母が勝手に出した縁談は断られていました。返された封筒で、今度は私が町薬師を選びます
「エミリア、これ、今日の便に間に合う?」
母さんの声と一緒に、生成りの封筒が朝食の皿を押しのけた。
皿に残っていたのは固くなったパンが半分。封筒のほうはきっちり糊づけされ、宛先はリチャード様。母さんの筆跡だ。
「間に合うけど。これ、何?」
「お願いごとよ」
「領主に?」
「領主だからよ」
なるほど。中身が求婚でも請求書でも、宛先が合っていれば私の仕事は終わりだ。たぶん。
私はパンをくわえ、封筒を郵袋へ差し込んだ。
町の郵便局では、届いた郵便を行き先ごとに分け、印を確かめ、束ね、御者へ渡す。間違えてはいけない。人は宛先が違えば怒る。恋文が徴税吏へ届いた日など、差出人と受取人と徴税吏の妻まで怒った。
だから私は紙を見れば、宛先、筆跡、折り目、重なりまで一度で読む。
私は封筒を指で弾く。
軽い音。書類は二枚か、薄い紙なら三枚。
「領主館、一通!」
「はいよ!」
局員が声を上げ、郵袋の口を縛った。母さんのお願いごとは、その日の昼前には領主館へ向かった。
それだけのはずだった。
「おはようございます」
薬舗の前を通ると、クリストフさんが軒先で薬包を積んでいた。白い指が紙包みをつまみ、私を見た途端、止まる。
薬包が一つ落ちた。
「あ」
「拾います」
「結構です」
早い。私の手が膝まで下りる前に、クリストフさんは薬包をさらった。しかも顔を上げない。
目の下が青い。襟も少し曲がっている。昨夜も誰かを診たのだろう。郵便馬車の御者は腰を痛め、川沿いに住む老女は咳をしていた。
「また夜中に往診したんですか」
「仕事ですから」
「薬舗から給金は出るんです?」
「エミリアには関係ありません」
とうとう名前まで冷たい。
先週までは配達帰りの私へ白湯を出してくれた人が、今朝は薬包より早く私を片づけた。
「そうですね。失礼しました」
胸を張って歩きだした。郵便係たるもの、配達先から追い払われたくらいで振り返らない。
角を曲がってから振り返った。
クリストフさんはまだそこにいて、今度こそ薬包を三つ落としていた。
嫌われるというのは、ずいぶん手元が忙しくなるものらしい。
* * *
「エミリア、領主館へ縁談を出したんだって?」
翌朝、局へ入った私を、六人分の声が迎えた。
「出してません」
「じゃあ、母親が出したんだ」
「何を?」
「おまえを」
「私は大型郵便物ではありません!」
局員たちは仕分け台を囲んだまま、誰一人として仕事の声量を下げない。魚屋から聞いた。魚屋は薬舗の客から聞いた。薬舗の客は領主館の台所へ野菜を納める人から聞いた。
一通が町を一周する間に、私はリチャード様へ熱烈な求婚状を送り、すでに衣装合わせを済ませ、秋には領主館の窓辺で刺繍をすることになっていた。
嫌だ。刺繍は三針で糸を絡ませる自信がある。
「誤配です」
「宛先は合ってたんだろ?」
「中身を知らなかったんです!」
「中身は縁談だって」
「いま知りました!」
私の人生、本人への配達が最後である。
その日からクリストフさんは、郵便局の前を通らなくなった。
薬舗から西区へ行くなら、局前が最短だ。それなのに彼は市場を大回りし、私が配達へ出る時刻には裏口を使った。ばったり会っても、瞳だけが脇へ逃げる。
リチャード様との縁談を狙う女と話すのが嫌なのだろうか。身分が上がる前から浮かれていると思われたのかもしれない。次には、領主館へ入った私が偉そうに郵便局へ現れ、局員全員の字の汚さを叱り、薬舗には薬を百人分注文して支払いを翌年へ延ばす。
そこまで妄想が進んだところで、昼を食べていないことに気づいた。空腹時の私の未来予測は、だいたい三段目で破産する。
「次便、領主館から!」
郵袋が開き、一通の封筒が仕分け台へ滑った。
生成りの紙。母さんの字。私が押した取扱印。
行って帰ってきた同じ封筒だった。
「縁談が戻った」
「エミリアが戻された」
「まだ行ってません!」
