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夏の終わりに菫青石を

作者: 浅葱メナ


 海のすぐ隣を、私を乗せた電車が滑る。同じ車両どころか、この列車自体に乗っている人は略おらず、私なんかに心配される程の静けさだった。全開の窓からは、空の端に座る入道雲や、畦道を走る軽トラックが見えた。

澄んだ蒼空に八つ当たりをしたくなる程、私はこの夏にも、自分自身にも嫌気がさしていた。暑さが最高潮に達した、午後二時過ぎ。のどかな町の無人駅に、私は足を下ろした。

「あっつい」

日傘なんて小洒落たものなどなく、薄い半袖シャツ一枚を貫通して、日光が私の肌を焼く。白く、清涼感のあるTシャツの視覚的効果! なんて小手先は通用しない。じりじりと照りつける高い位置の太陽が、私を蝕んでゆくのを感じた。

私は、リュックを肩に背負い直して、駅舎のない駅から出る。乗車券を運賃箱に入れる事も忘れずに。

もう、このうざったい夏とも、足に付き纏う美しき世界ともお別れ。感傷にひたる必要もない。死ぬ前に、こんな真夏に添えられたラムネを飲みたかったけれど、灰になってから墓石にでも掛けてもらおう。墓石の変色なんて、その時だけは忘れて。

風が吹いた。それはまるで、涙が頬をつうと流れた暖かさの様だった。日の光に透けて、甘い茶色に色付いた髪がはためいた。ボブと呼ばれる長さの髪の故、優雅に靡いているというよりも、チアリーディングのポンポンが揺れている様子に近い。

ペチペチと顔にぶつかる髪を掻き分けようと、天を仰ぐ。一歩 先の地面を見ていた目線が一気に引き上げられた。


私の視界に飛び込んできたのは、遠くに霞む山々と、眩くて 見上げる事も憚られる太陽。そして、庭先に立つすらっとした女の人だった。

お姉さんは、如雨露から雨を降らして、それを打ち水としている。クルンと一回りして、水の使い手になった様に笑う人がいた。彼女の着るワンピースは、その動きに合わせて、裾が波を打って広がる。

私は、暑さでがんがん痛む頭を支えながら、虹さえ架かってしまいそうな状景を見ていた。天からの恵みに、鉢植えの向日葵も、鋪装された路に涙を落としている。鈍色のアスファルトに降り立った涙は、排水溝に一筋の線を書いた。

私の仏頂面とは反対に、女の人は優しい笑顔を無機物、有機物に向ける。彼女の美しい瞳が、一歩引いた位置で見ている私の存在を捉える事はない。私は、使い古されたスニーカーを踏み出して真っ直ぐ歩んだ。靴に踏まれた砂利の泣く音が聞こえたが、気にしない。

「お姉さん。今年の夏、暇? もしよければ、夏の間私と付き合ってよ」

暑さのせいだ。頭の中が向日葵畑だったのだろう。

告白するムードも無くして、激しく睨む私を見たお姉さんは、眼鏡の奥に存在する瞳を細め、眉尻を下げて笑った。ぱっつんの重い前髪と、眼鏡という二つの要素が、真面目な印象を私に与える。そして、背中に流れる長い黒髪を、おさげに結ってしまえば、完璧な文学少女だとさえ思えた。

「夏の間付き合うって、いつまでかしら?」

予想外にも、「はい」でも「いいえ」でもない答えに私は驚いた。容赦無く断られ、ついでに如雨露の水をかけられる事さえ覚悟していただけに、拍子抜けしてしまった。喫茶店では、コップに入った水をかけられるのが定番だと聞く。

「そうだな、私がこの夏に飽きるまで。これでどうかな」

生意気で可愛げのない私の声に、お姉さんはクシャッと笑っ た。その無邪気で可愛らしい笑顔が私の胸を抉る。鍵を回して 扉を開ける様に、心臓がくり抜かれた。背丈だけが大人に近づいた様な、混じり気のない笑顔だった。

この夏に飽きた時、死のう。などと考える中学生の私なんかより輝いている。歳を重ねるに比例して、目は死んでいくものではないのか。全くもって愉快ではなかった。

「いいわよ、よろしくね」

挨拶でしかない軽い言葉が、地面に打ち付けられた水と共に蒸発する。馬鹿げた申し出に了承するなんて、このお姉さんが、何を考えているのか分からなかった。他人なのだから当たり前か。

「貴女は名前、なんていうの?」

「倉井理名。ことわりの名前って書いて理名。お姉さんは?」 「私は朝霧有希子よ。朝霧さんとでも、有希子さんとでも、自由に呼んで」

毎秒シャッターチャンスの彼女の微笑みは、私の表情筋にも見習って欲しいもの。私は、彼女の様にうまく笑うことができない。もう少し早く出逢えていたなら、他愛もない話で笑えたのだろうか。

「希望を有する子と書いて有希子なの」

と有希子さんは笑う。紺のワンピースがよく似合う、透き通った肌の彼女に何故だかしっくりくる名前だった。そう感じたのは、「雪」のように白く色艶のいい肌と、「有希」が重なっただけかもしれない。

「そんなに私を見つめてどうしたの?  うふふ、照れちゃいそ う」

有希子さんは、傾げた顔で私を見つめる。眼鏡がずり落ち、 レンズ越しではない有希子さんの瞳に、ようやく彼女が美人だという考えに至った。

私は、この夏が終わる前に全てを終わらせる。この人は、それまでの暇潰しに付き合ってもらうだけの存在。それだけだ。

「私の家に来る? ここが私の家なの……って見れば分かるわよね!? うふふ、ごめんなさいね」

「いや、大丈夫」

私の口は単独行動をしていた。他人の家に入るなんて、何があるか分かったもんじゃない。死ぬとしても、時と場所くらいは選ばせてくれたっていいだろう。

有希子さんは、私の言葉を確認する様に、こちらに視線を走らせる。そして、肩からだらりとぶら下がる私の右腕を引き寄せて、その手の甲に口付けした。私の骨張った指を、彼女の滑らかな唇が塞ぐ。接着した二人の距離なき隙間をじっと見つめると、有希子さんは私の瞳の奥を透かす様に目を細めた。

思わず目を見張る私と、表情を微笑みのまま変えない有希子さん。私の負けのような気がして、自嘲の笑みを零した。

「ね、入りましょう?」

そのまま、有希子さんに手を結ばれ、引かれて木造の一軒家の内側に入る。家の表札には「朝霧」の文字。白い壁と木材本来の色合いが重なり合うその家は、都会に立ち並ぶ高層マンションより魅力的に映った。「摩天楼」なんて格好つけた字面よりよっぽど。


