第285話 『妻の矜持』
王国領。
王都のすぐ近くの検問では、王国兵らが行き交う者たちを厳しく調べていた。
そこに一台の馬車が差しかかる。
「負傷兵の搬送じゃ」
御者台で手綱を握る初老のローマンは検問の兵士にそう伝える。
兵士らは荷台を検めるが、確かにそこには3名ほどの負傷兵が横たわっていた。
すでに引退しているが、かつては王家の重臣であったローマンは若き兵士らに言い聞かせるように話す。
「彼らは王妃殿下の家系に連なる家の者たちじゃ。勇敢に戦っての負傷なので、しっかり王城で治療をしてやりたい」
王妃ジェラルディーンの実家であるウォルステンホルム家は王国最大の大貴族である。
だがその家系は末端の分家に至るまで細分化されており、分家の中でも次男坊や三男坊らは家督から漏れて跡継ぎにはなれない。
そうした者らの多くは軍に所属して将校となる。
だが彼らは腐っても貴族であり、軍部でも出世が早い割に安全な任務を任されるのだ。
万が一、負傷などしようものなら手厚く治療を受けられる。
「了解した。王城前の検問を免除する」
ローマンの話を聞いた王国兵は検問免除の札を彼に預け、馬車を通した。
王国兵らは知らない。
その馬車に本来であれば乗るべきではない3人の人物が乗っていることを。
馬車はそこから2時間ほどの距離にある王都へ向けて一路進み続けるのだった。
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「王城に不埒な輩が侵入したとの報告を受けました。王妃殿下はすぐに避難を」
兵の報告を受けた王妃ジェラルディーンは落ち着いた表情ですぐに指示を出す。
「シャクナゲ以外の公妾たちや子供たち、婦女たちを全て退避させなさい」
この王城にはいざという時に王やその家族たちが城外に逃げるための秘密の地下道が用意されている。
ジェラルディーンの命令を受けて、城内の女子供たちが慌しく廊下を行き交い始めた。
ジェラルディーンは息子と娘を乳母らに任せて自身は最後まで臣下たちの避難を見守る。
彼女には矜持がある。
王国の大貴族ウォルステンホルム家は国を守る大黒柱であり、王妃となった今も自分が国や臣下、民らを守り導く立場であるのだという誇りをジェラルディーンは失っていない。
それだけに夫のジャイルズを骨抜きにして国の実権を握ろうとするシャクナゲをここまで増長させてしまったことを悔いていた。
自分がもっと早くからシャクナゲの増長を抑えるために動いておくべきだったのだ。
公妾1人に慌てふためく王妃と周りから見られることを恥じて、妻として泰然としていることを優先させた自身の失策だと今なら思う。
「王妃殿下」
ふいにジェラルディーンは背後から声をかけられて振り返る。
そこにはまだ10歳くらいの幼い黒髪の少女の姿があった。
その顔にはうっすらと見覚えがある。
「あら。あなたは確か……洗濯係をしている……」
「黒帯隊補佐員のアニーです。王妃様にこちらを」
そう言うとアニーはふっくらと柔らかな手拭いをジェラルディーンに手渡す。
ジェラルディーンは怪訝な表情でそれを受け取った。
別に手拭いを使うことは無いと思ったその時、2枚の手拭いの間に一通の手紙が入っていることを彼女は知る。
そしてアニーに目を向けるが、黒髪のその少女はペコリと頭を下げてその場から去っていった。
ジェラルディーンは他の者たちから見られぬよう手拭いの間の手紙を見る。
それは黒い蜜蝋で封された手紙であり、黒帯隊の誰かからの手紙であることを示しているのだった。
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「これは……」
アニーという少女から受け取った手紙を、ジェラルディーンは自室の化粧室で開封した。
それは黒帯隊のショーナ隊長からジェラルディーンへ宛てられたものだ。
ショーナから直接自分に手紙が届けられるなど、それ自体が今まで一度もないことであり、何か尋常ではない出来事が起きているのだとジェラルディーンは理解した。
そして彼女の目はその内容に釘付けとなる。
その顔が怒りに染まった。
「この国は……あんな白髪女に好き勝手にされて落ちぶれていい国じゃない」
怒りを吐き出してジェラルディーンは手紙を強く握った。
その手紙に記されていたのはシャクナゲが行ってきた数々の悪行だった。
すべてショーナが自身の能力で調べ上げた事柄だった。
ただ自分にはそれらを裏付ける証拠を得る権限がないとも手紙には記されていた。