私は封筒をつかんだ。
胸の中まで、差出人へ返送、と赤い印を押された気がした。
* * *
私は封筒を指で弾く。
行きより一枚多い。
裏返せば、一度開かれた糊の端がわずかに浮いていた。中から出てきたのは、母さんの筆跡で埋まった申込書と、リチャード様の短い返書。
娘エミリアとの縁組を、どうかご検討ください。
本人の意思を確認できないため、お受けできません。
私は二行目を三度読んだ。
断られている。私の知らないところで申し込まれ、私の知らないところで、きれいに断られている。
局員の一人が覗き込み、口を丸くした。
「誤配じゃなくて」
「誤縁談だ」
「うまいことを言った顔をしないでください」
私は封筒と書類を抱え、昼の鐘が鳴る前に家へ戻った。
「母さん」
「あら、早いのね」
「私、リチャード様へ申し込まれて、断られていました」
母さんが鍋の蓋を取り落としかけ、両手で挟んだ。器用だ。娘の人生を落としかけた人の手とは思えない。
「もう返事が来たの?」
「届く予定だったんですね」
「違うの、エミリア。まず座って」
「私の縁談なのに、母さんのほうが先に座るんですか」
母さんは半分下ろした腰を戻した。
「あなた、ここひと月で何回、夕食を抜いた?」
「二回です」
「五回よ。机で寝たのは?」
「姿勢を変えて考えごとをしていただけです」
「朝まで?」
不利だ。郵便物なら不足料金を払えば済むが、親子の会話には不足睡眠まで記録される。
母さんは鍋の蓋を握ったまま続けた。
「この家は狭いし、冬は隙間風が入る。あなたのお給金だけで暮らして、私が病気になったら、もっと働くでしょう。リチャード様なら、あなたを安全な暮らしにしてくれると思ったの」
「心配してくれたことは分かる」
母さんの肩が下がった。
「でも、私に聞かずに出したことは別です」
肩が止まった。
「善意に無断署名という種類があるとは、郵便学校では習いませんでした」
「署名は私の名前よ」
「そういう細部だけ正しくしないで」
申込書を卓上に置いた。紙一枚なのに、母さんは鍋より重そうに見た。
「私が食べないなら、食べろと言って。机で寝たなら、寝台へ引きずって。縁談を考えたなら、まず私に聞いて。私を安全にしたいからって、私を抜きにして安全の形を決めないで」
「……ええ」
「次は?」
「先に、あなたへ聞く」
「送る前に?」
「送る前に」
「私が断ったら?」
「送らない」
母さんの文が、急に短くなった。
「ごめんなさい」
鍋の蓋が卓上へ置かれた。
私は返事の代わりに椅子へ座った。母さんは固いパンを薄く切ろうとしたので、その手から取り上げ、二つに割った。朝の残りだ。
「これを食事と数えるから心配されるのよね」
「そうよ」
「いまは母さんが責められている場面です」
「食べながら責めなさい」
それには従った。本人確認の済んだ世話焼きは、だいたい正しい。
午後、局へ戻ると、入口に立っていた局員が真っ青な顔で私へ駆けてきた。
「領主が来てる」
「何を受け取りに?」
「おまえを?」
「だから私は郵便物ではありません!」
窓口の前にはリチャード様がいた。随行もつけず、返送した申込書より穏やかな顔をしている。その隣には、往診鞄を持ったクリストフさん。
私を見た瞬間、クリストフさんの視線が床へ落ちた。
はい、嫌われています。局の床板のほうが私より魅力的らしい。
「勝手に返送してすまなかったね」
リチャード様が言った。
「いいえ。返してくださって助かりました」
「申込書に君の署名がなかった。それに、私はエミリアの字を知っている」
毎週、配達遅延や橋の状態や郵便馬車の車輪について報告を書いている。恋文ではない。まったく華のない筆跡の認知経路だが、今回は私を救った。
「では、本当にお断りに?」
「本人不在の縁談はね。私が今日来たのは別件だ」
リチャード様はクリストフさんへ顔を向けた。
「夜間に御者や町の住民を診てきた働きについて、話がまとまった。領営診療所の主任薬師を任せたい。給金のほか、診療所裏の住居も使ってもらう」