有希子さんに案内されたリビングは、木目がはっきりと描かれたままのフローリングに、レザーのソファが置かれている、ブラウンを基調とした空間だった。

レースのカーテンを通過した日光は、穏やかな陽を床に落と す。クッションがいくつか乗ったソファに二人並んで座ると、 ソファはゆっくりと沈む。

冷房が効いたリビングは、何科何属どこ原産かの観葉植物や、天井に届きそうな程の本棚まであって、私が捨てて来た部屋とは大違いだった。有希子さんは、その辺にあったクッションを腕で抱えて、ちょこんとソファに腰掛けている。

「理名ちゃんって何年生?」

「中学三年生」

「あら、もうすぐ高校生になるの? 今年、受験生なのね!」

受験生、というレッテルを貼られた私の夏休みの過ごし方がこれでいいのか、と私は心の中で嘲笑した。「夏を制する者は 受験を制す」らしいが、受験が訪れない私には、縁もゆかりもないお言葉。

「そう、受験生だよ」

けれどもし。もし、このまま人生を終わらせる事ができなかったら、私を待ち構えているのは、怠惰な私に制裁を与える残酷な受験。きっとそれは、私という存在をこの世から排除するためにあるんだ。

「理名ちゃんは、何の科目が得意?」

何もできない、という言葉が勝手に生成されたが、あまりにも自分が気の毒なので、その言葉は胃の奥まで押し込んだ。先客の昼ご飯に睨まれて、肩身の狭い思いをするがいい。

「国語……かな」

消去法でしかなかった。他の科目は知識がないと、解き方が分からない、何から始めればいいのか見当もつかない。見たことがない式や、知らない単語ばかりで、私は無力。

ああ、今の今までよく毎日ダラダラして生活してこれたなあ。笑えないのに何故か笑みがこぼれた。苦笑の類語を探せば、ジャストフィットする言葉が見つかりそうな、そんな笑顔だった。

「国語が得意って素敵ね! 私は国語が苦手で、どう点数を取ればいいのか悩んでいたわ。数学は得意なのだけれど」

私は勝手に文学少女だと睨んでいたが、実際は違ったようで 有希子さんはリケジョらしい。内心大きなため息をつく私に気づくはずもなく、有希子さんは、リビングテーブルに置かれていたリモコンでテレビをつけた。

もう夕方のニュース時。物騒で馬鹿馬鹿しいニュースが読み上げられていく。流す様に聞くアナウンサーの声の中で、「女子中学生の自殺」という単語の連なりに、私はテレビの画面をじっと見た。粒になって聞こえるそのフレーズに、私は羨望の眼差しを向ける。私も早く……。

「自殺のニュースっていつの時代も多いわよね、自ら死ぬに値する事なんてないのに」

隣に座る有希子さんが、唇を尖らせて切なそうな顔をした。 自然光とブルーライトが作る目の中の光が揺れる。光を吸い込む黒髪と、ほんのり茶味がかった目。

「そうかなあ」

「そうよ、自殺したいと思う原因がもし会社があるなら辞めれ

ばいいし、原因が学校にあるなら早く転校するべきだわ。後か

ら、あの時に死ななくてよかった、と思う事はあっても、あの

時死ななきゃよかった、なんて思う事はできないもの」

有希子さんの言う正論を、私だって頭では理解している。

『死んではいけない』

当たり前の事だ。けれど、そんな事さえどうだっていい、と

思える現実がそこに続く限り、耐えられない人間は死を選ぶん

だ。

「少し疑問に思ったのだけれど、理名ちゃんは家出?」

「違うよ」

どうしようか、もう一層の事全て話してしまおうか。そして、この帰りにでも適当に理由をつけて。それこそ、「この夏に飽きたから」と言ってもう死のうか。 すると、テレパシーやら読心術やらを使ったのかもしれない 有希子さんが呟いた。

「死んではいけないよ」

けれども、正論も所詮は根性論。外野から飛ばされる、野次に近しい言葉は散々聞いてきたんだ。

「有希子さんはさっき、死にたいって思う原因が会社にあるなら辞めればいい、学校に原因があるなら転校すればいいって言ったけどさ。もし原因が家にある場合、どうすればいいの? 私は……どこにも逃げられないよ」

突然、頭が鉛の様に重くなった。首では支えきれなくなって、前に頭が倒れる。浅くなった呼吸が、眼前に迫る胸の動きと口から吐き出す息で感じる。自分が作り上げた沈黙が、私の頭頂にピリピリと当たっては、細かい破片になって散らばる。 口から出入りする空気の流れが益々速くなっていく。

いつの間にか、自分の頭を元の位置に戻す事もままならなかった。床に広がるラグと接する靴下の繊維が、じわじわと体重を支えている。床に頭から墜ちる一歩手前だった。

「理名ちゃん、ひとまず息を吸って、そしてゆっくり吐いて」

有希子さんの声がなんとか耳に届いた。息を詰まらせながらも息を吸う。頭が内側から叩かれた様に痛い。靄がかかった頭と、吐き気を伴った不快感を拭うタオルも雑巾もなかった。頭の天辺から足の爪先まで、じっとりと脂汗が取り囲む。

有希子さんの膝に誘われて上体を横に倒す。有希子さんの指 が、乱れてくしゃくしゃになった髪を梳かし、私はゆっくり息を吐いた。

呼吸が釣り合った。

「落ち着いたみたい、よかった。麦茶飲む?」

起き上がった私は、声を出す代わりに、少しは軽くなった頭を動かして肯定の意を示した。

有希子さんは冷蔵庫から取り出した麦茶と、無色透明なグラスをテーブルの上に置く。澄明な麦茶が注がれる際に生まれた気泡が、浮かび上がっては消える。

怠い両手を伸ばしてコップを受け取ると、覚束ない運びで口元に持っていった。熱っぽい体の中心を通る麦茶が感じられた。

有希子さんは、私が麦茶を飲む姿を見るだけで、何かを口に出す事はなかった。嫌われ者の沈黙が私たちの元にやって来たが、この沈黙を私たちは受け入れる。

「私……私ね、どこにも居場所がないの」

有希子さんは、続きを促す様に相槌を打つ。心拍数みたいに速い呼吸を宥める為、私は深呼吸をした。意識せず、貧乏揺すりをしていた。震えに近いものかもしれない。家族でも友人でも、他人でもない有希子さんに、私は事の発端から話し始めた。

「私が中学一年生の時、友達と喧嘩をしたの。喧嘩なんてよくある事だから、私は何とも思っていなかった。けど、その子は、愛想をつかした様に、無視をしたり、私が謝っても冷たい態度を取り続けた。ずっと仲が良かったその子の事だから、その行動の理由は分かっていた。私に飽きたんだ。

