第288話 崩れ落ちるエミル
暴力的な眠気がエミルに襲い掛かる。
意識を強制的に刈り取るようなそれにエミルは必死に抵抗するが、すでに意識は途切れ途切れとなっていた。
(だめだ……僕がヤブランを守らなきゃ……)
ヤブランと共に隠れていた部屋でエミルはついにシャクナゲに見つかってしまった。
さらにもう1人、黒髪術者の男が挟み撃ちをするように立ちはだかっている。
そして部屋の外にも2人の黒髪術者が見張っていることをエミルは感じ取っていた。
こんな危機にこそ自分の身の内に宿っていたはずの黒髪の女の力を借りたいと切望するエミルだが、その存在は今や微塵も感じ取れない。
(ヤブランを助けたいのに……)
エミルは何も出来ない自分を歯がゆく思いながら、それでもヤブランを守るために必死に立ち上がろうとした。
だがその時、シャクナゲが手に持っていた白い香炉から立ち昇る煙をフッとエミルに向けて吹きかけたのだ。
その煙を吸い込んだ途端、ギリギリで堪えていたエミルの意識がプッツリと途切れ、その場に崩れ落ちるのだった。
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「ふぅ。何とかなりそうね」
シャクナゲはホッと安堵して息をつく。
床に倒れているエミルはシャクナゲの用意した香炉『白昼夢』によって深い眠りに落ちた。
あらかじめ食事に薬剤を混ぜて与え続けていたエミルにだけ睡眠効果の出る煙を吐き出す香炉だ。
こうなるとシャクナゲが他の香炉を使わない限り、簡単には目を覚まさない。
シャクナゲは苛立たしげにヤブランを睨みつけると、拳銃の銃床でその頭をガツンと殴りつけた。
「あうっ!」
ヤブランは悲鳴を上げて倒れ込む。
その姿を見下ろしてシャクナゲは言った。
「私に恥をかかせるなんて悪い子ね。あなたのような子は一族の恥だわ。エミル君を誘惑して連れ出すだなんてまるで売女ね。はしたない」
そう言うとシャクナゲはヤブランの脇腹を遠慮なく蹴りつけた。
「うぐっ! ゴホッゴホッ……」
ヤブランは咳き込みながら苦痛に顔を歪めて、床の上で縮こまる。
そんな彼女の様子にシャクナゲは少しだけ溜飲を下げたように微笑んだ。
「あなた……黒帯隊のショーナ隊長に命令されて裏でコソコソ動いていたのでしょう? いやらしい子だわ。その辺りは拷問できっちり吐き出させてあげるから楽しみにしていなさい。まあ今は時間がないから後にするけど」
そう言うとシャクナゲはヴィンスに合図をする。
ヴィンスは棚に置かれていた長めの手拭いを細く引き裂くと、それでヤブランの両手首を後ろ手に縛り上げた。
「立て」
ヴィンスはそう言ってヤブランを引き立たせる。
しかしヤブランは痛みに顔をしかめながらシャクナゲを睨みつけた。
「シャクナゲ様。エミルはあなたの玩具じゃない。オニユリ様もあなたもあまりにもひどいです。エミルも同じ人間なんですよ!」
「黙りなさい!」
シャクナゲは怒りに任せてヤブランの頬を平手で張った。
その容赦のなさにヤブランの唇は切れて鮮血が滲む。
頭を強く殴られた後に力いっぱい頬を張られ、ヤブランは眩暈を覚えた。
すぐに意識が遠くなる。
(エミル……)
懸命に意識を保とうとしたが、ヤブランは敢えなく気を失った。
シャクナゲはヴィンスが引き裂いた手拭いのもう半分を手に取ると、それを猿轡のようにヤブランに無理やり噛ませてその口を塞いだ。
「目上の者を口汚く罵るその口は閉じておかないとね」
そう言うとシャクナゲはヴィンスにエミルを担ぐように言い、代わりに自分がヤブランの腕を引っ張った。
「さあ天空牢に戻るわよ」
シャクナゲがそう言ったその時、城内にいくつもの警笛が鳴り響いた。
ついに敵襲が本格化したのだと知り、シャクナゲはヴィンスと顔を見合わせる。
「……行き先変更よ。ヴィンス」
シャクナゲはそう言うと気絶したヤブランをヴィンスの部下に担がせ、彼らを引き連れてその場を後にするのだった。
