彼女
火曜の放課後、河川敷。
私は、堤防の脇に渉の自転車が停まっているのを見つけた。
(ここだ…)
緊張して、ハンドルを持つ手に汗が滲む。
私は、そのまま渉の自転車に並べて、自分の自転車を駐車し、河辺に降りる階段へ向かった。
階段から見下ろすと、こちらに気付いて顔を上げる渉がいた。
河辺を吹く風が、渉の柔らかい髪を揺らした瞬間、私と渉以外の時が止まったような感覚になり、息を呑む。
渉は、夏でも半袖のシャツは着ない。
そして、少しだけ腕まくりをした袖が、もったいぶるように、細く綺麗な手首をちらつかせる。
1年前、出会った時よりも背が伸びた彼のくるぶしが、ズボンの裾から少しだけ見える。
渉自身も、いつもこんなふうに逃げたり隠れたりする。
でも、今日だけは違った。
隠れてしまうから、見つからないようにずっと眺めていただけの渉の姿が、今、私のためにそこにあった。
「ごめん、待った?」
私がそう言うと、渉は「ううん」と首を振る。
階段を駆け降りると視界が開ける。
私たちは、その場に立ったまま、横に並びながらも2人して俯いていた。
(とりあえず、何か話そう…)
そう思い、私は口を開く。
「テスト、どうだった?」
「うーん、あんまりかな」
そう答える渉。
私たちは、対岸を歩く人を眺めながら話す。
「そっか。私もあんまり…ごめんね。変なタイミングで連絡したから」
「全然。気にしないで。…その、ありがとう。来てくれて」
「うん…」
また、少しの沈黙が過ぎた後、渉はこちらを向いて言った。
「えっと、いいかな。言っても…」
私は頷き、渉の顔を見る。
渉は、一度下を向き、大きく深呼吸してから、また私と目を合わす。
「柏木さん、好きです。付き合ってください!」
渉とは思えないくらいの、はっきりしとした声で、彼はそう言ってくれた。
「はい。私も内田くんのことが好きです。よろしくお願いします」
私がそう言うと、渉は息を止めていたのか、大きなため息をついた。
「はぁ〜よかった…振られると思ってた…」
私は思わず「え!なんで!?」と聞き返す。
「今朝、柏木さんに振られる夢を見たんだ」
思ってもいなかった言葉に、私は思わず笑ってしまう。
「そんなわけないよ〜。おかしい」
そう言うと、渉も笑った。
嬉しくて、幸せで、ちょっと恥ずかしくて。そんな時間が流れていた。
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そんな時、ふと渉が堤防敷の上の方に目をやったので、私も振り返る。
するとそこには、うちの高校の運動部らしき人たちがいた。川沿いをランニングするのだろう。
私は咄嗟に「やばい、あっちに行こう」と渉を近くの橋の高架下へと誘導する。
(バレー部じゃありませんように…)
そう願うが、こちらからは何の部活かは判別できない。
「見られたかな…」と渉も心配しているようだ。
「わからないけど、多分大丈夫だよ!距離もあるし、私たちが誰かなんかわからないよ」
私は、そうフォローすると、渉は「そうだね。あー、焦った〜」と胸を撫で下ろしている。
なんだか私は、またおかしくなってきて笑ってしまった。
「ふふ。あの人たちがいなくなるまで、もうちょっとここにいようよ」
「うん。そうだね」と渉も笑う。
渉とこうやって、2人きりでゆっくり話すのは初めてだった。
「ねえ、内田くんは、いつから私のこと好きだったの?」
思い切って聞いてみた。
「えっと、かなり初めから…連絡先を聞いてくれたの、嬉しかった」
それを聞いた私は、嬉しくて飛び上がりたい気持ちを抑えながら「そうなんだ!」と返事をする。
「柏木さんは?自分のこと、いつから好きだったの?」
そう聞かれて、私は嬉しかった。もう好きだった気持ちを隠さずに、渉に伝えてもいい。
「えっと、私はね、入学してすぐ廊下で内田くんを見かけた時。すごくカッコいい人がいるって思ったんだ。一目惚れだったんだよ」
私はそう言いながら、渉の表情をうかがう。
「そうなんだ…でも、ずっとマスクしてるのに、顔わからなくない?」
ごもっとも。
「確かに、最初は顔知らなかったんだけどね。実は、内田くんと仲良くなる前、食堂で一度隣の席になったことがあるんだよ。その時に、マスク外してもカッコいいんだって思ったんだ」
「え、そうなの?全然気付かなかった。でも、自分なんて、そんなカッコよくないよ」
渉は、自分に自信がないんだとこの時、初めて気付いたのかもしれない。こんなにも魅力的なのに。
「そんなことないよ!めっっっちゃカッコいいから!」
私がそう言うと、渉は「そうかな…ありがとう…」と照れくさそうに笑う。
そういえば、私は今日やりたいことをひとつ考えていたのだった。
「…そういえばさ、内田くんがよければなんだけど、下の名前で呼んでくれないかな?私も下の名前で呼んでもいい?」
私がそう言うと、渉は少しだけ驚いて答える。
「え…うん。いいよ」
「本当!ありがとう!」
私は深呼吸をしてから、渉の名前を呼ぶ。
「渉!…ふふふ」
恥ずかしくて、嬉しくて、なんだか可笑しかった。私は、渉を「渉」と呼ぶ人を見たことがなかったから、これは私だけの特別。
「ちょっと恥ずかしいんだけど…」
と照れる渉が、本当に可愛い。
「大丈夫、きっとすぐ慣れるよ。ねぇ、私のことも呼んでみて」
そう言うと、渉は控えめに返事をして私を見つめる。
「郁奈」
そう呼ばれた私は、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
「…嬉しい!ありがとう!渉。これからよろしくね」
「うん。よろしく、郁奈」
今日から渉は、私の彼氏になった。
今日から私は、渉の彼女になった。