私と違って、彼女は明るい子だったから、いつの間にか仲良くなっていたクラスの女の子と行動を共にする様になった。

対して私は、毎日独りぼっちで話し相手もいない。私も友達を作ってみようとクラスの子たちに話しかけた。初めは、私に笑いかけてくれていた子もいたけれど、何を話せばいいか分からず、沈黙が続く。あの子がいるからいいや、とクラスメイトと話すことをしてこなかった付けが回って来たのだと思った。話していてつまらない私と、仲良くしてくれる女の子なんていなかった」

「一人って辛いわね……」

「辛いよ、結構。だけど私は、一人でいることよりも、友達だっ たあの子の楽しそうな笑い声が聞こえるのが辛かった。だから私は耳を塞いで、あの笑い声が聞こえない様に教室の隅でうずくまって。視界にあの子が入らない様に目を閉じて。それでもあの子の笑い声は聞こえ続けた。

あの子の笑う声を、隣で聞いていた頃は、好きだったはずなのにね」

私は、できるだけ明るい口調で話そうと、強張った口を上げて笑った。有希子さんの、優しくも真剣に私を見る瞳に、目の奥の熱さを感じる。堪えなきゃ。大して重い話でもないのだから。

「私が想像していた以上に、浅はかな中学生を理解したよ。

もう、あの子とはもう仲良くできない。好きだったのに。自分に言い聞かせても、私はその子と仲直りする夢を見ていた。私だって、あの子の事が好きだなんて思いたくない。私はずっと、今起きている状況全てに目を瞑って、過去の多くの思い出を見ていたから。

もしかしたら、仲直り出来るのかもしれない、と心の何処かで思っていた。もしかすると、今でも。私は、そんな有りもしない希望に縋っていた。

でも、現実は目の前に広がっていた。見ての通りだった。

ただひたすらに、教室内でその女の子が幸せそうに笑っているのが怖かった。その女の子だけではなく、同年代の女の子も怖い。学校という場所にさえ行けなくなった」

「学校に行けていないのは、その時からずっと?」

「二年間ずっと。でもいいの。案外楽しいんだよ?」

言い切った後になって自分で自分が何を言っているのか、理解ができなかった。後悔しているに決まってるではないか。学校に行かず、かといって家で勉強をするわけでもない。挙げ句の果てに、自分の未来に希望を持てずに、自ら自分を捨てようとしているというのに。

九分九厘の事実に一厘の嘘を混ぜたって意味はない。黒の絵の具には何色を加えても全て飲み込まれてしまう様に。けれど 私は、目の前の人を大袈裟に心配させたくないと思ったのだろう。なぜそう思ったのかは分からない。精一杯の見栄なのだろうか。

「学校に行かなくなっても、まだ家には居場所があったから私 は、不登校になった途端に、死にたいと思い始めたわけじゃないんだよ。

家にさえも、私の居場所は無くなった。私ね、家でも誰とも話さないんだ。あれ? やっぱり一人って辛いね」

足元ばかり見ていた視線を上に向けてしまった。目に張り付いた涙の層の奥に、有希子さんの柔らかい表情があった。そこに人がいて、私の話を聞いてくれている。その安心感が涙の生産を加速させた。そして、表面張力でなんとか零れずにいた涙が、重力に沿って頬を辿った。

「……夫婦仲は良かったはずだったの。けど、私が学校に行かなくなってから、何かが変わったように、二人は喧嘩ばかりするようになった。私が自分の部屋に籠っていても、夜な夜な聞こえてくる父の怒声と、母の癇癪のような叫び声。皿や花瓶の 割れる音や、テーブルに置かれていた物が雪崩の様に落ちる音が私の耳に響いた。

私が自分の部屋から一歩でも出ようものなら、『お前がそん なだから、理名が学校にも行かない人間になったんだろ!』『子育てしてこなかったあなたが口出ししないで』『だから子供は要らないって言っただろ』と、罵詈雑言がさらに鋭利な物となって人を刺す。私の生きる場所は、自室だけになった。

安心できる場所は、家のどこにもなかった」

手の甲で目を強く擦った。粒が線となって手の甲に伸びる。

それでも拭いきれなかった涙は頬へ落ちる。

「私は、死んだほうがマシなんじゃないか。私は、無価値な人間なのではないか。両親が喧嘩に使う言葉が全て私に向けられた言葉だと思うと、死にたいなんて思う他になくて。だからそんな事を、何度も何度も考えて。

例えば、学校で嫌なことがあったら親に相談する、勉強に不安があるなら塾に通いたいと親に相談する。それができなかった。この状況を誰にも相談できない。ただ一人で、打破できそうもないこの状況に疲れた。

『明るい未来が待っている』とか、『もう少し辛抱したら可能性はある』とか。そんな事は、どうでもよかった。今。今のこの状況を誰かに助けて欲しかった。明日さえ、こんな生活をする事に耐えきれないの」

私は、有りっ丈の言葉を吐き出した。食道を逆流してゆく醜い言葉たちは、塩酸を纏って、口に繋がる通路の壁を燃やしながら、外の景色を拝みに口から飛び出す。言葉だけではない。目からも鼻からも涙が止まらなかった。声を上げて泣いてしまいたかった。喉から噎ぶ声が滲み出る。

「理名ちゃん、今までよく頑張って来たね。偉いよ」

有希子さんは、ぐしゃぐしゃに泣き噦る私の背中を優しく撫でていた。有希子さんからティッシュを受け取ると、涙と鼻水を拭った。

「学校に行けなくなってから、全てが狂い始めたんだよ。なん で、私が学校を休まなきゃいけないの? どうして、私があの人から逃げて、学校の授業も受ける事ができないの? どうして私の人生が、あんな奴のせいで、ぐちゃぐちゃに壊されなきゃいけないの? なんで? なんで……」

憤怒と悲哀が調合された声は掠れてフェードアウトしていく。有希子さんの美しい瞳なんて見たくなかった。あの人達の私を蔑む様な瞳しか、この世には存在しないと思いたかった。

そんな世界の方が洗練されていて、醜いのに。

「理名ちゃんが夏に飽きるまでは、私と一緒にいてくれるのよ ね?」

首を縦に目一杯振る。嗚咽に飲み込まれた私は、呼吸困難に抗って肩で息をしていた。肺に入った冷たい空気と、熱い体の境目がぐらりと揺れる。

「毎日私に会いに来て。理名ちゃんの相談相手になるし、折角の夏休みだから色んな事をしましょう」

私は、悲劇のヒロインになりたかったわけではない。どんなことがあっても、学校に行かないという選択をしたのは私ではないのか。その結果として、家にも居場所がなくなったのも、全て私が原因なのではないか。

