第224話 『それぞれの夜行』
「くっ! このっ!」
プリシラは必死に櫂を操り、急流を下っていく。
水しぶきが容赦なく体を濡らす中、激しく揺れる船から投げ出されまいとプリシラは必死に耐えた。
絶対に避けなければならないのは落水と、船の破損だ。
時折、川面に顔を見せる岩場に激突してしまえば、小船は大破してしまうだろう。
幸いにして雲間から覗く月明かりが川面を照らし出してくれている。
プリシラは暗闇の中で目を凝らし、岩場を見極めながら懸命に操船していった。
彼女の頭の中には王国まで続く川の流れが完璧に記憶されている。
だがそれはあくまでも地図で記憶したものであり、実際にこうして川を進むと思わぬ急流に行き当たることもあった。
地図には細かい川の高低差までは記されていないからだ。
目立ちにくい夜のうちに出来る限り距離を稼いでおきたいと思い、寝ずに夜通しの川下りを強行したプリシラは早くも困難に直面していた。
いくら運動神経抜群のプリシラでも操船経験はほとんどなく、船を破損させずに乗り切れるか不安だった。
「こんなことで足止めされてたまるか!」
プリシラは舌を噛まぬよう口をきつく引き結び、急流に翻弄されながらも必死に先へ先へと船を進ませるのだった。
☆☆☆☆☆☆
真っ暗な坑道の中をいくつもの松明が照らし出している。
5人の男女が地下に穿たれたその穴の中を足早に進んでいた。
人が2人並んでは通れないほどの狭い穴だ。
その真上の地上はすでに公国領だった。
青狐隊の面々は共和国の各所から公国へと入り込んでいた。
3隊に分かれた部隊の内、隊長のアーチボルトと最年少のガイを含む部隊は共和国の国境付近に広がる鉱山地帯から、地下坑道を通って公国へと侵入を果たしている。
公国はすでに王国の占領下にあり、その領土のそこかしこに王国軍が駐留していた。
現在は王国軍による公国軍の残党狩りが行われている最中だ。
だが、青狐隊の準備は万端だった。
公国内にも多くの協力者がおり、王国に至るためにいくつもの道筋を用意している。
仮に1つの道が塞がれようとも、その替えはいくつもあるのだ。
少人数で王国に潜入し、王城に厳重に捕らわれているはずのエミルを救出するという難解な任務を成功させるため、青狐隊は幾重にも切り札を用意していた。
成功に至るための道すじに至っては100通り以上もの想定を行っている。
これは他国に要人が誘拐された時のために、平時より続けてきた工作活動の賜物だった。
「ガイ。王国には黒髪術者が大勢いる。エミル殿の人相に似せた影武者も用意されているかもしれん。おまえが最後にエミル殿を見たのいつのことだ?」
前を行く隊長のアーチボルトは背後を振り返らず、一定の歩幅を保って進みながらすぐ背後を歩く若者にそう尋ねた。
「半年ほど前です。姉のプリシラ殿と共に大統領の邸宅に遊びに来られていたのを見ました」
青狐隊の面々は日頃から国内の要人の人相や人柄を記憶しておくため、一般の警備兵を装って各地に配備される。
ガイは大統領邸宅の警備兵の当番をしていた時に、ダニアの金の女王ブリジットの子女であるブリジットとエミルの姉弟を見かけていた。
美しい髪と顔立ちの姉弟であり、目立つ存在だったためにその人相や声はよく覚えている。
「そうか。エミル殿にお会いした際の質問事項を忘れるなよ」
「はい。心得ております」
青狐隊では実際にエミルを救出した際に、それがエミル本人であることを確認するための質問事項を隊員各自で用意していた。
エミル本人や家族しか知らないような過去の逸話などをそれとなく会話の中に挟むのだ。
苦労して連れ帰ったらエミルでなく別人だった、などとなれば目も当てられない。
このように青狐隊は確実に任務を果たすために多くの準備を怠らなかった。
王国も当然、共和国やダニアがエミルを取り戻すために人を放ってくることは予想している。
そんな中で任務を成功させるためには入念な準備と綿密な計画が必要なのだ。
(ダニアのエミル……まだほんの子供だったな。心を病んでいたりしたら厄介だ。ブリジットの息子ならば肝の太いところを見せてくれよ)
ガイは記憶の中の黒髪の少年の顔を思い返した。
親元でぬくぬくと育ってきた子供には、今の状況は過酷だろうとガイにも分かる。
恐怖と心労で精神に異常をきたしていたとしたら、救出の際に騒がれたりして任務が難しくなるかもしれない。
ガイは内心でそうならぬよう祈りつつ足を進めるのだった。
☆☆☆☆☆☆
「こっちだ。ジャスティーナ」
背の高い草の間をジュードは相棒に手招きしながら先行する。
野盗や危険な野生動物に遭遇せずに進むには、彼の黒髪術者の能力が大いに役立った。
危険を事前に察知できる彼の力によって、2人の旅は今のところ大きな問題に直面せずに進めている。
共和国から公国へと至る国境沿いの丘陵地帯。
共和国領ビバルデを出てから西を目指していた赤毛の女戦士ジャスティーナと黒髪術者のジュードは、公国領に足を踏み入れていた。
公国を占領中の王国軍もまだ公国内を完全には統治できておらず、その兵力が及んでいない場所を選んで2人は進んでいる。
目指すはエミルが捕らえられている王国だ。
(……ん?)
