表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

母が勝手に出した縁談は断られていました。返された封筒で、今度は私が町薬師を選びます

作者: 七尾 いと
掲載日:2026/08/21

「エミリア、これ、今日の便に間に合う?」


 母さんの声と一緒に、生成りの封筒が朝食の皿を押しのけた。


 皿に残っていたのは固くなったパンが半分。封筒のほうはきっちり糊づけされ、宛先はリチャード様。母さんの筆跡だ。


「間に合うけど。これ、何?」


「お願いごとよ」


「領主に?」


「領主だからよ」


 なるほど。中身が求婚でも請求書でも、宛先が合っていれば私の仕事は終わりだ。たぶん。


 私はパンをくわえ、封筒を郵袋へ差し込んだ。


 町の郵便局では、届いた郵便を行き先ごとに分け、印を確かめ、束ね、御者へ渡す。間違えてはいけない。人は宛先が違えば怒る。恋文が徴税吏へ届いた日など、差出人と受取人と徴税吏の妻まで怒った。


 だから私は紙を見れば、宛先、筆跡、折り目、重なりまで一度で読む。


 私は封筒を指で弾く。


 軽い音。書類は二枚か、薄い紙なら三枚。


「領主館、一通!」


「はいよ!」


 局員が声を上げ、郵袋の口を縛った。母さんのお願いごとは、その日の昼前には領主館へ向かった。


 それだけのはずだった。


「おはようございます」


 薬舗の前を通ると、クリストフさんが軒先で薬包を積んでいた。白い指が紙包みをつまみ、私を見た途端、止まる。


 薬包が一つ落ちた。


「あ」


「拾います」


「結構です」


 早い。私の手が膝まで下りる前に、クリストフさんは薬包をさらった。しかも顔を上げない。


 目の下が青い。襟も少し曲がっている。昨夜も誰かを診たのだろう。郵便馬車の御者は腰を痛め、川沿いに住む老女は咳をしていた。


「また夜中に往診したんですか」


「仕事ですから」


「薬舗から給金は出るんです?」


「エミリアには関係ありません」


 とうとう名前まで冷たい。


 先週までは配達帰りの私へ白湯を出してくれた人が、今朝は薬包より早く私を片づけた。


「そうですね。失礼しました」


 胸を張って歩きだした。郵便係たるもの、配達先から追い払われたくらいで振り返らない。


 角を曲がってから振り返った。


 クリストフさんはまだそこにいて、今度こそ薬包を三つ落としていた。


 嫌われるというのは、ずいぶん手元が忙しくなるものらしい。


    *    *    *


「エミリア、領主館へ縁談を出したんだって?」


 翌朝、局へ入った私を、六人分の声が迎えた。


「出してません」


「じゃあ、母親が出したんだ」


「何を?」


「おまえを」


「私は大型郵便物ではありません!」


 局員たちは仕分け台を囲んだまま、誰一人として仕事の声量を下げない。魚屋から聞いた。魚屋は薬舗の客から聞いた。薬舗の客は領主館の台所へ野菜を納める人から聞いた。


 一通が町を一周する間に、私はリチャード様へ熱烈な求婚状を送り、すでに衣装合わせを済ませ、秋には領主館の窓辺で刺繍をすることになっていた。


 嫌だ。刺繍は三針で糸を絡ませる自信がある。


「誤配です」


「宛先は合ってたんだろ?」


「中身を知らなかったんです!」


「中身は縁談だって」


「いま知りました!」


 私の人生、本人への配達が最後である。


 その日からクリストフさんは、郵便局の前を通らなくなった。


 薬舗から西区へ行くなら、局前が最短だ。それなのに彼は市場を大回りし、私が配達へ出る時刻には裏口を使った。ばったり会っても、瞳だけが脇へ逃げる。


 リチャード様との縁談を狙う女と話すのが嫌なのだろうか。身分が上がる前から浮かれていると思われたのかもしれない。次には、領主館へ入った私が偉そうに郵便局へ現れ、局員全員の字の汚さを叱り、薬舗には薬を百人分注文して支払いを翌年へ延ばす。


