第253話 『白昼夢と悪夢』
【エミル。ありがとう。もうそろそろ1人でも大丈夫ね】
黒髪の女の声が聞こえたような気がしてエミルはふと目を覚まし、ベッドの上で身を起こした。
鉄格子の外には見張りの衛兵らが眠そうにあくびをしながら立っている。
まだ夜中のようで外は闇に包まれていた。
エミルは自分の胸に手を当てる。
(夢を見終わった……この後どうなるのかな)
エミルは黒髪の女との約束で、数週間に渡って彼女の人生を夢で見続けた。
それは彼女という人間の一生を描いた物語を見ているようだった。
それも今夜で全て見終わったのだ。
もう明日の夜からは彼女の夢を見なくなるのだろうか。
そう思ったエミルは自身の中にいるであろう黒髪の女に語りかけた。
だが、不思議なことにその存在は感じ取れない。
以前に彼女の力を借りてすさまじい体の力を得た後も、後遺症のように彼女の存在を感じ取れなくなったことがある。
だが今はその時とは違う。
たった10年ちょっとしか生きていない彼の人生の中で、常に感じられた腹の底の黒い澱み様なものが綺麗さっぱり消えてしまっている。
まるで罪人が罪を懺悔したことで心の錘を手放したかのように。
おそらくこんなにも彼女の人生の全てを他人が知ることはなかったのだろう。
エミルに全てを見せたことで、彼女の中に渦巻いていた悲しみや恨み、寂しさといった負の感情が一気に薄まっていったのかもしれない。
(あの人は……少しでも楽になったのかな)
これまでに見た夢で、彼女が決して許されることのない大罪を犯したことはよく分かっている。
それでもエミルは彼女の心を知った者として、その魂が消滅するのならばきちんと見送ってあげたいと思った。
何より過去二度の危機で彼女が力を貸してくれたからこそ、姉のプリシラを助けるために自分も戦うことが出来たのだ。
エミルはその恩を忘れていない。
何とか消える前にもう一度戻ってきて欲しいと思い、エミルは彼女の気配を身の内から探り出そうと集中した。
その時だった。
唐突に天空牢の扉が開き、1人の女性が入って来たのだ。
鉄格子の向こう側で見張りの衛兵らが慌てて背すじを伸ばす。
真夜中に突然訪れたのはシャクナゲだった。
「あら。眠れないの? エミル君」
エミルは思わず息を飲んだ。
こんな時間の訪問者は今までいなかった。
しかも相手は白い髪の女だ。
エミルは思わず恐怖に心が掴まれるのを感じた。
(あの人みたいだ……)
オニユリ。
エミルにとっては決して忘れることの出来ない忌むべき相手だった。
思い出すだけで吐き気と震えが止まらなくなる。
シャクナゲはオニユリと同じ父を持つ姉妹であり、やはりどこか似ているのだ。
だからエミルはシャクナゲを見ると怖くなる。
「こんな夜中にごめんなさいね」
そう言うシャクナゲはその手に小さな香炉を持っていた。
そして彼女は衛兵らに命じる。
「あなたたちは少し席を外しなさい」
そう言うシャクナゲに衛兵らは驚いて目を剥いた。
「し、しかしシャクナゲ様……」
「王陛下より全権を賜っていると言わなかったかしら? あなたたちがうつらうつらしていことは陛下には内緒にしておいてあげるわ」
そう言うシャクナゲに衛兵らは息を飲み、慌てて退室していく。
シャクナゲはそれを見送ると踵を返して鉄格子越しにエミルを見た。
そして香炉の蓋を開ける。
途端に薄く白い煙が空中に漂い始めた。
「眠れないみたいだから、よく眠れるお香を焚いてあげましょうね」
するとすぐに甘い香りが漂ってきた。
それはシャクナゲの言う通り、心身をゆったりと落ち着かせるような良い香りだった。
そして……エミルは一瞬で意識を失うのだった。
☆☆☆☆☆☆
「シャクナゲ様……こんな夜中に一体どういうおつもりなんだ?」
「あまり深入りしないほうがいいぞ。俺らはシャクナゲ様に命令されて外に出た。それだけだ」
「最近、王陛下も何だか変だよな。すっかりシャクナゲ様の言いなりでさ……」
「馬鹿おまえ……そんなこと口が裂けても他所で言うなよ? 不敬罪で地下牢送りになるぞ」
衛兵2人が天空牢の外の廊下でヒソヒソと話していると、廊下の奥から複数の足音が響いてきた。