ふいにジュードは足を止め、声を潜めてジャスティーナに合図を送る。
それを受けたジャスティーナも息を潜め、草の陰にしゃがみ込んだ。
前方から何やら声が聞こえて来た。
男たちの粗野な笑い声や囃したてるような声だ。
ジュードが思わず顔をしかめているのを見たジャスティーナは、声を潜めて彼に話しかける。
「……何が起きている?」
「多分……野盗だ。誰かが襲われている」
その話にジャスティーナは草をわずかにより分けて、その間から前方に目を凝らした。
松明の明かりがいくつか見える。
その先には粗末な小屋があり、その屋根の上に人影が見えた。
どうやら屋根に上っているのは1人の老人と幼い少女のようだ。
どうやって屋根の上に上ったのかは分からないが、2人とも震えながら必死に屋根にしがみついている。
その小屋を取り囲んだ男らは小屋の壁を叩いたり蹴ったりしながら、老人たちに降りて来いと怒鳴りつけていた。
恐らくこの後、あの老人と幼い少女は屋根から引きずり下ろされ、悲惨な運命に見舞われてしまうだろう。
ジャスティーナは冷静な顔でジュードに尋ねた。
「相手は何人だ?」
「7人いるぞ」
「たいした数じゃない。ジュード。おまえ、反対側に回り込んで大きな音を立て、奴らの気を引いてくれ」
そう言うジャスティーナにジュードは頷き、音を立てぬように移動していく。
2人が落ち着いているのは、長いこと2人旅をしているとこんな場面にはいくらでも遭遇するからだ。
たった2人で20人ほどの野盗に追われて逃げ延びたこともあるし、その後その野盗のアジトに潜入して、野盗らが寝入っているところ1人残らずジャスティーナが殺してしまったこともある。
(あの2人。幸運だったな)
ジュードは屋根の上で震えている2人に目を向けた。
その後、状況はジャスティーナ達の思い描いた通りとなった。
ジュードが草陰で大きな音を立て、それに気を取られた野盗らの背後から忍び寄ったジャスティーナがわずか2分の間に7人の野盗全員の息の音を止めたのだ。
そして屋根の上で震えていた祖父と孫娘は九死に一生を得たのだった。
☆☆☆☆☆☆
朝の早い川漁師の男は寝るのも早い。
しかしこの夜は突然の訪問客にその眠りを妨げられて、不機嫌そうに目を覚ました。
「夜分にすみません。船を一艘譲っていただけませんか?」
扉を叩いてそう言うのは女の声だ。
一日のうちに二度も船を買いたいと言う客、それも女が現れた珍しさに川漁師の男は首を捻ったが、扉を開けると5人もの赤毛の女たちがいたものだから目を剥いて息を飲んだ。
それがダニアの女戦士たちだと知り、男は思わず身構える。
だが先頭に立つ女は、粗暴な振る舞いで知られるダニアの女とは思えぬほど丁寧な口調と態度で言った。
「驚かせてすみません。5人が乗れる程度の船はありますか?」
そう言うと女は小袋の中から銀貨を20枚ほど取り出して見せる。
その銀貨を見て、川漁師の男は先刻、小船を馬と交換していった金髪の少女のことを思い返した。
そんな男の胸の内を見透かしたわけではないだろうが、赤毛の女が不意に尋ねた。
「それから……ここに金髪の少女が訪れませんでしたか?」
男は思わずドキリとしたが、自分がここを訪れたことを他言しないで欲しいという金髪の少女と交わした約束が胸にあったため、首を横に振る。
「さあねえ。ここは来客なんて滅多にないから」
そう言うと男は銀貨を受け取り、小屋のすぐ脇を流れる川に停泊しているいくつもの船を指差した。
「これだけもらえりゃ、そこにある船のうち一艘、好きなのを持っていっていい。どれも年季は入っているが、頑丈に出来ているぜ」
そう言う川漁師に礼を言い、女たちは数ある船の中から一番上等なものを選ぶのだった。