 そこまで妄想が進んだところで、昼を食べていないことに気づいた。空腹時の私の未来予測は、だいたい三段目で破産する。


「次便、領主館から!」


 郵袋が開き、一通の封筒が仕分け台へ滑った。


 生成りの紙。母さんの字。私が押した取扱印。


 行って帰ってきた同じ封筒だった。


「縁談が戻った」


「エミリアが戻された」


「まだ行ってません!」


 私は封筒をつかんだ。


 胸の中まで、差出人へ返送、と赤い印を押された気がした。


    *    *    *


 私は封筒を指で弾く。


 行きより一枚多い。


 裏返せば、一度開かれた糊の端がわずかに浮いていた。中から出てきたのは、母さんの筆跡で埋まった申込書と、リチャード様の短い返書。


 娘エミリアとの縁組を、どうかご検討ください。


 本人の意思を確認できないため、お受けできません。


 私は二行目を三度読んだ。


 断られている。私の知らないところで申し込まれ、私の知らないところで、きれいに断られている。


 局員の一人が覗き込み、口を丸くした。


「誤配じゃなくて」


「誤縁談だ」


「うまいことを言った顔をしないでください」


 私は封筒と書類を抱え、昼の鐘が鳴る前に家へ戻った。


「母さん」


「あら、早いのね」


「私、リチャード様へ申し込まれて、断られていました」


 母さんが鍋の蓋を取り落としかけ、両手で挟んだ。器用だ。娘の人生を落としかけた人の手とは思えない。


「もう返事が来たの?」


「届く予定だったんですね」


「違うの、エミリア。まず座って」


「私の縁談なのに、母さんのほうが先に座るんですか」


 母さんは半分下ろした腰を戻した。


「あなた、ここひと月で何回、夕食を抜いた?」


「二回です」


「五回よ。机で寝たのは?」


「姿勢を変えて考えごとをしていただけです」


「朝まで?」


 不利だ。郵便物なら不足料金を払えば済むが、親子の会話には不足睡眠まで記録される。


 母さんは鍋の蓋を握ったまま続けた。


「この家は狭いし、冬は隙間風が入る。あなたのお給金だけで暮らして、私が病気になったら、もっと働くでしょう。リチャード様なら、あなたを安全な暮らしにしてくれると思ったの」


「心配してくれたことは分かる」


 母さんの肩が下がった。


「でも、私に聞かずに出したことは別です」


 肩が止まった。


「善意に無断署名という種類があるとは、郵便学校では習いませんでした」


「署名は私の名前よ」


「そういう細部だけ正しくしないで」


 申込書を卓上に置いた。紙一枚なのに、母さんは鍋より重そうに見た。


「私が食べないなら、食べろと言って。机で寝たなら、寝台へ引きずって。縁談を考えたなら、まず私に聞いて。私を安全にしたいからって、私を抜きにして安全の形を決めないで」


