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ナポリタン

作者: 星賀勇一郎
掲載日:2025/11/05





その濃い霧は尾根の上で思惟していた。

大きな白いベールの様に山全体を包み込み、木々や谷の声を吸い込みながら、昨日も明日も無い時間を多々酔わせている。


礼司と茉穂の足音もその霧に溶けて、淡く揺らぐ線の様にその稜線に浮かんでいた。


尾根の意識は静かに、二人の存在だけを確かめるかの様にその弱い光を揺らしていた。


「ったく……、こんな霧になるなんて予報では言ってなかったぞ……」


礼司は文句を言いながら、LEDのライトで足元を照らす。

LEDのライトは真っ直ぐに霧の中を照らし、二人の一歩先だけを開いていた。


「確かに、こんな予報は無かったわよ。だけど言うじゃん、女心と秋の空って」


茉穂は少し楽しそうに言って、両手を大きく振って歩いた。


「そんな高い山じゃないのにね……」


礼司は今日の山には反対だった。

出来れば近くのカフェで本でも読んでいたかったのだが、茉穂がどうしてもと言い、無理矢理この山に来た。


「こんな山じゃ、山小屋も無いぞ。この山で遭難とかしたら笑いモノになっちまうぞ」


「遭難なんてする筈ないじゃん。一時間も下れば麓に着くし……」


礼司のライトが少し先を照らすが、濃い霧はその光さえも通さずに真っ白な世界を創り上げていた。


「ねえ、礼司……。見て、あの光……」


礼司は顔を上げる。

真っ白な世界の向こうに丸くぼやける淡い灯りが揺れるのが見えた。

その光は波打ち、霧そのものが呼吸でもしているかの様に湯て続けていた。


「おいおい、何かオカルトの部類じゃないだろうな……」


礼司はLEDライトを足元に戻し、茉穂に言う。


「何言ってるのよ……。本当にそういうの苦手よね……」


茉穂はそう言って礼司の背中を叩く。


「行ってみましょう……。霧が晴れるまで休ませてもらおうよ」


茉穂は少し足を速めて、そのぬかるむ道を歩き出した。

礼司もその茉穂の足元を照らしながら歩いた。

二人が歩く小径は深い霧に溶けて輪郭を失い、世界の時間も空間も忘れ去られたかの様だった。


木々の間に小さな影が動く。

狐か、或いは幻の兎か……。

一瞬の出来事に二人は息を呑む。

影は光に溶け、尾根の思惟が招いた幻影の様だった。

二人の胸に、不意の暖かさと微かな懐かしさが一気に広がる。

その瞬間、白い霧の中の世界は、ただ足音と呼吸だけが存在する静寂な空間だった。


そして、その霧の切れ間に洋館の様な山荘がふわりと現れた。

屋根の煙突から上る煙は、周囲の時間を溶かし、宙に浮かぶ光の破片の様に揺れる。


二人はその山荘のドアの前に立った。


「何か、天空の城みたいに見えるな……」


「うん……」


礼司と茉穂は顔を見合わせると、その扉を押した。

扉を押すと、木の香りと温もりが霧の冷たさを消し去り、現実と夢の境界を曖昧に滲ませていった。


「すみません……」


礼司は中に入ると、蚊の鳴く様な声で言う。

それを見て茉穂は息を吐くと、声を張り上げて、


「すみません」


と言う。その声で山荘の奥から、白い髭を蓄えた白髪の男が出て来た。


「おやおや、いらっしゃいませ……。この霧の中、よく来てくれました」


と頭を下げた。

その表情は柔らかな笑みを浮かべていて、好感が持てた。


二人はその山荘の中を見渡した。

其処は流れていた時間から切り離された空間の様で、外の世界の冷たさや濃い霧は、すべて遠くへ消し去ってしまった様な気持ちになった。


「この霧だ、大変だったでしょう……。どうぞ、お座りください。今、温かいモノでも入れますから……」


そう言うとその白髪の男はカウンターの中へと入って行く。


山荘の中に充満した美味しそうな香りは礼司と茉穂の腹を同時に鳴らした。


「すみません……。お腹減っちゃって……」


礼司は頭を掻きながらその男に言う。


「ああ、はい。じゃあ特製のナポリタンを準備しますね。名物なんですよ。うちのナポリタンは……」


二人はその男に微笑んでテーブルに付いた。

自分たち以外には誰も居ない。

しかも窓の外は濃い霧で何も見えなかった、本当に雲の中にでも浮かぶ天空の城の様だった。