局員たちの口が一斉に開いた。
クリストフさんも開いた。
閉じた。
「……私に、ですか」
「ほかに、夜中の三時に御者の腰へ湿布を巻き、自分の食事代を薬代へ回す薬師がいるなら紹介してほしい」
クリストフさんは往診鞄の持ち手を握り直した。指の節が白い。目の下は、昨日より青い。
「ありがたいお話です。ですが」
「ですが?」
「次の郵便馬車で町を出ます」
私の腹の底へ、硬いものが落ちた。
局員たちの顔が私とクリストフさんの間を往復する。おかげで、私の顔も見なくて済む。親切な職場だ。全員、あとで配達量を二倍にしてあげたい。
「荷はもう積みました」
外を見ると、明朝便の馬車に見覚えのない鞄と木箱が載っていた。
仕事道具と、畳んだ服。人ひとりが町から消えるには十分な量だった。
「任用初日の欠勤は困る」
リチャード様は穏やかに言った。
「まだお受けしていません」
「住居には寝台もある」
「お気遣いなく」
「三食出る」
クリストフさんの喉が動いた。
そこ、迷うんですか。
私が衝撃を受けるべきは退職か、出発か、三食で揺らぐ薬師か。優先順位が多すぎる。
「なぜ、急に町を?」
口から出た声は、思ったより低かった。
「急ではありません」
「私は今日知りました」
「エミリアには関係ありません」
またそれだ。
クリストフさんは鞄を持ち上げ、私の横を通り過ぎた。袖が触れそうになって、彼の腕だけが不自然に持ち上がる。
触れたくもないらしい。
私は返された封筒を握り潰しかけた。
紙が鳴った。
* * *
「紙を一枚ください!」
私が叫ぶと、局員三人が同時に差し出した。こういう時だけ仕事が速い。
返された申込書の裏は使わない。母さんの選択の上へ自分の選択を書くのは、どうにも縁起が悪い。私は局の用紙を一枚取り、仕分け台へ置いた。
長く書けば言い訳が増える。
短く書けば逃げ道が減る。
夕食を一緒に。返事は食べて寝てから。
自分の字で、二行。
返された封筒へ入れ、糊はつけなかった。今度は誰にも中身を隠す必要がない。
戸口へ向かうクリストフさんを追い、彼の前へ回り込む。
「これを」
「領主館への返書なら、局員へ」
「宛先が違います」
私は封筒を指で弾く。
生成りの封筒が仕分け台を滑り、クリストフさんの手元へ当たった。
彼は反射的に受け取った。開く。二行を読む。
読む。
まだ読む。二行しかないのに。
「今夜?」
「今夜です」
「なぜ」
「そこから説明が必要ですか?」
クリストフさんの親指が、紙の端を何度もなぞった。
「リチャード様との話がなくなったから、ですか」
「なくなるも何も、最初から私の話ではありません」
「では、気の毒になって」
「何が?」
「私が任用を断り、町を出るから」
「気の毒な人に夕食をご馳走するほど、私のお給金には余裕がありません」
「僕が払います」
「お金はあるんですか」
「……少しなら」
「三食で迷った人が見栄を張らないでください」
局員の一人が腹を押さえ、隣の局員に肘で突かれた。笑う場面ではない。少なくとも当人たちにとっては。
クリストフさんは招待状を封筒へ戻した。きちんと端を揃える。返すつもりだ。
「行けません」
「どうして」
「荷を載せました」
「降ろせます」
「馬車は待ちません」
「御者さん、あとどれくらい?」
外から声が飛んだ。
「出発は明朝! 痴話喧嘩なら今夜じゅう!」
「痴話喧嘩ではありません!」
「では荷だけ先に行かせるぞ!」
「それはもっと困ります!」
返事をしたのはクリストフさんだった。
局員たちが、ほう、と同じ音を出した。六人いると、ほう、にも厚みが出る。
「クリストフさん」
「はい」
「私を避けていたのは、嫌いだからですか」
彼の口が閉じた。
局員の一人が郵袋を持ったまま止まり、別の一人が取扱印を紙の上で浮かせている。リチャード様は窓口脇へ半歩退いた。逃げ道を空けたようにも、見物に適した位置を取ったようにも見えた。