本当は分かっていた。責任転嫁するあてなど何処にもなく、

自分だけが悪いのだと。死にたい理由は、私が全て作り上げた。

「理名ちゃん。希望は有るわ」

「私の人生、とっくに終わってるんだよ!」

私は、棘のある大声をあげていた。自分がした事に気づき、口を手で覆ってももう遅い。こんな矢を有希子さんに浴びせたかった訳ではなかった。

なんて、両親の怒鳴り声にそっくりな事だろう。自分自身に吐き気を催すほどに、不快で堪らなかった。罪悪感は、私の胸を待ち針で劈く様に責め立てた。

この待ち針の持ち手は私だ。

「もし、理名ちゃんに家から逃げたい、という意思があるのな ら、私とここで一緒に住みましょう」

私は、虚ろな目を最大限に開いて、有希子さんを見上げた。 窓の向こうに見える空は、雲という邪魔者を排除しようと躍起になっているのに、有希子さんの顔は、太陽も雲も影もない様子。 哀れみだろうか、同情だろうか。そんな上辺だけのものではない。私という人間を見て、私の命を絶やさないために出た言葉なんだ。

私の頭を埋め尽くす「死ぬ」という唯一の選択肢に、有希子さんが与えられる、これもまた唯一の選択肢をくれたんだ。

「私、逃げてもいいの?」

有希子さんの両手が、涙で湿気った私の手を包んでいた。触れた皮膚の表面から、有希子さんの柔らかい熱が伝導する。さっきまでは、なんとも思わなかったはずの、有希子さんのすべすべした手の平の触感が肋間まで伝わる。胸が、心臓がうるさかった。

「もちろんよ。『逃げてはいけない』なんて言葉、誰が言い始めたのかしら。全力で逃げて生きましょう」

大学生の爽やかさが、入道雲の成長速度を追い越した。このシーンに効果音をつけるなら、氷がカランと音を立ててソーダ水に沈む、照りつける太陽の下の涼、といった感じの。

「でも、私の両親が了承してくれるはずがない」

有希子さんの暖かい眼差しに頷いて、恨む人はいないだろう か。真っ先に浮かんだのは両親だった。どんなに罵られ、見放されても親であることに変わりはなかった。毎日互いの悪口を言い合う二人でも、それでも。ただの他人である有希子さんと一緒に住むなんて世間体も良くない。やっぱり希望なんて無かった。

「二人で、ご両親に挨拶をしに行きましょう。断られたら、一緒に高飛びしてもいいわよ」

真面目な表情から一転、花盛りの生娘は冗談交じりに咲う。夏に花開く日輪草や、むくげの鮮明な花弁を持っては名状しがたい、有希子さんの笑みが放つ香は、春先に咲く菫をありありと思い出させた。

「どうして、そんな事までしてくれるの? 見知らぬ中学生に」 「理名ちゃんは私の恋人、なのでしょう?  何でもしたいと思うのは、当たり前の事よ」

砂糖でコーティングされた、そのまま口に含むには甘ったるい言葉を、有希子さんは言いのけてしまった。有希子さんの口はキリッと結ばれている。まるでこの空間だけ切り取って、絵画にしたのかと錯覚するほど美しく、静かに添えられた眼鏡さえ彩りを加えた。

すっからかんの心から恋が滲み出した。容量に収まり切らず に、溢れた思いが身体中を駆け巡る。

「有希子さんって幾つ?」

「私は二十歳よ。あら、急にどうして?」

二十歳の有希子さんと十四歳の私。私は、八月三十一日で十五歳になる。五、六歳差なんて、ハンディキャップにもならないだろう。今の私は、美しい有希子さんに釘付けで、他のものが何も目に入らない。……参ったな、こんなはずじゃなかったのに。

「特に理由はないよ、気にしないで」

有希子さんはそう? と口にする。真夏にイメチェンさせた様な、涼しげな声。心の底に沈殿した不安や憂鬱が僅かに取り除かれた気がした。嫌いな夏を過ごすだけの体力が回復した様な感覚。不意を突くように、喉の奥までクーラーから吐き出された冷たい空気が入り込む。

貴女と出逢えてよかった。

有希子さんは、有言実行する人だった。おくゆかしく、可憐でありながら、有希子さんの中心に通る太い芯がそうさせている。有希子さんと二人で倉井家に向かうのに、そう日数はかからなかった。

色付いていたかさえ思い出せない世界も、瞬きすれば、青い

空と白い雲が夏を演出していた。有希子さんに少しずつ勉強を教えてもらいながら、現実に限りなく近い非現実を過ごしていた。

やはり、有希子さんが私のために、何故ここまでできるのか、私には分からなかった。「恋人」だからといっても、有希子さんに私への思いはない。

私の荷物が至る所に置かれた「朝霧」の表札が飾る家。ガラスのコップに注がれた、朝霧家特製の麦茶の味にも慣れた頃だった。昼食を終えた二人は、秒針の音が大きい空間にいた。

「今日の夕飯は、午後六時くらいかしら。今日、近くの公園で夏祭りが開かれるの。理名ちゃんがよければ、夕飯をそこで一緒に食べましょう?」

喜楽の歯車が、動き出す音が聞こえた。なあなあで重ねていた日々によって失われた潤滑油が差されたからだろう。

「うふふ、笑った! 理名ちゃんの笑顔、可愛いわ」

有希子さんに言われて、初めて自身の笑顔に気づいたが、戸惑う事はなかった。貴女に出逢えたのだから、こんなに幸せな事はない。

「あら、理名ちゃんどうしたの? 私、変な事言ったかしら」 「有希子さん、そんな事ないよ。ただ……有希子さんが可愛いなって思って」

言われ慣れているのか、有希子さんはうふふ、と微笑を浮かべて私の言葉を受け流す。ちょっと待ってて、と言うと有希子さんは、小走りで奥の扉に吸い込まれていった。

リビングの中心に私一人。真夏のはずなのに、春を潜り抜けた冬が足元を通り過ぎた気がした。あったはずのものが欠けた寒さ。有希子さんが腕の中に包んでいたクッションを手で掴み、両手で抱える。この香りが柔軟剤のものか、有希子さんのものか熟考したが、取り敢えずバフっと顔を埋めた。

行く当てのないこの思いの未来を考えると、心臓が爆発しそうに痛い。

直後。有希子さんの透き通る様な声が聞こえた。少し高くて可愛さもあるけれど、か細い声やぶりっ子の声は違う色。音に色がついた世界で、貴女の声を観てみたい。

「理名ちゃんごめんなさい! 待たせてしまって」

戻って来た有希子さんの腕の中には、千歳緑を基調とした浴衣があった。ビターな浴衣の空に、花火が咲く様に淡い空色の花が描かれている。

「この浴衣、理名ちゃんにどうかしら? 前に通販で買ったのだけど、少し裾が短くって。理名ちゃんにこの深緑、とっても似合うと思うの」

配色や、大振りの花のデザインなど、どれを取っても大人びた浴衣だったが、惹かれていた。有希子さんから渡されたその浴衣を、姿見の前で合わせてみる。すると、信用できない言葉ランキングに確実にランクインするであろう言葉が、有希子さんの口から大砲のごとく放たれた。