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「すまないね。こいつは片付けさせてもらうよ」
モグラの穴でオニユリとの一騎打ちに勝利したジャスティーナはモグラの男からの手当てに感謝の意を伝えると、立ち上がって横たわるオニユリの遺体の元へ向かった。
モグラの男は思わず顔をしかめる。
「遺体は片付けてもらわねば困るが、今はやめておけ。その体では……」
そう言うモグラにも構わずジャスィーナは、体のあちこちに銃撃を受けて体中包帯だらけだというのに平然とオニユリの遺体を担ぎ上げた。
「いや、私にはまだやることがあるんでな。ゆっくり休んでいるわけにはいかないんだ」
そう言うジャスティーナにモグラもさすがに呆れたように溜息をつく。
「……死体が2つになると困るんだがな」
そう言って立ち上がるとモグラはジャスティーナを先導するように歩き出した。
「付いてこい。比較的簡単に地上に出られる道を案内してやる」
そう言うモグラに感謝してジャスティーナは地下道を進み続けるのだった。
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城壁から数百メートル離れた人気のない茂みの近くに1台の馬車が止まっている。
その馬車の幌の中、荷台の上には両手両足を縛られ、口を布で塞がれた若き王国兵が転がされていた。
彼は両目を見開き、恐怖に震えている。
その馬車のすぐ外では5人の赤毛の女たちが茂みの中に身を隠していた。
王国兵を脅し、王国軍の馬車の中に潜んで王都目前に近付いたまでは良かった。
しかしさすがに遠目に見える城門の検問の厳しさに彼女らは馬車を早いうちに方向転換させ、最も人気の少ない場所を選んで停車したのだ。
「ここまで来たはいいが、城壁の周りは見張りだらけになっているな。見つからずに侵入するのは無理だぞ」
そう言って苛立たしげに舌打ちを響かせるのはネルだ。
彼女は無数の篝火が焚かれて夜の闇の中に浮かび上がる王都を前方に見据え、拳をボキボキと鳴らした。
「強引に突っ込んで片っ端から敵をぶっ殺し、壁を上って街の中へ入ろうぜ」
「無茶ですよ。壁まで到達できたとしても、壁を上るのには一定の時間が必要です。その間に包囲されてしまえば万事休すですよ」
そう言うエステルにネルは苛立って食ってかかろうとするが、それを察知したエリカに睨まれてつまらなさそうに肩をすくめる。
エステルは努めて冷静であろうとして周囲を見回した。
(あの包囲網の中を強引に突破するのは危険過ぎる。ネルの言う通り強行突破したら、この5人のうち2人あるいは3人は死んでしまうだろう。そうなれば残った人数で王都に入っても出来ることはタカが知れている。どうにかこの5人全員が無事に王都に入れる方法はないだろうか。何か抜け道のようなものは……)
何とかして王都侵入の足掛かりを掴もうと必死に頭を捻りながら、エステルは周囲に目を凝らしていた。
そんな彼女の目が捉えたのだ。
前方数十メートルのところにあるちょっとした小さな岩場で人影が動くのを。
エステルは茂みの中でさらに頭を低くして小さく声を発した。
「西側の岩場に誰かいます。皆、声を出さないで下さい」
その言葉に他の4人も頭を低くして警戒しながら、岩場の方へ目を向けた。
確かに岩場に動く人影が見える。
そして……この5人の中で最も視力の優れたネルが不思議そうに呟きを漏らした。
「おい……あれ、赤毛の女だぞ」
ネルの言葉に皆が茂みの中から目を凝らす。
他の4人は暗闇の中でネルのように色の識別までは出来なかったが、人影が体格の良い人物であるということは分かった。
「まさか同胞……なぜこんなところで?」
眉を潜めるエステルの横でネルの動きは早かった。
彼女は小刀で自分の髪の毛を十数本切り取ると、矢筒から矢を取り出してそこに結び付ける。
ハリエットが思わす見咎めて言った。
「何をするつもりなのよ。ネル」
「確かめるんだよ」
そう言うとネルは皆が止める間もなく、赤毛を結び付けた矢を弓に番えて茂みの中から放つのだった。