「オーナーさんですか……」


礼司はカウンターに立つ男に訊いた。


「ああ、はい。オーナーと言っても私一人ですからね……。すみません、至らぬところもあると思いますが……」


オーナーは慌ててグラスに水を注ぐと二人の前に置いた。


「ちょっと、ピーマンを取って来ます。裏の畑で作ってるんですよ……」


オーナーはそう言うと、カウンターから裏口へと出て行った。

すると直ぐに戻って来て、手に持った二つのピーマンを洗い、刻み始める。


「野菜も作られてるんですね」


茉穂は微笑みながらオーナーに訊いた。


「麓まで買いに行くのも大変ですからね。此処で作れるモノは何でも作りますよ」


フライパンで炒め始める音がする。

その音が二人の腹をまた鳴らした。

お互いに聞こえたその音に顔を見合わせて歯を見せて笑った。

そしてグラスに注がれた水を飲む。


「お水、美味しい……」


思わず茉穂の口から洩れた。


「此処のお水はね、湧き水なんですよ。凄く美味しいでしょ……」


オーナーはサラダを持ってやって来た。


「ええ、とっても……」


茉穂はオーナーに微笑んだ。

オーナーも微笑み返し、


「サラダも美味しいですよ。これもすべてうちの畑で採れたモノです。季節のモノしか出せませんけど……」


二人は待ちきれず、サラダにフォークを刺す。

一口食べると二人は息を漏らす。


「美味い……」


礼司はじっとそのサラダを見つめる。


「ドレッシングもね、自家製です。よく、売ってくれとかレシピを教えてくれとか言われるんですけどね……」


二人は顔を上げてオーナーを見つめる。


「無理なんですよ。自家製の御酢を使うので、此処でしか作れないんです」


オーナーはそう言うと慌ててカウンターの中に戻って行った。


真っ白な外の霧の粒子の様な湯気の立つ、ナポリタンが目の前に置かれた。

赤いソースが窓から差し込む霧に反射した亜佳里に照らされて、鉄板の上に浮かぶ小さな太陽の様だった。

その香りは霧の香りと混じり、甘く暖かい光を放つ。


二人はそっとフォークでパスタの麺を巻くと、口に運んだ。

舌の奥に広がる熟と甘さが、外の真っ白な世界を溶かすかの様に胸の中に広がった。


「こんな美味いナポリタン……。食った事が無い……」


礼司も茉穂も一心不乱にそのナポリタンを口にした。






窓の外、霧の森の中に影がまた一瞬現れる。

光に溶け、姿を消した影は、過去や未来の記憶が霧に漂っているかの様にも見えた。

茉穂は窓越しに自分たちの記憶が小さな光の破片となって漂うのを感じた。


「コーヒーをどうぞ……」


オーナーは食後のコーヒーを二人の前に置く。


「コーヒー豆は此処では作れませんので、流石にブラジルとグアテマラから仕入れてます。此処で焙煎とブレンドはしていますけどね」


オーナーは二人に微笑む。


「本当はコーヒー豆も作りたいのですが、どうしてもこれだけは赤道から十五度の範囲でしか栽培出来ないらしいのです。あ、砂糖はそちらに、こちらはミルクです……」


とミルクポットを置いた。


礼司は出されたコーヒーを口にした。


「コーヒーも美味しい……」


礼司は目を閉じて呟く様に言う。


「ありがとうございます……」


とオーナーは頭を下げた。






数時間、二人はその山荘で過ごした。

二人とも何杯かのコーヒーをお代わりし、オーナーお手製のパウンドケーキやクッキーも食した。

全てが美味しく、二人はすっかりその山荘が気に入ってしまった。


夕方、山全体を包んでいた濃い霧はゆっくりと溶け、山肌には透き通った光が差し込む。

下山する道ももはや山ではなく、夢の尾根の連なりの様だった。

あの山荘で食べたナポリタンは現実だったのか、幻だったのか、判断が付かなくなっていた。

ただ胸に残る暖かさだけが、唯一の現実として二人を包み込んでいた。


「何か、霧で得した気分よね」


山を下りながら茉穂が言う。


「そうだな……。あんな美味いナポリタンは食った事が無いからな……。どんな高級カフェに行くよりも正解だったな……」


「でしょ、でしょ……」


茉穂は礼司の腕を掴んで嬉しそうに笑った。


二人は家に帰るまでそんな会話を繰り返した。


「ねえ、また行こうよ。あのナポリタンはわざわざ行く価値あるよ」


「そうだな……」

 