それをジェラルディーンの力で得てシャクナゲを排斥し、王国の在るべき姿を取り戻して欲しい。
それがショーナがジェラルディーンに手紙を書いた目的だった。
「あのショーナ隊長がそんなに忠義に厚い女とは思えないけれど……これはシャクナゲを失脚に追い込む千載一遇の好機だわ」
ジェラルディーンはそう言うと避難はせずにある場所へと向かった。
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夜も遅い時刻だと言うのにジャイルズ王はいまだ玉座の間に滞在していた。
兵士らからの報告を受けるためだ。
ここのところ軍議の連続で睡眠時間も削られている。
王の顔は一目でそれと分かるほど疲労と心労の色を滲ませていた。
王都はここのところ不穏な動きが続いている。
王城にも不埒者が侵入してきたという報告を先ほど受けたばかりだ。
王妃や公妾らを初めとする婦人や子供たちはすでに退避を始めている。
しかし王はこの王城を守るべく玉座に座り続けていた。
「共和国領との境界線でブリジットと交戦中のウェズリー副将軍閣下はいまだ苦戦中との報を受けております」
「北の港町ヘキサではクローディア率いるダニア軍が港湾の船倉を占拠し、我が軍の出港機能は失われました。街の南側で留まった我が軍との睨み合いが続いております」
「共和国の北の港町メンデルよりさらなる大船団の出航が確認されております。ヘキサへ向かっている様子です」
良くない報告ばかりだ。
ジャイルズ王の眉間の皺は渓谷のように深くなっていた。
さすがに疲労困憊の様子の王を見かねた大臣らが王に仮眠を勧める。
人知れずある種の禁断症状が出ている王は素直にそれに従い、玉座の間を辞した。
(シャクナゲ……シャクナゲの胸で休みたい……)
ヨロヨロとした足取りで自身の寝室に向かったジャイルズ王だが、寝室の扉を開けて思わず目を見開き足を止めた。
寝室の中にいたのは王妃のジェラルディーンだったのだ。
いつもいるはずのシャクナゲではなく、妻がそこにいることに驚いて王は眉をひそめた。
しかし夫が何かを言う前にジェラルディーンは先んじて言葉を発する。
「あら。夫の寝室に妻がいることがそんなに驚きですか? あなた」
「いや……そなたがいるということは……何か火急の用かと思ってな」
「そんな顔をしないで下さいまし。今さら同衾を迫るつもりはありませんわ」
そう言うとジェラルディーンは厳しく冷淡な顔付きで言った。
「今夜は妻としてではなく、ウォルステンホルム家の代表として陛下にご諫言に参りました。最近の陛下の御振る舞いには少々、いえ……大変心配をいたしております。何のことか分からないとは仰らないで下さいね。妻の目は誤魔化せません」
ジェラルディーンの迫力にジャイルズは思わず息を飲んだ。
王国最大貴族出身の彼女には誰よりも大きな後ろ盾がある。
それは王であるジャイルズとて無視できないものだ。
「あなたがここでシャクナゲとどのような行為に耽ろうとも、それは王としての権利であると私は弁えております。しかし……これだけは見過ごせません」
そう言うとジェラルディーンは懐から一枚の黒い紙を取り出した。
その紙の表面には薄く糊が塗られている。
細かい埃を取り除く清掃用具だった。
ジェラルディーンはそれを夫の使う枕に当てて、そして剥がす。
黒い紙の表面には……白い粉がわずかに付着していた。
それを見たジャイルズは絶句して顔を青ざめさせる。
その唇が震えながら必死に言葉を紡ぎ出そうとしていた。
「そ、それは……」
「小麦粉……などと苦しい言い訳はしないで下さいね。すでにシャクナゲに関していくつもの看過できない事案を私はこの手に掴んでおります」
そう言うとジェラルディーンは狼狽する夫の目を見据えて決然と告げる。
「陛下。私は貴族会議の開催を要求いたしますわ」
貴族会議。
まさかこの局面で妻からその言葉が出るとは思わず、王はますます顔を強張らせる。
それは国の大貴族たちが一堂に会し、王を交えて国政について話し合う場だ。
この会議で決定されたことは、王でも簡単には覆すことが出来ない。
「な、何を言う。今は戦時中だぞ。そんな場合では……」
「ええ。もちろんそれは弁えております。戦が終わった後、という意味ですわ」
「この戦はしばらくは続く」
「いいえ……この戦はおそらくもうすぐ終わります」
確信に満ちた態度でそう告げる妻に、ジャイルズは呆然と立ち尽くすのだった。