「……ええ」


「次は?」


「先に、あなたへ聞く」


「送る前に?」


「送る前に」


「私が断ったら?」


「送らない」


 母さんの文が、急に短くなった。


「ごめんなさい」


 鍋の蓋が卓上へ置かれた。


 私は返事の代わりに椅子へ座った。母さんは固いパンを薄く切ろうとしたので、その手から取り上げ、二つに割った。朝の残りだ。


「これを食事と数えるから心配されるのよね」


「そうよ」


「いまは母さんが責められている場面です」


「食べながら責めなさい」


 それには従った。本人確認の済んだ世話焼きは、だいたい正しい。


 午後、局へ戻ると、入口に立っていた局員が真っ青な顔で私へ駆けてきた。


「領主が来てる」


「何を受け取りに?」


「おまえを?」


「だから私は郵便物ではありません!」


 窓口の前にはリチャード様がいた。随行もつけず、返送した申込書より穏やかな顔をしている。その隣には、往診鞄を持ったクリストフさん。


 私を見た瞬間、クリストフさんの視線が床へ落ちた。


 はい、嫌われています。局の床板のほうが私より魅力的らしい。


「勝手に返送してすまなかったね」


 リチャード様が言った。


「いいえ。返してくださって助かりました」


「申込書に君の署名がなかった。それに、私はエミリアの字を知っている」


 毎週、配達遅延や橋の状態や郵便馬車の車輪について報告を書いている。恋文ではない。まったく華のない筆跡の認知経路だが、今回は私を救った。


「では、本当にお断りに?」


「本人不在の縁談はね。私が今日来たのは別件だ」


 リチャード様はクリストフさんへ顔を向けた。


「夜間に御者や町の住民を診てきた働きについて、話がまとまった。領営診療所の主任薬師を任せたい。給金のほか、診療所裏の住居も使ってもらう」


 局員たちの口が一斉に開いた。


 クリストフさんも開いた。


 閉じた。


「……私に、ですか」


「ほかに、夜中の三時に御者の腰へ湿布を巻き、自分の食事代を薬代へ回す薬師がいるなら紹介してほしい」


 クリストフさんは往診鞄の持ち手を握り直した。指の節が白い。目の下は、昨日より青い。


「ありがたいお話です。ですが」


「ですが?」


「次の郵便馬車で町を出ます」


 私の腹の底へ、硬いものが落ちた。


 局員たちの顔が私とクリストフさんの間を往復する。おかげで、私の顔も見なくて済む。親切な職場だ。全員、あとで配達量を二倍にしてあげたい。


「荷はもう積みました」


 外を見ると、明朝便の馬車に見覚えのない鞄と木箱が載っていた。


 仕事道具と、畳んだ服。人ひとりが町から消えるには十分な量だった。


「任用初日の欠勤は困る」


 リチャード様は穏やかに言った。


「まだお受けしていません」


「住居には寝台もある」


「お気遣いなく」


「三食出る」


 クリストフさんの喉が動いた。


 そこ、迷うんですか。


 私が衝撃を受けるべきは退職か、出発か、三食で揺らぐ薬師か。優先順位が多すぎる。


「なぜ、急に町を?」


 口から出た声は、思ったより低かった。


「急ではありません」


「私は今日知りました」


「エミリアには関係ありません」


 またそれだ。


 クリストフさんは鞄を持ち上げ、私の横を通り過ぎた。袖が触れそうになって、彼の腕だけが不自然に持ち上がる。


 触れたくもないらしい。


 私は返された封筒を握り潰しかけた。


 紙が鳴った。


    *    *    *


「紙を一枚ください!」


 私が叫ぶと、局員三人が同時に差し出した。こういう時だけ仕事が速い。


 返された申込書の裏は使わない。母さんの選択の上へ自分の選択を書くのは、どうにも縁起が悪い。私は局の用紙を一枚取り、仕分け台へ置いた。


 長く書けば言い訳が増える。


 短く書けば逃げ道が減る。


 夕食を一緒に。返事は食べて寝てから。


 自分の字で、二行。


 返された封筒へ入れ、糊はつけなかった。今度は誰にも中身を隠す必要がない。


 戸口へ向かうクリストフさんを追い、彼の前へ回り込む。


「これを」


「領主館への返書なら、局員へ」


「宛先が違います」


 私は封筒を指で弾く。


 生成りの封筒が仕分け台を滑り、クリストフさんの手元へ当たった。


 彼は反射的に受け取った。開く。二行を読む。


 読む。


 まだ読む。二行しかないのに。


「今夜?」


「今夜です」


「なぜ」


「そこから説明が必要ですか?」


 クリストフさんの親指が、紙の端を何度もなぞった。


「リチャード様との話がなくなったから、ですか」


「なくなるも何も、最初から私の話ではありません」


「では、気の毒になって」


「何が?」


「私が任用を断り、町を出るから」


「気の毒な人に夕食をご馳走するほど、私のお給金には余裕がありません」


「僕が払います」


「お金はあるんですか」


「……少しなら」


「三食で迷った人が見栄を張らないでください」


 局員の一人が腹を押さえ、隣の局員に肘で突かれた。笑う場面ではない。少なくとも当人たちにとっては。


 クリストフさんは招待状を封筒へ戻した。きちんと端を揃える。返すつもりだ。


「行けません」


「どうして」


「荷を載せました」


「降ろせます」


「馬車は待ちません」


「御者さん、あとどれくらい?」


 外から声が飛んだ。


「出発は明朝! 痴話喧嘩なら今夜じゅう!」


「痴話喧嘩ではありません!」


「では荷だけ先に行かせるぞ!」


「それはもっと困ります!」


 返事をしたのはクリストフさんだった。


 局員たちが、ほう、と同じ音を出した。六人いると、ほう、にも厚みが出る。


「クリストフさん」


「はい」


「私を避けていたのは、嫌いだからですか」


 彼の口が閉じた。


 局員の一人が郵袋を持ったまま止まり、別の一人が取扱印を紙の上で浮かせている。リチャード様は窓口脇へ半歩退いた。逃げ道を空けたようにも、見物に適した位置を取ったようにも見えた。