クリストフさんは私を見ない。
「答えてください」
「エミリアは、リチャード様と」
「その申込書は母さんが勝手に出しました」
「けれど、いずれ似た話が来る」
「どうして?」
「あなたは仕事ができる。字がきれいで、誰にでも公平で、町中の道を知っていて、荷物が重ければ自分で持つ。食事を抜くのはよくないですが」
「途中から母さんが混ざっています」
「僕には何もない」
声が小さくなった。
さっきまで笑いを噛み殺していた局員たちが、口を閉じた。
「薬舗の給金は月によって変わる。部屋も借り続けられるか分からない。夜に診ても代金を受け取れないことがある。そんな人間が、あなたのそばにいる理由はありません」
「理由を決めるのは誰ですか」
「僕です」
「私のそばなのに?」
クリストフさんの顎が上がった。
初めて目が合った。
青い顔。三日眠っていない目元。私を見たまま、逃げられなくなった瞳。
「領主との縁談が正式になれば、あなたがリチャード様の隣に立つのを見ずに済む場所へ行くつもりでした」
「なぜ会わずに済みたいんです」
「分からないんですか」
「人の感情は読めるほうです」
「僕の薬包を毎回拾おうとしておいて?」
「あれは私が近づくと落とすからです。嫌がらせかと思っていました」
「どんな嫌がらせですか」
「紙資源を地面へ」
「好きな人が急に目の前へ来たら、手くらい狂います!」
取扱印が落ちた。
かつん、と乾いた音が局内へ響いた。
クリストフさん自身も、自分の声に追いついていなかった。口を開けたまま、私を見ている。
私はというと、胸の中で配達馬車が三台ほど衝突した。
「誰が?」
「聞かなかったことにしてください」
「宛先不明では戻せません。誰が誰を?」
「エミリアを」
「誰が」
「僕が!」
クリストフさんの手から封筒が落ちた。
拾おうとした彼の膝が、仕分け台へぶつかった。立て直そうとして往診鞄を倒し、局員二人が支え、三人目が封筒だけを確保する。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「顔が白いです」
「生まれつきです」
「目の下は青いです」
「これも生まれつきです」
「昨日より濃く生まれ直しています」
彼の手が震えていた。
指先だけではない。封筒を受け取る腕、息を吸う肩、言葉を押し戻す唇まで。
「いつから寝ていません?」
「寝ています」
「何時間」
「……三日で五時間ほど」
恋の告白が始まる前に、患者が完成してしまった。
「夕食へ行きます」
「いまの話は」
「まだ一行目です。荷造りと失恋を同時に進めないでください」
「失恋は」
「していません。私が返事をしていませんから」
クリストフさんの目の縁から一滴が落ち、頬の途中で止まった。
局員たちは全員、急に郵便物へ顔を伏せた。表裏を逆に持っている人が二人いる。リチャード様まで窓の外を見た。
私は封筒を取り、彼の胸へ押し戻した。
「この二行を先に済ませます。食べて、寝る。話はそのあとです」
「ですが馬車が」
「任用されたなら町に残れます」
「受けるとは」
クリストフさんのお腹が鳴った。
立派な返事だった。
「主任薬師殿」
リチャード様が呼ぶ。
「返答は食後で構わない。住居の鍵は明朝渡す」
「まだ何も」
「任用初日の欠勤は困ると言ったはずだ」
「強引では?」
「君にだけは言われたくないだろうね、エミリア」
「私は夕食へ招いただけです!」
「寝ろとも書いてある」
「別々です! 食卓と寝床は別の場所です!」
局員たちの肩が揺れた。
深刻な告白が、たった二行の配達指示に負けていく。よし。恋心の扱いは分からないが、空腹と睡眠不足なら私にも処理できる。まず生存。情緒は翌朝便。
私たちは母さんの待つ家へ戻った。
「まあ」
母さんは私、その後ろのクリストフさん、彼が握る封筒の順に見た。
「食事を一人分増やして」
「二人分あるわよ」
「なぜ」
「あなたが昼にパンを二つ食べたから、夕食も食べると思って」