翌年、また二人はあの山に登る事にした。

目的は一つであの山荘のナポリタンに再会する事だった。


昨年と違い、濃い霧は無かったが、そのせいか道は迷宮となり、二人の行く手を阻む様に木々も尾根も時間の感覚を失い漂っていた。


「ない……」


茉穂の声は生い茂る木々に吸い込まれ、風も光も二人の足跡を覚えていない。

尾根の思惟は沈黙したまま、山の記憶を守るかの様に二人を見守っていた。


「この辺りだったと思うんだけどな……」


礼司は周囲を見渡すが、その木々たちは沈黙したままだった。


「何で、見つからないの……。そんな大きな山でも無いのに……」


茉穂はその場に座り込み、リュックから地図を出した。


「地図にも載ってないし……」


「あのサイズの山荘なら地図に載ってないのは仕方ないかもしれないけどな……」


「もう、お腹空いたよ……」


茉穂は息を吐く。


「仕方ない……。諦めて下山するか……」


礼司は手を差し伸べて茉穂を立たせた。


二人は諦めて稜線を下り始める。


しばらく行くと、小径を少し外れた所に木を切っている男が座ってタバコを吸っているのが見えた。


「ねえ、あの人に訊いてみない」


茉穂はその木こりを指差した。

そして、


「すみません」


と大声でその男に声を掛けた。


二人はその木こりに去年の山荘の話をすると、男は首を傾げる。


「そんな山荘の話は聞いた事がないな……」


そう言ってタバコの吸い殻を吸い殻入れに入れる。


「そんな筈はないんです。去年、二人で確かに行ったんです。美味しいナポリタンを食べたんですよ……」


「ナポリタン……、ああ、スパゲッティか……」


男は立ち上がって、傍に置いたチェンソーを手に取り、エンジンを掛けた。


「危ねえぞ……、離れてろ……」


轟音の向こう側で木こりの男が言う。


茉穂はスマホを手に取ると、霧の中に浮かぶ様な山荘からの風景を撮った写真を開いた。


「ほら、こんな感じの場所なんですけど……」


木こりの男はしつこい茉穂に痺れを切らし、チェンソーのエンジンを止めて、そのスマホの画面を覗き込む。

その瞬間に木こりの男の表情が変わった。


「そうか……」


男はチェンソーを足元に置くと、


「付いて来い……」


と言って山を登り始める。

そして小径を無言のまま少し歩いて、山を下る。


「こんな所だったかな……」


「わからんが、着いて来いって言われたし……」


突然木々がなくなり、少し広くなった場所に三人は出た。

其処には何かが焼けた跡だけが静かに横たわっていた。

柱や屋根の残骸はその山の時間に溶けて、木々の中の光りの狭間に漂う。

木こりの男の声も、風邪に揺れる木々の音と混じり、遠くから響いて来る様だった。


「この山荘は火事で焼けた……。もう存在しないんだ」


「え……」


茉穂は息を止めてじっとその焼け跡を見つめる。


「もう、十年くらい前の事だ……」


木こりの男の言葉に二人は男の顔を見た。


男は二人に微笑むと、一人来た道をゆっくりと戻って行った。


二人はその場に立ち尽くし、その焼け跡を見ていた。

あの優しい笑顔、ナポリタンの温かさ……、全ては幻だったのか。

それでも胸の奥に残る暖かさは夢の境界を越えて確かに生きていた。


焼け跡の中に錆付いてしまった、あの日ナポリタンを出してくれた鉄板を見付けた。

礼司は座り込み、その鉄板を手に取る。


「茉穂……、これ……」


二人は顔を見合わせた。

そして頷いた。


「間違いないわ……」


二人の心に小さな奇跡が灯った様な気がした。






二人は麓の町に下りて、不思議な余韻に包まれながら、駅の近くの喫茶店に入った。


メニューにナポリタンを見付けるとそれを二人で注文してグラスの水を飲んだ。

あの日の水とは違い、少しカルキ臭い水だった。

二人はその味に苦笑した。