 クリストフさんは私を見ない。


「答えてください」


「エミリアは、リチャード様と」


「その申込書は母さんが勝手に出しました」


「けれど、いずれ似た話が来る」


「どうして?」


「あなたは仕事ができる。字がきれいで、誰にでも公平で、町中の道を知っていて、荷物が重ければ自分で持つ。食事を抜くのはよくないですが」


「途中から母さんが混ざっています」


「僕には何もない」


 声が小さくなった。


 さっきまで笑いを噛み殺していた局員たちが、口を閉じた。


「薬舗の給金は月によって変わる。部屋も借り続けられるか分からない。夜に診ても代金を受け取れないことがある。そんな人間が、あなたのそばにいる理由はありません」


「理由を決めるのは誰ですか」


「僕です」


「私のそばなのに?」


 クリストフさんの顎が上がった。


 初めて目が合った。


 青い顔。三日眠っていない目元。私を見たまま、逃げられなくなった瞳。


「領主との縁談が正式になれば、あなたがリチャード様の隣に立つのを見ずに済む場所へ行くつもりでした」


「なぜ会わずに済みたいんです」


「分からないんですか」


「人の感情は読めるほうです」


「僕の薬包を毎回拾おうとしておいて?」


「あれは私が近づくと落とすからです。嫌がらせかと思っていました」


「どんな嫌がらせですか」


「紙資源を地面へ」


「好きな人が急に目の前へ来たら、手くらい狂います!」


 取扱印が落ちた。


 かつん、と乾いた音が局内へ響いた。


 クリストフさん自身も、自分の声に追いついていなかった。口を開けたまま、私を見ている。


 私はというと、胸の中で配達馬車が三台ほど衝突した。


「誰が?」


「聞かなかったことにしてください」


「宛先不明では戻せません。誰が誰を?」


「エミリアを」


「誰が」


「僕が!」


 クリストフさんの手から封筒が落ちた。


 拾おうとした彼の膝が、仕分け台へぶつかった。立て直そうとして往診鞄を倒し、局員二人が支え、三人目が封筒だけを確保する。


「大丈夫ですか」


「大丈夫です」


「顔が白いです」


「生まれつきです」


「目の下は青いです」


「これも生まれつきです」


「昨日より濃く生まれ直しています」


 彼の手が震えていた。


 指先だけではない。封筒を受け取る腕、息を吸う肩、言葉を押し戻す唇まで。


「いつから寝ていません?」


「寝ています」


「何時間」


「……三日で五時間ほど」


 恋の告白が始まる前に、患者が完成してしまった。


「夕食へ行きます」


「いまの話は」


「まだ一行目です。荷造りと失恋を同時に進めないでください」


「失恋は」


「していません。私が返事をしていませんから」


 クリストフさんの目の縁から一滴が落ち、頬の途中で止まった。


 局員たちは全員、急に郵便物へ顔を伏せた。表裏を逆に持っている人が二人いる。リチャード様まで窓の外を見た。


 私は封筒を取り、彼の胸へ押し戻した。


「この二行を先に済ませます。食べて、寝る。話はそのあとです」


「ですが馬車が」


「任用されたなら町に残れます」


「受けるとは」


 クリストフさんのお腹が鳴った。


 立派な返事だった。


「主任薬師殿」


 リチャード様が呼ぶ。


「返答は食後で構わない。住居の鍵は明朝渡す」


「まだ何も」


「任用初日の欠勤は困ると言ったはずだ」


「強引では?」


「君にだけは言われたくないだろうね、エミリア」


「私は夕食へ招いただけです!」


「寝ろとも書いてある」


「別々です! 食卓と寝床は別の場所です!」


 局員たちの肩が揺れた。


 深刻な告白が、たった二行の配達指示に負けていく。よし。恋心の扱いは分からないが、空腹と睡眠不足なら私にも処理できる。まず生存。情緒は翌朝便。


 私たちは母さんの待つ家へ戻った。


「まあ」


 母さんは私、その後ろのクリストフさん、彼が握る封筒の順に見た。


「食事を一人分増やして」


「二人分あるわよ」


「なぜ」


「あなたが昼にパンを二つ食べたから、夕食も食べると思って」


 娘が一食増やしただけで、薬師一人が追加される計算はおかしい。


 だが、母さんは聞かなかった。鍋から湯気の立つ皿を出し、クリストフさんの前へ置いた。肉と豆を煮たもの。豪華ではない。温かくて、匙ですくえば口へ入る。いま必要なのはそれで十分だった。


