられた言葉はレオンハルトを地の淵に叩き落とした。
「消えていただきました」
足元が崩れ去るような感覚にレオンハルトは一歩よろめいた。
ユイは今何と言った。
消えた。
誰が。
レオンハルトは最早考えることが出来なくなっていた。
「まさか、ご自分から国を裏切るようなことをなさるとは思いませんでした」
最早言葉を返す気力すら削ぎ取られた。
サキに『レオンハルト』と名乗ったのは、国を裏切る行為だと分かっていた。しかしどうしてもサキに真名を呼んでもらいたかった。
ただ、それだけだった。
たったそれだけの願いだったが、その願いは罪だった。
分かっていた。
それがどれだけ重い罪なのかを知っていて尚それを犯したレオンハルトは、サキの命と引き換えにかけがえのない思い出を手に入れた。
現実はそういうことだった。
己の我儘がサキを殺した。
サキは何も知らなかった。
知らないことに甘えてサキを巻き込んでしまった。
サキは何も悪くないのに、もうここにはいない。
レオンハルトは己の犯した罪の深さに潰され、失意のどん底に落ちた。
「殿下、今後はそのような軽率な行動は慎んでください。貴方は『レオルヴィア』殿下です」
レオンハルトはそれをどこか遠いところで聞いていた。
ずっとそうしてきた。
今さらそれを覆そうとは思わない。
レオルヴィアが死んだあの日から、ずっと『レオンハルト』は死んでいたではないか。
自分は誰で役目は何かなど嫌というほど理解している。
そうであれと求められ、そうであろうと生きてきた。
それなのにほんの些細な願いすら自分には許されないのか。
誰かの命を引き換えにしないと叶わない願いだったというのか。
最早レオンハルトには後悔と絶望しか残らなかった。
思い出の中に残るサキの笑顔は、レオンハルトの心を抉るものに変わってしまった。
「レオ、サキとの思い出で心を潰してはいけない」
いつの間にそこにいたのか、執務室にはもう一人の人影があった。
「……セルネレイト様」
応えたのはユイだった。
セルネイはいつもの庭師の格好ではなく、騎士のような服を纏い、腰に剣を佩いていた。
それをレオンハルトはぼんやり眺めていた。最早考えることを放棄したかのように、その瞳は虚ろだった。
セルネイはそんなレオンハルトに歩み寄ると、ユイに鋭い眼光を向けた。
「サキは本当にユイが?」
「聞いておられたのでしょう? 言葉の通りです」
セルネイの問いにユイは動じることなく答えた。
「殿下は『レオルヴィア』様でなければならないのです。今までもそうしてきました。私は自分の任を全うしたまでです」
情報が露見しないために真実を知った者は処断する。
それがユイに下された命令で、彼はそれを忠実に守っている。
その事をレオンハルトは誰よりも知っている。
「君の仕事のことをとやかく言うつもりはないけど、レオが誰であるかはレオ自身が決めるべきだと、僕は思うのだけど」
「貴方のその言葉は誓約に反しているのでは? 貴方は王家の問題に口出し出来ないはずです」
その非難するような物言いにセルネイは口元に冷淡な笑みを浮かべた。
「誓約? それは既に先王の御世で反故にされた。本来ならもうこの国にいる意味はないのだけど、イルとレオが誓約を守ってくれた。僕は今イルとレオにのみ誓約を掲げている。そのレオが害されることになるのなら、僕はこの国を見限るよ」
それは脅しではなく真実だった。
ユイはグッと言葉を呑みこむと目の前の男を睨んだ。
「悪いけど、僕はサキとも約束していてね。もしサキが罰せられる事になったら、レオを道連れに僕も消える、と」
「な……っ」
ユイの顔が驚愕に歪んだ。
それをセルネイは何でもない事のように見つめていた。
「レオ、サキのもとに行こうか。今ならまだ冥界の入り口で待っていてくれるかもよ?」
その言葉はレオンハルトの耳に響いた。
サキのもとに。
それはとても甘美な誘惑だった。
「……サキに会いたい」
縋るように紡いだその言葉に、セルネイが満足そうに微笑んでいた。
「お待ちください、セルネレイト様! 貴方は何と恐ろしいことを……っ」
「恐ろしい? 僕からしてみれば君たちのほうが恐ろしいよ。ハルトとルヴィアを入れ替えるだなんて」
その不思議な色の瞳か苛烈に煌めいた。
この国に必要なのは『レオルヴィア』であって『レオンハルト』ではない。それはレオンハルトも理解している。納得して『レオルヴィア』でいたが、それは納得した『つもり』であったのだとようやく分かった。
サキに出逢ってそれを知った。自分は『レオンハルト』で在りたかったのだと。
国のために偽ることは構わない。しかしただ一人、サキの前でだけは自分を偽りたくなかった。
ただ、本当の自分でいたかった。
「いいんだセルネイ。俺が誰かなんて、もうどうでもいいんだ……」
もうここには『レオンハルト』はいない。
レオンハルトはサキと共に死んだ。
ここに立っているのはただの抜け殻だ。
「……サキの許に」
「分かった」
セルネイは承諾の意を示すとレオンハルトの腕を掴んだ。
「お待ちください! サキさんは――」
ユイの言葉は途中までしか聞こえず、レオンハルトはセルネイと共にその場から忽然と姿を消した。