「とってもお似合いよ、理名ちゃん! サイズもぴったり! 私が持っていても着られないから、理名ちゃんが貰ってくれないかしら?」

「いいの!? でも有希子さんに悪いよ……」

デクレッシェンドでもついているのか、声は小さく細くなっていった。こちらの心が僅かに揺れたところを、店員或いは有希子さんは見逃さない。

「見て。この髪飾りも、その浴衣を買った時にね、合わせて買ったものなの。折角だからあげるわ!」

それはポンポンの様な、小さめの花で飾られたピンだった。有希子さんは、「何処につけるとかわいいかしら……」と両の側頭部にピンを当てて、首を傾げている。

有希子さんの厚意に甘え、私は浴衣と髪飾りのどちらも付けて夏祭りに行くことにした。不相応な程にシックな浴衣が、私を下から見上げている。理由は分からないが、口元が緩んだ。

「有希子さんも浴衣を着て行くの? 有希子さんの浴衣姿見てみたいな」

「持っていないけれど、夏祭りは楽しめるから問題ないわ」

「今からでも買いに行こうよ! 私、お年玉なら持ってるからさ……」

咳をする時みたいに口元に手を当てて、有希子さんはニヤリと笑う。眼鏡のフレームがキラリと光る。有希子さんのドヤ顔が決まった……!

「中学生の理名ちゃんに買ってもらう訳にはいかないわ! お年玉は、自分のために使いましょ」

格好がついたわけでもないセリフを言い終えると、有希子さんは玄関から私の方を振り返った。

「早く行きましょう、理名ちゃん! そうだわ、浴衣を理名ちゃんに選んでもらおうかしら」

廊下を小走りで通り抜ける。有希子さんの開けたドアから は、世界が随分と美しく見えた。庭で生きる向日葵と挨拶を交 わして、私と有希子さんは海沿いの駅まで歩く。電車の本数は 決して多くない。だが、夏祭りの開催時刻には間に合う、との 事で、二人は目を見合わせて笑った。

乗客を乗せて、電車は海岸線をなぞる様に走りだす。窓からの景色は相変わらず青一色で、舞う柔軟剤の香りを軽く鼻に通して、心地よい揺れに身を任せていた。今までは悪だと思っていた、手持ち無沙汰な時間が続く。

こんな長閑な時間が続けばいいのに。そう思えるようになった。

右から左へ、絶え間なくスワイプされていく景色も、アハ体験の動画の様に少しずつ変わっていく。空は青いまま、地上に生えた建物達の高さが増していく。動画の終了を告げる車内アナウンスに、ドアは慌てて大口を開ける。

有希子さんに引かれて下車すると、駅前にはショッピングモールが一匹、こちらを見下ろしていた。私は有希子さんの陰に隠れて、人感センサーを備えた口に近付いた。

自動ドアはひらかれた。

涼しいを超えて、もはや寒ささえ感じる空調のモール内を歩いた。服飾売り場でこの気温ならば、お肉売り場はどれだけ寒いのだろう、と鳥肌の腕をさする。遠くからも見えたマネキンの方へ進むと、特設の浴衣コーナーが作られていた。

「こんなに種類があるのね! 淡い色が流行っているのかしら」

有希子さんは、マネキンに着せられた浴衣をうっとりと眺めていた。紫陽花に牡丹、百合と朝顔。花に詳しくない私のなかで、名前と顔が一致している貴重な花が目白押し。

並ぶマネキンの中で、一際目を引く浴衣があった。白の上に、薄紫で小菊が描かれており、上品かつ可愛らしい有希子さんにぴったりのものだった。小振りな花が散りばめられたその浴衣は、私の視界の真ん中で止まったまま動かない。

「理名ちゃん、どれがいいかしら? どれも素敵で迷っちゃう わ」

「これなんてどうかな。とっても似合いそうだなって思う」

有希子さんは、私が指差した生首以下のマネキンを、きょとんとした様子で見ていた。無防備にも、口がいくらか開いている。 「不思議。その浴衣に気がつかなかったわ。きっと無意識に好みの色に目を向けてたのかしら」

「有希子さんが紫、あまり好きじゃないなら他のも見ようか。沢山あるし、色々見てみる?」

「いえ。私、この浴衣に惹かれちゃった!! 買ってくるわ!」

有希子さんは、ほくほくの笑顔で薄紫色の浴衣と、合わせる帯、下駄の三点セットを購入した。有希子さんの腕の中で抱かれる浴衣と共に帰還し、「有希子さんと行く! ドキドキ ショッピング! 浴衣編」は幕を下ろした。

夕暮れ時。いつもの様にソファに腰をかけると、窓の外から時折聞こえるひぐらしの鳴き声と、二人の衣擦れの音だけが、静寂の中で細やかに時間を紡いだ。

「そろそろ、出かける準備を始めましょ」

不意に有希子さんがそう言うものだから、私は脊髄反射で頷 く。

「浴衣に着替えてしまいましょう。着付けができなかったら呼んでね」

有希子さんが、そわそわした足取りで洗面所に姿を消したのを見届けた後、私は浴衣に手を伸ばした。ひんやりした空気をいっぱいに吸い込んだ浴衣に腕を通すと、くすぐったくて普段着を着るのとは違う、緊張感に似たものを感じた。腰紐を締めると、自ずと背筋が伸びる。

形を整えて、帯を結ぶという段になった時、浴衣を着た有希 子さんがドアの裏からひょこっと顔を出していた。

有希子さんは、漆黒の艶やかな長髪をポニーテールとし、美しさにハツラツさをトッピングしていた。黒縁の眼鏡も、夏風邪で何処かへ飛んでしまったらしい。何というか、その。 ────見惚れてしまった。

「ごめんなさい、コンタクトを入れるのに手間取ってしまって……」

髪飾りから褄先まで、有希子さんの凛とした美しさを助長していた。有希子さんという存在が愛おしかった。この世界は、誰中心に回っているのだろう? 今の私は即答できる。確実に有希子さんだ。

「理名ちゃんの浴衣姿、とっても似合ってる! やっぱり私の目に狂いは無かったわね」

「大袈裟だよ。それはそうと、有希子さんの浴衣、綺麗な色だ ね。有希子さんは、やっぱり紫が似合うと思った。眼鏡を外した有希子さんも可愛い。ポニーテールにしてるのも全部、全部 可愛い」

「うふふ、ありがとう。理名ちゃんは沢山褒めてくれるから、 私ったら調子に乗ってしまいそうだわ! 理名ちゃんは、あと帯を結ぶだけね。私が帯を結んでもいいかしら!?」