 クリストフさんは最初の一口を飲み込むと、次から急に速くなった。


「ゆっくり食べてください」


「はい」


 返事だけして速い。


「噛んで」


「噛んでいます」


「いまの豆、二回でした」


「数えているんですか」


「郵便係ですから」


「関係ある?」


 母さんが口を挟んだ。


「ありません」


 皿が空になり、パンが消え、もう一杯の煮込みもなくなった。クリストフさんは空の皿を見て、ようやく自分が食べた量に気づいた顔をした。


「すみません」


「食事に謝らないでください」


「代金を」


「任用後の初任給からいただきます」


「任用はまだ」


「では、明日の朝食も借金ですね」


 母さんが私を見た。


 私は母さんを見る。


「何?」


「いま聞こうと思って」


「何を?」


「クリストフさんを、泊めてもいい?」


 約束を守った。ぎりぎりだが、発送前の本人確認である。


「いいです。ただし寝台は私の部屋、私は母さんの部屋、母さんは長椅子」


「私だけ損をしてない?」


「無断申込の手数料です」


 母さんは不満そうに口を曲げたが、毛布を取りに行った。


 クリストフさんは何か言おうとした。けれど椅子から立った途端にふらつき、壁へ手をつく。


 その手を寝台まで引く。指先は冷たかった。


「話の続きは」


「朝」


「でも」


「配達期限を守ってください」


 彼は枕へ頭をつけた。


 本当に、それだけだった。


 呼吸が五つ続く前に、瞼が閉じた。眉間に残っていた皺が少しずつほどけ、封筒を握っていた手も緩む。私は落ちそうになったそれを抜き取り、寝台脇へ置いた。


 好きだと言った口は閉じている。


 返事を求める手も伸びてこない。


 私は灯りを小さくした。三日分には足りないだろうが、まず一晩。恋より先に、人は眠らなければならない。


 翌朝、クリストフさんはパンの焼ける音で起きた。


 匂いではなく音なのが少し心配だ。寝台から出てきた彼の髪は片側だけ跳ね、襟元は曲がり、昨日までの遠慮深い薬師から品格が三割ほど抜け落ちていた。


「おはようございます」


「おはようございます。よく眠れました?」


「たぶん」


「何時間?」


「九時間」


「合格です」


 食卓へ座ると、彼はパンを二つ、卵を一つ、煮豆を一皿平らげた。昨日の速さよりはましだが、私が二口食べる間にパンが一つ消える。


 頬に色が戻っている。目元の青みも薄い。匙を持つ手は震えていない。


 これなら話せる。


「昨日の続きを」


 私が言うと、クリストフさんの匙が止まった。


「忘れてください」


「九時間眠った結果がそれ?」


「考え直しました」


「何を」


「エミリアが同情で僕を引き留めているなら、甘えるべきではないと」


「勝手に別れ話へ進まないでください。まだ交際も始まっていません」


「では始めないということで」


「どうして後ろへ進むんです!」


「リチャード様の申込書が断られた日に、町薬師で妥協する必要はありません」


「町薬師のどこが悪いんです」


「給金と住居が不安定です」


「昨日、両方整いました」


「任用を受けるとは言っていません」


「三食あります」


 クリストフさんの視線が、残りのパンへ動いた。


 よし、一点。


「診療所裏に住居があります」


 もう一度、動いた。


 二点。


「夜間に診た人から、払えない薬代を無理に取らなくて済みます」


 彼の匙が皿へ置かれた。


 三点。勝ちました。恋敵が貧困と寝不足なら、こちらは食卓と寝台で殴ればいい。


「それでも」


「それでも?」


「あなたが僕を選ぶ理由にはならない」


 軽口が喉で止まった。


 クリストフさんは食卓の木目を見ていた。昨日落とした一滴の跡など、もうどこにもない。それでも両手は膝の上で強く組まれている。


「私が配達帰りに遅くなると、薬舗の灯りを残してくれたでしょう」


「偶然です」


「白湯も?」


「余っていたので」


「雨の日に布を貸してくれたのも?」


「古い布です」


「私が昼を抜いた日は、薬を届けるふりをしてパンを置いていった」


「薬舗の帳簿が合わなかっただけです」


「パンで帳簿を合わせる薬舗は潰れますよ」


 クリストフさんの口元が、ほんの少し曲がった。


「私は、あなたを引き留めたい」


 彼が顔を上げる。


「領主との縁談が消えたからではありません。最初から私の縁談ではなかった。母さんが書いた申込書ではなく、昨日の二行が私の返事です。あれは私が書きました。私があなたへ渡しました」