衛兵2人がサッと槍を構えて警戒の姿勢を取っていると、向こうから現れたのは黒い髪の男1人と白い髪の男2人だった。
衛兵らはそのうちの黒髪の男を知っていたため、即座に槍を下げて敬礼の姿勢を取った。
「ヴィンス副隊長。お疲れ様でございます」
黒髪の男は黒帯隊の副隊長ヴィンスだ。
彼は衛兵らに目を向けると整然と言った。
「夜中の警備ご苦労。見張りの任務を交代しよう。おまえたちは兵舎に戻って休め」
突然そう言われ、衛兵らは困惑した。
黒帯隊の副隊長は確かに軍の上層部の地位にあるが、衛兵らにとって直属の指示系統ではない。
「いえ。我々は任務交代の命令を受けておりません」
そう言う衛兵らにヴィンスは懐から取り出した指令書を見せた。
それはジャイルズ王からの命令が記された書面であり、見張りの任を解き通常任務に戻るよう指示されている。
それを見た衛兵らはわずかに戸惑ったが、厄介事に巻き込まれるのは嫌だったので、静かに一礼して指示に従った。
「後は我らに任せよ」
衛兵らにそれだけ言うと、ヴィンスは白髪の若い男2人を引き連れて天空牢の中に入っていくのだった。
☆☆☆☆☆☆
「しっかり効き目が出ているわね。食事で下地を作っておいた甲斐があったわ」
シャクナゲは上機嫌でそう言った。
ちょうどそこで背後の扉が叩かれ、外から黒髪術者のヴィンスが白い髪の男2人を連れて天空牢に入ってきた。
「あらヴィンス。いらっしゃい。人払いは?」
「済ませております。衛兵2人も兵舎へ帰しました。今夜からはシャクナゲ様の配下の者のみで見張りをするよう王陛下にもお取り計らいいただきました」
「そう。良かったわ。ご苦労様」
そう言って鉄格子の隙間からエミルの様子を見つめるシャクナゲの斜め後ろにヴィンスは控える。
彼の目はシャクナゲがその手に持っている白い香炉に向けられていた。
「いかがですか? 【白昼夢】の効果のほどは」
【白昼夢】。
それは白い香炉に入れられた香の名前だ。
「別にこれ自体は何てことのないお香よ。私やあなたが吸ってもどうってことはないわ。でもあの子には時間をかけて下準備をしてきたから、とても効果的だわ。見て。気持ち良さそうに眠っている」
そう言ってシャクナゲが指差す先、鉄格子の向こうのではエミルがベッドの上で静かに寝息を立てていた。
深い眠りに入っていることが窺える。
シャクナゲはこの数週間、エミルの食事の中に微量の薬剤を混ぜていた。
味の変化もなく、体調の変化もないことから薬を入れられているとはエミル本人も気付かなかっただろう。
だがその薬剤を一定期間に渡って摂取することでエミルの体の中にはある抗体が出来ていた。
すると常人にはただの芳香剤である【白昼夢】の成分に反応して、すぐに睡眠状態に陥るようになるのだ。
シャクナゲは懐から取り出した鍵で鉄格子の扉を開けた。
「さあ、あなたたち。実験を始めるから彼に防具を。ケガさせるわけにはいかないわよ」
シャクナゲの命令を受けた白髪の男たちは背負っている袋から小さめの防具を取り出した。
それはかなり厚めに拵えた特別な革鎧だ。
白髪の男らは恐る恐る鉄格子をくぐって牢の中に入ると、ベッドで眠っているエミルにその革鎧を手際よく着せていった。
全身を包み込む革鎧で着膨れしたようなエミルを残し、白髪の男たちは牢の外に出た。
「こちらの効き目が良いということは……」
そう言うとシャクナゲは鍵を手に牢の扉を施錠する。
それから【白昼夢】の蓋を閉じてそれを床に置き、持参した小箱の中から白い香炉とは対照的な黒塗りの香炉を取り出した。
「こちらの効き目も良いということよ」
シャクナゲは黒塗りの香炉の蓋を開けた。
途端に今度は薄く黒い煙が室内に広がっていく。
先ほどの【白昼夢】の甘やかな香りと違い、黒い香炉からは竹のような青い香りが漂い始めている。
【白昼夢】同様に、この薄く黒い煙もシャクナゲやヴィンスには何の影響もないものだった。
この部屋でこの煙の影響を受けるのはただ1人。
シャクナゲはニヤリと笑う。
「さあ、【悪夢】によって禍々しい狂戦士が目覚めるわよ」
ヴィンスらが息を飲む中、数秒の間を置いて……ベッドで寝ていたエミルが跳ね起きるのだった。




