第252話 『夢の終わり』
「ココノエでは黒い猫は幸運の証なんだよ。見かけると幸福が訪れると言われていれるの。まあ滅多にいないから私も見たことないんだけどね」
そう言ってヤブランが楽しそうに笑うのを見て、エミルは彼女とは色々あったがこうしてまた話せるようになって良かったと心から思った。
毎日欠かさずにこの天空牢を訪れてくれていた彼女だが、当初はエミルも何を話していいのか分からなかったのだ。
エミルをオニユリの元から救い出してくれたのはヤブランだが、その後こうして王国の人質になったのも彼女の導きによるものだったから。
だが、そのことをヤブランが心から申し訳なく思っていることを感じ、何とか自分を慰めようとしてくれている彼女の姿勢にエミルは考えを改めた。
友達になりたい。
エミルがそう言った時、ヤブランは大粒の涙を流して喜んでくれたのだ。
王国のことは信じられないが、エミルはヤブランの涙を信じることにした。
そして今ならエミルにも分かるのだ。
国家という大きな枠組みの中で繰り広げられる謀略の前には、ヤブランに出来ることなど何もないのだ。
エミルが無力であるように、彼女もまた無力だった。
それでもヤブランはこうして毎日会いに来てはエミルを元気付けようとしてくれる。
そういう彼女をエミルは信じたくなったのだ。
「ココノエには白い毛の猫ばっかりなんだよ。私たちの髪の毛みたいに……」
そう楽しそうに話すヤブランの後方には見張りの兵が2人いて、1人がコホンと咳払いをした。
面会時間終了の合図だ。
ヤブランがエミルに会うことを許されているのは1日に10分だけ。
それでも鉄格子越しであり短い時間ではあるが、2人にとっては互いの心を慰める大事な時間になりつつあった。
この天空牢には常に2人の衛兵が見張りに着いているが、まだ幼いエミルの身の上に同情したのか、この面会時間には2人に背を向けて邪魔しないように黙っていてくれた。
「そろそろ時間だね。エミル。今日も楽しかったわ。また明日ね」
そう言って立ち上がるヤブランを見てエミルはつい名残惜しい気持ちになりながら、それでも彼女に感謝の笑みを向けた。
「いつもありがとう。ヤブラン。また明日……楽しみにしているから」
エミルがそう言うとヤブランは少しだけはにかんだ笑顔を向ける。
だがその時、ヤブランは衛兵に見えないように背を向けたまま声を出さずにその唇を開き、エミルに何かを伝えた。
それから彼女はエミルに手を振って天空牢を後にする。
エミルは彼女を見送りながら、表情に出さぬようにヤブランの口を思い返した。
彼女は声を出さずにこう言ったのだ。
気を付けて、と。
☆☆☆☆☆☆
天空牢から出たヤブランは自分の最後の声なき言葉がうまくエミルに伝わったかどうか不安になる。
エミルと一緒にいる時はとにかく楽しくて、彼女にとってそれは一日の中で最も貴重な時間だった。
たとえそれが鉄格子越しにたった10分しか話せなくても、エミルと話をしていると彼女は胸が弾むのだ。
だが彼女には心配事があった。
同胞の姫であり、ジャイルズ王の公妾でもあるシャクナゲがエミルに対して何かをしようとしている。
普通に考えればエミルは共和国と敵対する王国にとって切り札になり得る重要な人質であり、そんな彼に危害を加えるのは国の方針に反する。
だがヤブランも知っていた。
シャクナゲがジャイルズ王をすっかり骨抜きにしているということを。
ココノエにいた時からそうだったが、シャクナゲは技術者としては優秀だが、人としては信用できない女だとヤブランは思っていた。
(気を付けるようにエミルには言ったけれど、一体何をどう気を付ければいいのか分からない)
衛兵が監視している面会時間に、エミルとそのことを話すわけにはいかない。
だからヤブランは自身の胸に渦巻く懸念をエミルが黒髪術者の力で読み取ってくれればいいと思った。