私が反応するよりもずっと素早く、有希子さんは、私の背中に手を回して帯を腕の下を通した。浴衣に纏う柔軟剤と同じ香りが、ふわりと鼻をくすぐる。そして、あっという間に完成した。

「これも付けましょう、髪飾り!」

有希子さんは丸菊のヘアピンを手に取ると、耳にかけた髪を留める。これで完成と思われたが、有希子さんが編み込みをしたらさらに可愛くなるわ! と張り切って、私の味気なかったただの短髪が、美容室の紹介ページに載せられた写真の髪型の様になってしまった。丸菊の髪飾りも、耳元でその存在を主張する。

「じゃあ、理名ちゃん行きましょう!」

相変わらず、私の手を引く有希子さんに恥じらいの様子は見えない。分かっているけれど有希子さんは、私の事を好きではないんだ。なのにどうして、あの時申し出を受け入れてくれたのだろう。やはり、有希子さんの考えている事が分からなかった。

「何を食べようかしら! 焼きそばとか、りんご飴……。理名ちゃんは何を食べる?」

二人は、暑さの抜けない外の世界に出る。今はまだ明るさを取り繕っている空も、目を離した隙に真っ暗になる。

有希子さんを置いて、こんなにも美しい世界から離れるのは勿体無いと思えた。この夏を追憶する時に、できるだけ多くの事が記憶されているように願う。

「私は、たこ焼きとか……あと、ラムネが飲みたい」

「いいわね! ラムネ、私も飲みたいわ」

煉瓦の敷き詰められた路を横並びになって歩く。憎いほどに快晴。炙れ者の雲も、明日にはお仕事ができますように。

「有希子さんは、お酒を飲んだりしないの?」

「あまり飲まないかしら、飽きちゃった。二十歳になったばかりの頃は、自分がどれくらいお酒に強いか気になって、よく飲んでいたけれど」

二十歳になって、まだ半年も経っていないのにね、と口元に右手を添えてクスッと笑う。

「有希子さんの誕生日っていつ?」

「三月二十一日よ、いつか祝ってね」

有希子さんは、普段と変わらぬ顔で前を見ている。有希子さ

んは、私の未来が当たり前にあるかの様に口にした。夏の様に

暑苦しく慰める事もなく、冬の様に私を突き放す事もしない。有希子さんは春の様な人だった。ありきたりだから、有希子さんには言ったりしないけど。

 暫く歩くと、この町の住人が次々と入って行く公園があった。遊具が詰まった楽しげな公園ではなく、広い敷地をふんだんに利用した広場の様なもので、出店が軒を並べて連なっている。

「賑わっているわね」

有希子さんの言葉が煙に薄れるほど、公園内から幸せな声がこちらまで届く。存在感が薄れていく太陽に気づくものはない。私も、甘くて香ばしく、少し焦げた屋台の香りに胸を弾ませていた。 「どこから並ぼうかしら。理名ちゃんは焼きそば、食べられる?」

「私、麺類苦手」

「あら。もしかして、ラーメンとか素麺とかも苦手? 冷やし中華の美味しい季節なのに……。そうなのね……」

この僅かなやりとりで、有希子さんが麺類の支持者という事が分かった。薄暗い空に有希子さんが共鳴する。

有希子さんの熱い願望により、ラムネが売られている屋台に並ぶことにした。決して口に出したわけではないが、私の氷水の中に並べられた瓶への眼差しに気づいていたのだろう。

私が自分の分のラムネ代を払おうとした時には既に遅く、私は有希子さんから、キンキンに冷えたラムネを受け取ることしかできなかった。

「ラムネを飲むのなんて、久しぶりな気がするわ」

そう言いながら有希子さんは、焼きそばの屋台をロックオンしていた。有希子さんが焼きそばの屋台に並ぶ間に、私は隣の綿飴の作られている露店に足を傾けることにした。

無意識に有希子さんを見つめる。財布を握りしめて、前の列の隙間から焼きそばが作られる鉄板を見ようと、ぴょこぴょこ跳ねている有希子さん。私は初めて、自身の目でポートレートを撮影する事ができると知った。

その麗しい姿に人の影が伸びる。有希子さんに話しかける不穏な輩が、視界の真ん中を貫いた。有希子さんの肩に手を置き、何やら楽しげな様子。ここからでは何を話しているか聞こえなかったが、しばらくすると有希子さんに笑いかける陰どもは消えた。

私が屋台のおじさんに百五十円を渡すと、出来立ての綿飴と引き換えてもらう。まだ並んでいる有希子さんに後ろから駆け寄ると、そっと声を掛けた。

「有希子さん」

「ん、なあに?」

「さっきの人達って誰?」

振り返った有希子さんは、頰を膨らまして明後日の方向に視線を向けた。悪寒が背とシャツの狭間を走っていった。瞬きの仕方でも忘れてしまったかの様に、有希子さんの表情の変化だけを睨んでいた。

私からは決して、卑しく見苦しい嫉妬なんて見せたくない。 気にしない、という風に笑ってみようにも、わざとらしくて辞めた。遠足に疲れて、ベビーカーをせがむ園児の不貞腐れた顔の様に歪むのが分かる。

「私が高校に行っていた時の同級生よ。気にしないで」

有希子さんが笑ってそう言うなら、信じるしかなかった。有希子さんが笑っている姿は嫌いじゃない。むしろ、彼女の笑顔が好きというか。有希子さんが私に向けて笑ってくれるなら、 私はそれでよかった。

この夏を楽しめたらいいな、死ぬのは先延ばしにしてもいいから。こんな事を考えられるようになったのも、有希子さんのおかげだろうか。

「綿飴買って来た」

ほんのりピンクに色づいている綿飴をモフモフと頬張ると、夢も希望もない「砂糖の味がする」という感想が浮かんだ。野菜嫌いの言い放つ、「草の味がする」と同窓生のワード。

「美味しそう! いいわね」

「食べる?」

戯れ言のつもりだった。有希子さんは髪を掬い上げて耳にかけると、私の手の上で浮かぶ雲に歯を突き立てた。私の口内で溶けるザラメ糖と、雲の形を保つ空気中の綿飴。私の口の中に在る味を有希子さんも含んでいる。

「美味しいわ、ごちそうさま」

有希子さんは、口の端についた白い綿を舌で拭うと、私の雲の塊をぼんやり眺めていた。物足りなさそうな有希子さんに見つめられながら、私が綿飴に齧り付くと、大きく釣れた綿が私の鼻や頰に付いてしまった。