「はい。サラダです……」


その喫茶店のオーナーである女性は二人の前にサラダを出す。

礼司はそのサラダにフォークを刺して口に入れる。

去年、あの山荘で食べたドレッシングとは違った。

茉穂も同じ様に考えたのだろうか、口元を歪めていた。


しばらくすると焼いた鉄板に乗せられたナポリタンが運ばれて来た。

そしてそれは二人の前に置かれた。


二人はそのナポリタンをじっと見つめる。

あの霧に反射する光に照らされた粒子の様な湯気を立てたナポリタン。

目の前のナポリタンはその霧の中の光景と交錯した。


二人は慌ててそのナポリタンを口に運んだ。

それはあの山荘で味わった甘く、温かい光が記憶の中で溶け合った。


「これは……」


礼司は思わず声を出す。


「うん……」


茉穂もコクリと頷いた。

そして二人は一気にそのナポリタンを食べ始めた。






二人はナポリタンを食べ終えるとコーヒーを注文した。

そして直ぐにコーヒーは運ばれて来た。


「あ、お砂糖は其処に。ミルクはこれを……」


と女性のオーナーはミルクポットをテーブルに置いた。


「山に行かれたんですか……」


とその女性は二人に言う。


「はい。去年初めて来て、凄く良かったんで、今年も……」


茉穂は微笑む。


その女性オーナーは窓から山を見て、


「今日は霧も出なくて良かったですね。凄く霧の多い山なので、そんな高い山じゃないんですけど、登りにくいって観光局の人も言ってます」


二人は顔を見合わせるとコクリと頷く。


「あの……、あの山に有った山荘なんですけど……」


と茉穂が女性の顔を見て訊いた。


「ああ、ご存知なんですか……」


女性は二人のグラスに水を注ぐ。


「あの山荘をやっていたのは、私の父なんですよ。火事で亡くなってしまったんですけど……。もう、十年以上前ですけど」


女性はそう言って棚に飾っていた写真を持って来た。

その写真にはあの山荘のオーナーが微笑んでいた。


写真の中のオーナー。

二人が山荘で出会ったオーナーは確かにそこに写っていた。

死者と生者、現実と夢の境界を溶かす存在。

二人は静かに微笑み、そのコーヒーを口にした。


去年、あの山荘で味わったコーヒーの味がそこにはあった。

二人は口元でカップを止める。


「ナポリタンとコーヒーはね、父が拘って作ってたんですよ。ナポリタンの作り方とコーヒーのブレンドの仕方は私が教わっていたので、此処で再現出来たんです。だけど、ドレッシングや山荘の裏で作っていた野菜は受け継ぐ事が出来なかったんですよね……。美味しいって評判だったんですけど……」


二人は微笑んでカップを置いた。


「十年以上前なんですか……。火事って……」


女性オーナーは不思議そうな表情で、コクリと頷く。


「ええ、私が二十歳の時だったので……」


そう言うと思い出したかの様にカウンターの中へと行くと、パウンドケーキを皿に乗せて戻って来た。


「これも父が作っていたパウンドケーキなんですよ……。よろしければ……」


と二人の前に置く。

二人はじっとそのケーキを見つめるとケーキにフォークを入れて口に運んだ。


そのケーキも間違いなく、去年、あの山荘で食べたパウンドケーキの味だった。


「人参のパウンドケージなんですよ。これは私が幼い頃に人参が嫌いだったこともあり、父が私に食べさせるためにこのケーキを作ったんですよ……。今じゃ大好きですけどね」


女性オーナーはそう言って声をあげて笑った。


礼司と茉穂も女性オーナーと一緒に微笑んだ。


隣のテーブルに置かれた山荘のオーナーが微笑んでいる写真を二人はじっと見つめる。


「父はあの山荘が好きでした。この近くに家もあったのですが、山荘に行くと何日も帰って来なくて……、母は外で女作るより性質が悪いっていつも怒ってましたよ。山荘相手じゃ喧嘩も出来ないって」