「でもエミルに心の中を覗かれちゃうのは…‥‥ちょっと恥ずかしいな」
ヤブランは自分の胸に芽生えている淡い思いを自覚していた。
それを自分でもどう扱っていいのか分からず困っていたが、とにかくエミルに笑っていて欲しいとそれだけを願っているからこそ、シャクナゲのやろうとしていることを危惧しているのだ。
「……私が探れることを探っておこう」
エミルのために。
ヤブランは決然とした顔でそう呟くのだった。
☆☆☆☆☆☆
エミルは夢を見ていた。
この王国に囚われるようになってから数週間になるが、その間ずっと見続けていた夢の続きだ。
夢の中では黒い髪の女が金色の髪と銀色の髪を持つ2人の女性と戦っていた。
エミルはそれが若き日の母・ブリジットと伯母・クローディアであることを知っている。
この数週間に渡り、エミルは黒髪の女の人生を夢で追体験し続けてきたのだ。
彼女の人生は壮絶そのものだった。
生まれ持った暴力性とそれを体現出来てしまう恐ろしい身体能力。
そのせいで黒髪の女は両親からも呪いの子として疎まれ恐れられ、あろうことか実の両親によって錘を付けられて海に沈められたのだ。
死を覚悟した彼女だったが、生への渇望から必死に生き延び、その日から彼女の復讐と暴虐の人生が始まった。
彼女は捨て子として人の良い漁師の夫婦に拾われ、15歳まで愛情深く育てられた。
彼女はある日その老夫婦を平然と殺し、復讐のために故郷である砂漠島へ戻った。
そして自分の両親を殺し、その力で赤毛の女たちを支配して砂漠島の実権を握ったのだ。
そこからは戦いの人生だった。
エミルにとってそれを毎晩、夢で見続けるのは辛いことだったが、黒髪の女の人生を最後まで見届けて記憶に留め、それを忘れずに生きてくことが彼女との約束だった。
ただし、夢を見続けることが出来たのは黒髪の女の気遣いがあったからだろう。
夢が凄惨な殺害の場面になると暗転して見えなくなるのだ。
ただ相手を殺したという事実のみがエミルの心に刻まれる。
おそらくエミルが衝撃を受けて精神が壊れてしまうことを黒髪の女は危惧したのだろう。
黒き魔女と呼ばれて恐れられた彼女だが、心の奥底にはわずかな人間らしさが残っていたのだとエミルは感じる。
そしてこの日の夢が最後になるとエミルは知った。
黒髪の女は激闘の末、若き日のブリジットとクローディアに討ち取られたのだ。
彼女の人生は終わった。
そしてその今際の際に彼女の心に語りかけたのは、エミルの父である若き日のボルドだった。
父は気付いていたのだろう。
アメーリアの中に残る人の心を知るからこそ、ボルドは彼女の最期に声をかけたのだ。
【次に生まれる時は、きっと幸せになれるよ。だから……また生まれておいで。きっとあなたを幸せにしてくれる人に巡り会えるから】
それは父らしい言葉だった。
エミルはなぜ黒髪の女の魂が自分の身に宿ったのか、その理由の一端を知った気がした。
彼女はエミルを通して幸福な人生というものを感じてみたかったのだろう。
エミルは彼女が自他を傷つけるひどい生涯を送ってきたことを知り、そのことを忘れることはないと思った。
黒髪の女の一生は、それほど壮絶な人生だったのだ。
彼女は多くの人を傷つけその命を奪った。
その罪は許されなかったが、ボルドは彼女の心の奥底にある悲しみに触れ、その気持ちを認めたのだ。
そんな人間はボルドの他にいなかっただろう。
だから彼女はボルドの息子であり同じ黒髪術者であるエミルに宿ったのかも知れない。
エミルはそう思うのだ。
そして夢が終わり、エミルは徐々に自分が深い眠りから覚めていくのを感じた。
最後に彼が聞いたのは黒髪の女がそっと耳元で囁く声だった。
【エミル。ありがとう。もうそろそろ1人でも大丈夫ね】
それはいつになく優しく温かな声だった。