ザラメが溶けて顔がベタベタになる未来しか見えない。どうしよう、ハンカチとかウェットティッシュなんてない。

「わっ、大変」

有希子さんは、私の顔についた大きな綿の束をとると、物欲しそうな顔を私に向ける。何が言いたいか、分かってしまう私が憎い。有希子さんの指に挟まれた綿飴は、触れた処から熱に負われて蜜となり、指の傍に沿って新たな飴細工を形作る。

「舐めてもいい?」

鼻と頰の違和感も忘れて、光沢零れる有希子さんの艶やかな指に頷いていた。撫子色がちろりと口から出て、彼女自身の指を流離う。私も縮み、色の濃くなった綿飴の残りを口に詰め込んだ。

有希子さんが人差し指にキスする姿が視界の端に見えたが、上擦る心を顔には出さない。熱っぽい頭もきっと沈みかける夕陽のせいだから。

代金と引き換えに、焼きそばを手に入れた有希子さんとベンチに座る。いい匂いを放つたこ焼きや、イカ焼きの屋台が目の前でもくもく煙を吐いていた。

ラムネで乾杯。炭酸の抜ける音と、瓶とビー玉とがぶつかる軽快な音が夜を切り裂いた。炭酸を喉に通しながら、視界の限り続く屋台の群れを見ていた。 有希子さんが焼きそばを食べ終わったら並ぼうか。酸素濃度の薄い夏祭りの雰囲気も、案外嫌いではなかった。この夏祭りの混乱に乗じて、今日くらい暴食してもいいかな。

晴れ・散文

「有希子さんは、どうして私の告白……っていうかお願いを受け入れてくれたの?」

「あの日、朝の情報番組の占いコーナーで、『一位は牡羊座のあなた! 普段はされないようなお願いをされちゃうかも? 思い切ってオーケーしてみよう!』って言っていたの」

有希子さんが、何を言っているのか理解するのに数秒かかった。朝の……? 牡羊座? いや、それは関係ないか。「有希子さんが何を考えているか分からない」と感じていた事は、案外間違ってはいなかったのかもしれない。この方は、何も考えずに「いいわよ」って言ったのか。……本当に、そんな理由だけで動けるのだろうか。

「占いのおかげで、理名ちゃんと出会えたのだから、万事オーケーだわ」

有希子さんは、軽快に笑う。笑うと目がなくなるとか、えくぼができるとかチラリと見える八重歯だとかが、私の網膜上に鮮明に像を結ぶ。可愛い。

けれど、それ以上に有希子さんが分からない。目の前の笑顔を以ってしても、それすら虚構に見えるほど、急に怖さを感じた。有希子さんの本心が見えない。

「本当は、どうして?」

有希子さんの優しい笑顔が崩れてしまわないか、と口に出した後になって心配したが、それは杞憂に終わった。だが、笑顔に隠された表情が見える事もない。

「どうして……そうね。理名ちゃんの顔を見た時、既視感があったの。顔のパーツや輪郭というものに対してではなくて、きっと表情に。高校生だった頃の私が頭をよぎったの」

有希子さんは、美しい白の裏側を隠すように笑う。引き攣った笑顔。私の目にはそう映った。

「嗚呼、この子は死にたいんだ。と分かってしまって」

初めから、有希子さんは知っていたんだ。知っていたと言うと、予言者の様に思えるけれど、彼女自身の経験則だった。そして有希子さんは、私に居場所をくれた。高校生の頃の有希子さんに何があったか、私には分からない。これ以上踏み込む事を、今は拒んでいる様に見えた。

「有希子さん、ありがとう。今、私生きてるからさ」

「私、理名ちゃんと会えてよかったわ。とっても夏が楽しいも の」

そこに、有希子さんへの恐怖はなかった。物憂げな目元と、口角を上げることさえ諦めてしまった薄い唇。貼り付けた笑顔も好きだけれど、ちゃんと人間なんだと感じられるこの表情も好きだ。

向き合って有希子さんを見る。有希子さんの優しさに「好き」は乗っていない。有希子さんが持っているものは、厚意であって好意とは別物だ。小学校の授業であっただろう、同音異義語とかそんなものが。

「どうして有希子さんは、私の事が好きじゃないのに、私に付き合ってくれるの?」

「理名ちゃんも同じでしょう? 楽しそうだと思ったもの」

「……最初はそうだったけど。有希子さんは、恋人にする様な事も私にしてるもん」

有希子さんが目の前にいるのに、伝えられる筈なのに言葉が出てこない。私の好きは貯まる一方。

「私は貴女が好きだから、この関係は終わらせたい」って? 違うだろう。私が有希子さんに伝えたいのは、私の思いだけではなくて。

「理名ちゃんの反応が可愛いんだもの。意地悪したくなっちゃ う」

頭の中で渦巻く、「可愛い」の言葉。だが、考えなければならないことはそれではない。

この夏に飽きた時まで続く、不安定な関係。もし、秋の向こうの季節まで生きたいと思ってしまったら、この関係はいつ終わるのだろう。秋風が立つと共に終わる関係も悪くない。その時、私の恋心が冷めていなくても。

有希子さんが纏う、烏羽色の髪に触れてみたい。しなやかな腰に抱き付いて、有希子さんを困らせてみたい。私は、もう有希子さんがこんなにも。

「私、有希子さんの事が好きだから。夏に飽きたりしない」

私は、決して有希子さんから目を逸らさなかった。結局のところ、中学生からどんなことを言われても有希子さんが私を見る事はない。真剣に創り上げた言葉であっても、戯言に過ぎない。

有希子さんは、やっぱり涼しげな表情のまま、私を見続けている。上向きの睫毛が、地面に水平になった。有希子さんは、軽く目を細めて言葉を選んでいるように見えた。

「私にとっては、妹ができたみたいな感覚なの。私に中学生を好きになる趣味はないから、ごめんなさいね」

一刀両断されてしまった。分かっていた事なだけに、泣きたい衝動も沸かない。それでもこれ以上の関係を持ちたいと思ってしまう私は強欲だろうか。それが大罪であったとしても、私の死と引き換えに見つけた初恋を叶えたいと願わせて。

「知ってるよ。有希子さんに伝えられたら、それだけで十分」

嘘とは、時に人を傷つける。この嘘が傷つけた相手は私だった。私の思いは伝えた。もう一つ言うべきことは「私のことを好きになって欲しい、いつか」と。私の口は、冷蔵庫で冷やされて固まったゼラチンの様に開かない。こじ開けようとつついてみても、これ以上崩れてしまうのが怖くて、強く触れることはできない。

「……そうね、今の私と同じ年になった時にでも、考えてあげるわ」


有希子さんらしくもない、傲慢に嘲ける笑顔。鼻先で笑う有希子さんは、顎に手を当てて私に秋波を送った。私の背筋を通る避雷針に雷が落ちた。

「それってつまり……」

「その時までは、私と一緒に生きて」

この言葉、有希子さんがどこまで考えて言ったのかは分からない。軽く口にしていた言葉だったのかもしれない。けれど、この時浮かべた有希子さんの表情は、そんな甘い意志のもとで口から出た言葉ではない事を表していた。