娘が一食増やしただけで、薬師一人が追加される計算はおかしい。
だが、母さんは聞かなかった。鍋から湯気の立つ皿を出し、クリストフさんの前へ置いた。肉と豆を煮たもの。豪華ではない。温かくて、匙ですくえば口へ入る。いま必要なのはそれで十分だった。
クリストフさんは最初の一口を飲み込むと、次から急に速くなった。
「ゆっくり食べてください」
「はい」
返事だけして速い。
「噛んで」
「噛んでいます」
「いまの豆、二回でした」
「数えているんですか」
「郵便係ですから」
「関係ある?」
母さんが口を挟んだ。
「ありません」
皿が空になり、パンが消え、もう一杯の煮込みもなくなった。クリストフさんは空の皿を見て、ようやく自分が食べた量に気づいた顔をした。
「すみません」
「食事に謝らないでください」
「代金を」
「任用後の初任給からいただきます」
「任用はまだ」
「では、明日の朝食も借金ですね」
母さんが私を見た。
私は母さんを見る。
「何?」
「いま聞こうと思って」
「何を?」
「クリストフさんを、泊めてもいい?」
約束を守った。ぎりぎりだが、発送前の本人確認である。
「いいです。ただし寝台は私の部屋、私は母さんの部屋、母さんは長椅子」
「私だけ損をしてない?」
「無断申込の手数料です」
母さんは不満そうに口を曲げたが、毛布を取りに行った。
クリストフさんは何か言おうとした。けれど椅子から立った途端にふらつき、壁へ手をつく。
その手を寝台まで引く。指先は冷たかった。
「話の続きは」
「朝」
「でも」
「配達期限を守ってください」
彼は枕へ頭をつけた。
本当に、それだけだった。
呼吸が五つ続く前に、瞼が閉じた。眉間に残っていた皺が少しずつほどけ、封筒を握っていた手も緩む。私は落ちそうになったそれを抜き取り、寝台脇へ置いた。
好きだと言った口は閉じている。
返事を求める手も伸びてこない。
私は灯りを小さくした。三日分には足りないだろうが、まず一晩。恋より先に、人は眠らなければならない。
翌朝、クリストフさんはパンの焼ける音で起きた。
匂いではなく音なのが少し心配だ。寝台から出てきた彼の髪は片側だけ跳ね、襟元は曲がり、昨日までの遠慮深い薬師から品格が三割ほど抜け落ちていた。
「おはようございます」
「おはようございます。よく眠れました?」
「たぶん」
「何時間?」
「九時間」
「合格です」
食卓へ座ると、彼はパンを二つ、卵を一つ、煮豆を一皿平らげた。昨日の速さよりはましだが、私が二口食べる間にパンが一つ消える。
頬に色が戻っている。目元の青みも薄い。匙を持つ手は震えていない。
これなら話せる。
「昨日の続きを」
私が言うと、クリストフさんの匙が止まった。
「忘れてください」
「九時間眠った結果がそれ?」
「考え直しました」
「何を」
「エミリアが同情で僕を引き留めているなら、甘えるべきではないと」
「勝手に別れ話へ進まないでください。まだ交際も始まっていません」
「では始めないということで」
「どうして後ろへ進むんです!」
「リチャード様の申込書が断られた日に、町薬師で妥協する必要はありません」
「町薬師のどこが悪いんです」
「給金と住居が不安定です」
「昨日、両方整いました」
「任用を受けるとは言っていません」
「三食あります」
クリストフさんの視線が、残りのパンへ動いた。
よし、一点。
「診療所裏に住居があります」
もう一度、動いた。
二点。
「夜間に診た人から、払えない薬代を無理に取らなくて済みます」
彼の匙が皿へ置かれた。
三点。勝ちました。恋敵が貧困と寝不足なら、こちらは食卓と寝台で殴ればいい。
「それでも」
「それでも?」
「あなたが僕を選ぶ理由にはならない」
軽口が喉で止まった。
クリストフさんは食卓の木目を見ていた。昨日落とした一滴の跡など、もうどこにもない。それでも両手は膝の上で強く組まれている。
「私が配達帰りに遅くなると、薬舗の灯りを残してくれたでしょう」