女性オーナーは笑いながらそう話す。


写真立ての中で笑う山荘のオーナーの顔は満面の笑顔で、後ろに写る山荘に向かって誇らしげに両手を広げていた。


「あの……」


礼司は女性オーナーを見てそう声を掛ける。


「あの……」


茉穂はそれを見て礼司の袖を引っ張ると首を横に振った。

礼司は、茉穂に頷くと、


「あ、いえ……、本当に美味しかったです。ご馳走様でした」


とオーナーに言って頭を下げた。


すると女性オーナーは隣のテーブルの椅子を出して座った。


「あなた方も、霧の中であの山荘に辿り着いたのね……」


とオーナーは言う。

そして微笑むと、


「今までも何人かおられたのよ……。霧の山荘でナポリタンを食べたっておっしゃるお客様が……。もう十年も前に火事で無くなってるのにね。不思議よね」


礼司と茉穂は顔を見合わせた。


「はい……。去年、霧の中で山荘に……」


オーナーはうんうんと頷いた。


「父がね、生前よく言ってたのよ……。霧の日こそ、道に迷う人が居るんだから、山荘は開けておかないと……ってね。霧が出る日は必ず、朝早くから山に行ってたわ」


礼司はじっとコーヒーカップを見つめる。


「山荘で戴いた、お水、サラダ、ナポリタン……」


「コーヒーも、パウンドケーキも、クッキーも……」


礼司の後に茉穂が続ける。


「どれも美味しかったです……」


礼司は茉穂の言葉にコクリと頷き、


「そのナポリタンが此処でも出て来て、本当にびっくりしました。コーヒーも、パウンドケーキも……」


オーナーは目尻に流れる涙をハンカチで拭いた。


「此処で父が生きてるって事になるのかしらね……」


オーナーはカウンターに戻り、クッキーの乗った皿を持って来た。


「あなた方に父が出したクッキーはこれかしら……」


オーナーは二人の前にクッキーの皿を置いた。

二人はそのクッキーに手を伸ばし口に入れた。


「はい……、このクッキーです」


茉穂がそう言うとオーナーは小さく頷く。


「このクッキーは、私が焼いて山荘に置く事にしてたのよ……。これだけは私の味……」


二人はその言葉に優しく頷く。

そして手に持ったクッキーを全部口に入れた。


「父がね、私に、このクッキーは疲れた登山客が喜ぶから、焼いてくれって言ってね。それ以来、あの山荘でも、この店を始めてからも一日も欠かした事は無いわ……」


オーナーはまた目尻をハンカチで拭いた。


日が傾くまで、二人はそのオーナーと話をして、喫茶店を出た。






二人は店を出て振り返りその喫茶店を見る。

そして静かに微笑み、ナポリタンの温かさを胸に抱き、夢と現実が交錯するその町を歩き出した。


尾根の思惟、霧に溶けた光景、幻の小動物、錆付いた鉄板の奇跡、甘いナポリタン……、全てが心の中で、時間や空間の束縛を忘れたまま、柔らかく溶け合う。

二人の胸には、幻想の中の温もりが静かに、しかし、確かに生き続けていた。


「ナポリタン……。また食べに来ような……」


礼司は茉穂に言う。


「うん……」


二人は無人のその駅の改札を潜る。

そして其処からまたその町を振り返る。


もしかしたら、この町ごと、夢なのかもしれない……。

二人はそう思いながら、入って来た電車に乗り込んだ。








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― 新着の感想 ―
とても幻想的なお話で引き込まれました。 そしてナポリタンが食べたくなります……! すべてのメニューがそのまま、というわけではなく、再現できないものはできないというところがリアルでいいなぁと思いました。…
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