その時までに、有希子さんに好きになってもらえたら。

「いいよ。私が二十歳になった、その日には────」

あの夏が終わる。秋が過ぎて、冬が明ける。春が来て、また夏に移りゆく。

そして、今年も夏が終わろうとしていた。今日は夏の終わり、八月三十一日。私の誕生日というおまけ付き。二十歳になったからといって、何かが劇的に変わるなんてことは勿論ない。

けれど、私にとって、こんなに訪れるのが望まれた誕生日はないと思った。

「何年前の事になるだろう」

 有希子の細い指が、折り曲げられていくのを目で追いかける。

「五年前みたいよ」

 私が中学三年生だった、五年前の夏の日。私は、貴女と出逢った。私は、視界の隅まで色鮮やかに覚えている。足元から広がる五年という月日は想像以上に長くて、あっという間だった。

「あの日のこと、覚えてる?」

「もちろんよ! 初対面で理名に愛の告白をされたもの」

「なんか違う様な気もするけど。そうしたら、今日の約束は覚えてる?」

「覚えて……いるわ、もちろん。忘れる訳ないもの」

恥ずかしさに押し潰されそうな有希子の表情は毎秒変わり、 七変化みたいだった。有希子の得意だった愛想笑いはもういない。こんなにも愛おしい存在を目の前にして、真っ直ぐ立てている自分を褒めたいくらいに、ひざの笑いが止まらなかった。

緊張してる? まさかね。

「有希子、私と結婚してください」

二年前に追い越した目線から、片膝つく。あの時見ていた視点よりも低い位置から、有希子を見上げた。手のひらには収まりきらないリングケースを開けると、中央には、深いすみれ色の宝石が覗く指輪が一つ。

「もちろん」

「私から、嵌めてもいい?」

純情に差し出された有希子の左手の薬指に、私は接吻する。

石鹸の苦い香りが鼻腔まで届いた。ひんやりと心地いい左手を 引き、私の頰に添える。

有希子は、右の手の甲によって口元を隠し、流し目を私に向けた。惚れ惚れするほどに艶く髪は枝垂れ、柳腰まで連なる。

なよやかな薬指に指輪を通すと、有希子は赧らめる顔を弾かせ て笑った。

「とっても綺麗ね。この宝石ってなんていうの?」

「菫青石っていう宝石。三月の誕生石なんだって。うん、サイズも有希子にぴったり」

有希子は、可愛らしい目を頻りに瞬きさせて指元に見入る。

やっぱり有希子の笑顔が好きだ。こんなに美しく、清らかな笑 顔を守る為に私は五年間。私には十分過ぎる笑顔だ。

「有希子、可愛い」

ほんのりと頰にチークを乗せて、目線を逸らす有希子の横顔を見ていた。黒縁の眼鏡で、顔がよく見えないのが何だかもどかしい。 「三月の誕生石と言っても、いくつかあるわよね。どうして菫青石にしてくれたの?」

「……色。そう、色だよ! 有希子には紫が似合うと思って」

理名らしいわ! と有希子は堪えきれずに笑った。私もつられて笑みを零す。貴女と出逢ってから再び笑える様になった。

私は、あの時有希子と逢ったから好きになったわけではない。別の場所で逢っていたとしても、きっと有希子の事を好きになっただろう。けれど、あの時あの場所にいなかったら出逢う事すら叶わなかった。

詰まりは、有希子は私にとっての「菫青石」とでも言おうか。口に出すのはやめておこう。失笑し、私が子供であるかのように、頭を撫でる有希子が想像できてしまうから。

「好きだよ、有希子。世界で一番好き。二番も三番も全部有希子にあげる。私が好きになったのは、有希子の固い決意が見える瞳だよ。私は、有希子の全てを愛してる」

今日の有希子の服装は、初めて逢った日のものとは別物だが、紺色のワンピースだった。月のない空に散らばる星達では 少し光束が足りなくて、うっすらとしか見えない有希子の表情。


「理名は、私なんかには勿体無いほどなのに。理名が昔の約束なんて捨ててしまっても、理名があの時生きるという選択をしてくれたなら。それで良かったはずなのに。私のことを好き、なんて言う物好きな理名が私も好きよ。私のこと、好きになってくれてありがとう。私も、理名の事を愛してるわ」

六つの大罪に取り残された一つの大罪は、五年前から私を陰から眺めていた。そんな事はどうでもいい。浮き彫りになった色を指先で深く愛でよう。

私は、有希子のなめらかな頰に手を滑らせて引き寄せる。膨らみのある頬骨の弓をなぞる私のてのひらに、有希子は目を細めつつ甘い嬌声を零す。長い睫毛がそっと蓋をする瞳は閉じられていた。

「綺麗だね、有希子」

天に伸びる睫毛の連なりを、アイシャドーを塗る様に指の腹でなぞると、外に出し損なった空気を飲み込む音が有希子の喉頸から染み出た。

私は、グロスが引かれた夜桜の花弁を口で塞いだ。有希子と同じ様に、私も目を閉じる。どちらのものか定まらない熱が二人の境を均してゆく。有希子の諸手が私を内側に込めて、脊柱を秘めた私の路地裏に手を置いた。有希子の引き寄せる腕に従って私は、全てを包容する胸元に躍り込む。

気がつくと、今し方まで合わさっていた口は離れていた。有希子の眼に視線を置くも、有希子は唇を逸らす。日常的にお預けされる犬に、今だけは共感してしまった。熱に侵されてしまってこんがらがる頭を、有希子がほどき整える様に触れた。

菫青石をあしらった左薬指が、私の大罪の一つを扇情するも、有希子の声が私の動きを止めた。

「私、理名と出逢えてよかったわ。八方美人にしか振舞うことのできない私も、少しは自分を好きになれたから。なんでも笑って誤魔化してしまう私の悪癖も、理名の前では本当の笑顔に変わっちゃうから」

有希子の、色をつけるとすれば若草色になるだろう声が、私の耳から入り込んで踊っている。

「理名と出逢ったあの瞬間、私は笑ったの。愛想笑いで飾ったりせず、私を真っ直ぐ見る人を知った。私だけが知る記憶かもしれないけれど」

夜空を閉じ込めた菫青石を私に翳した有希子は、そう。正にあの日、初めて視線が合った時の様に、眉尻を下げて笑った。

「永遠に大切にするわ!」


アイオライト 和名「菫青石」

石言葉……人生の道標・貞操・愛を貫く 角度により色が変わる多色性が特徴。三月の誕生石。


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