「偶然です」
「白湯も?」
「余っていたので」
「雨の日に布を貸してくれたのも?」
「古い布です」
「私が昼を抜いた日は、薬を届けるふりをしてパンを置いていった」
「薬舗の帳簿が合わなかっただけです」
「パンで帳簿を合わせる薬舗は潰れますよ」
クリストフさんの口元が、ほんの少し曲がった。
「私は、あなたを引き留めたい」
彼が顔を上げる。
「領主との縁談が消えたからではありません。最初から私の縁談ではなかった。母さんが書いた申込書ではなく、昨日の二行が私の返事です。あれは私が書きました。私があなたへ渡しました」
「夕食を一緒に、としか」
「二行目もあります」
「寝ろ、と」
「そこだけ命令形に要約しないで」
「では、その先は」
玄関が勢いよく開いた。
「エミリア、寝具はどこへ置くの!」
母さんが入ってきた。
一人ではない。郵便局員四人が、寝具一式と箱を抱えて続いている。残り二人は局を守っているらしい。最低限の職業倫理だけ残した野次馬である。
「なぜ寝具が増えてるの!」
「二人で暮らすなら必要でしょう?」
「母さん、寝具は返事のあと!」
「先に聞いたわよ。運んでもいいかって」
「私にしか聞いてない!」
「だから、いま聞くわ。クリストフさん、ここへ運んでもいい?」
母さんは寝具を抱えたまま、ぴたりと止まった。
約束を守ろうとしている。すでに玄関まで運んでから聞くのは、本人確認として著しく遅いけれど、昨日よりは一歩。いや、寝具一式ぶん前へ出すぎている。
クリストフさんは立ち上がった。椅子の脚が床を鳴らす。
「僕は」
「出た、返事だ!」
局員が叫ぶ。
「まだ最初の二文字です!」
「寝具、玄関を通過!」
「通過させないで!」
「箱も続きます!」
「実況もしない!」
外で馬が鳴いた。
郵便馬車の御者が、クリストフさんの鞄を肩に担いで戸口へ現れる。
「出発時刻だ」
「待ってください」
「待たん。乗るのか、荷を降ろすのか」
クリストフさんは私を見た。
私も見返した。
ここで何か気の利いたことを言うべきなのだろう。私を選んで。そばにいて。好きです。どれも口の中で宛先を失い、舌の裏へ戻ってくる。
母さんの寝具は玄関につかえている。局員たちは箱を持ったまま、少しずつ室内へにじり寄る。リチャード様まで外にいて、診療所の鍵を指にかけていた。
「任用の返事も、まだ聞いていないんだが」
「順番を守ってください!」
「何番目だ?」
「食事、睡眠、告白、任用、寝具です!」
「告白への返事は?」
「私が聞きたいんです!」
クリストフさんが、とうとう噴き出した。
昨夜まで青かった顔が崩れた。片手で口を押さえても肩が揺れ、止めようとするほど笑いが漏れる。
「笑うところですか!」
「すみません」
「謝りながら笑わないで」
「でも、エミリアが」
「私が何です」
「僕より混乱している」
「誰のせいですか!」
クリストフさんはまだ笑いながら御者のところへ歩いた。
胸が縮む。
行くのかと思った。
彼は馬車の荷台へ両腕を伸ばし、自分の鞄を受け取った。次に木箱。胸へ抱え、家の中へ戻ってくる。
局員たちの声が一段上がった。
「荷、玄関を通過!」
「寝具、右へ寄せろ!」
「主任薬師、帰宅!」
「まだ返事を聞いてません!」
クリストフさんは木箱を床へ置いた。結び目へ指をかける。
震えていない。
荷紐がほどける。中から畳んだ服を出し、母さんが抱えていた寝具を片腕で受け取った。空いた手で診療所の鍵も受け取る。
「住居は診療所裏です!」
「ここへ運ぶ分だけです」
「分けるんですか!」
「仕事道具は向こうへ。食事と睡眠は、こちらで相談を」
「相談?」
「本人へ先に聞きます」
母さんが、あ、と口を開けた。
局員たちが笑った。リチャード様も顔を背けた。母さんは寝具から手を離しながら笑い、私は返事を聞き損ねたまま、クリストフさんの緩んだ顔を見上げた。
御者が空になった荷台を叩いた。
「返送扱いでいいんだな」