「夕食を一緒に、としか」


「二行目もあります」


「寝ろ、と」


「そこだけ命令形に要約しないで」


「では、その先は」


 玄関が勢いよく開いた。


「エミリア、寝具はどこへ置くの!」


 母さんが入ってきた。


 一人ではない。郵便局員四人が、寝具一式と箱を抱えて続いている。残り二人は局を守っているらしい。最低限の職業倫理だけ残した野次馬である。


「なぜ寝具が増えてるの!」


「二人で暮らすなら必要でしょう?」


「母さん、寝具は返事のあと!」


「先に聞いたわよ。運んでもいいかって」


「私にしか聞いてない!」


「だから、いま聞くわ。クリストフさん、ここへ運んでもいい?」


 母さんは寝具を抱えたまま、ぴたりと止まった。


 約束を守ろうとしている。すでに玄関まで運んでから聞くのは、本人確認として著しく遅いけれど、昨日よりは一歩。いや、寝具一式ぶん前へ出すぎている。


 クリストフさんは立ち上がった。椅子の脚が床を鳴らす。


「僕は」


「出た、返事だ!」


 局員が叫ぶ。


「まだ最初の二文字です!」


「寝具、玄関を通過!」


「通過させないで!」


「箱も続きます!」


「実況もしない!」


 外で馬が鳴いた。


 郵便馬車の御者が、クリストフさんの鞄を肩に担いで戸口へ現れる。


「出発時刻だ」


「待ってください」


「待たん。乗るのか、荷を降ろすのか」


 クリストフさんは私を見た。


 私も見返した。


 ここで何か気の利いたことを言うべきなのだろう。私を選んで。そばにいて。好きです。どれも口の中で宛先を失い、舌の裏へ戻ってくる。


 母さんの寝具は玄関につかえている。局員たちは箱を持ったまま、少しずつ室内へにじり寄る。リチャード様まで外にいて、診療所の鍵を指にかけていた。


「任用の返事も、まだ聞いていないんだが」


「順番を守ってください!」


「何番目だ?」


「食事、睡眠、告白、任用、寝具です!」


「告白への返事は?」


「私が聞きたいんです!」


 クリストフさんが、とうとう噴き出した。


 昨夜まで青かった顔が崩れた。片手で口を押さえても肩が揺れ、止めようとするほど笑いが漏れる。


「笑うところですか!」


「すみません」


「謝りながら笑わないで」


「でも、エミリアが」


「私が何です」


「僕より混乱している」


「誰のせいですか!」


 クリストフさんはまだ笑いながら御者のところへ歩いた。


 胸が縮む。


 行くのかと思った。


 彼は馬車の荷台へ両腕を伸ばし、自分の鞄を受け取った。次に木箱。胸へ抱え、家の中へ戻ってくる。


 局員たちの声が一段上がった。


「荷、玄関を通過!」


「寝具、右へ寄せろ!」


「主任薬師、帰宅!」


「まだ返事を聞いてません!」


 クリストフさんは木箱を床へ置いた。結び目へ指をかける。


 震えていない。


 荷紐がほどける。中から畳んだ服を出し、母さんが抱えていた寝具を片腕で受け取った。空いた手で診療所の鍵も受け取る。


「住居は診療所裏です!」


「ここへ運ぶ分だけです」


「分けるんですか!」


「仕事道具は向こうへ。食事と睡眠は、こちらで相談を」


「相談?」


「本人へ先に聞きます」


 母さんが、あ、と口を開けた。


 局員たちが笑った。リチャード様も顔を背けた。母さんは寝具から手を離しながら笑い、私は返事を聞き損ねたまま、クリストフさんの緩んだ顔を見上げた。


 御者が空になった荷台を叩いた。


「返送扱いでいいんだな」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