第317話 『利害の一致』
混迷の王城からはすでに王の子供たち、シャクナゲ以外の公妾たち、重臣らが退避していた。
そして多数の王国兵らに守り固められた王の私室には、ジャイルズ王とその妻である王妃ジェラルディーンが立てこもるばかりとなっている。
そんな王の私室に、十数名の私兵に守られた1人の老人が訪れた。
彼の名はイーモン・ウォルステンホルム。
王国貴族会の会長であり、名家ウォルステンホルム家の現当主である。
彼がここを訪れたのは娘であるジェラルディーンからの緊急要請を受けてのことだった。
もちろんイーモンを良く知る王国兵らは求めに応じて私室の扉を開ける。
彼が室内に足を踏み入れると、娘のジェラルディーンが出迎えた。
「お父様。お呼びたてして申し訳ございません」
「良い。このような事態であれば我らが前面に出るしかあるまい」
いつものように仏頂面でそう言うイーモンはチラリと奥の寝室の扉に目を向けてから娘を見やる。
しかしジェラルディーンは首を横に振った。
王妃の父とはいえジャイルズ王から見れば臣下である。
イーモンがこの私室を訪れるならば王に挨拶をせずにいるのは非礼であった。
だが今のジャイルズ王は人と会える状態ではない。
危急の呼び出しを受けた際に娘から受け取った手紙には事態の概要が記されており、その由々しき情報はイーモンも把握していた。
そしてジェラルディーンは一枚の書面をイーモンに差し出す。
その書面を開いて見たイーモンはわずかに眉を動かした。
【王の名において次の者に一任するものとする】
それはジャイルズ王が署名した委任状だ。
これを持つ者は王の代理として一つの事項について臣下たちに命じることが出来る。
イーモンは訝しむように娘を見た。
「おまえがこれを?」
「ええ。陛下にお願いをして」
娘の気の強さはイーモンもよく知っている。
だが彼の知る限りジャイルズ王は強い王だ。
妻に詰め寄られてこうしたものを書かされるというのは、ジェラルディーンによほどの弱みを握られているか、あるいは王自身がよほど弱っているかのどちらかだった。
どちらにせよ事態は深刻だ。
嘆息するイーモンにジェラルディーンは告げる。
「お父様には貴族会の代表として陛下の代理を務めていただきたいのです。本来であれば私が直接話すつもりでしたが、クローディアとの面会をお願いできますでしょうか」
「それが王国のためというおまえの判断なのだな?」
そう問う父にジェラルディーンは決然と頷いた。
「分かった。我がウォルステンホルム家は王家ではなく王国そのもののためにある。こういう時こそ動くとしよう。おまえはどうする?」
「私は……夫が愚かな行為に及ばぬよう見張っておりますわ。お父様。何よりも大事なのは我が国の国力維持と我が息子エヴァンの戴冠。くれぐれもよろしくお願いいたしますわ」
そう言う娘にイーモンは黙って頷き、委任状に自身の名前と委任事項を記すと王の私室を後にするのだった。
☆☆☆☆☆☆
「チッ。何でアタシがこんなオバサンを担がなきゃならねえんだ」
ネルは気絶したシャクナゲを肩に担ぎながら不満を吐き出す。
「仕方ないでしょう。五体満足なのはあなただけなんですから。丁重に扱って下さいよ。交渉のためにも死なれては困る人物なので」
そう言いながらアーシュラは王城内の間取りを頭の中で確認する。
ショーナから受け取った手紙には王妃ジェラルディーンとの面会場所が記されていた。
それは王妃や公妾らが普段居住している男子禁制の区画である別棟だ。
そこに足を踏み入れようとしたアーシュラたちの前に、再び十数名の兵士たちが立ちはだかった。
赤毛の女たちはまたかとウンザリした顔で身構える。
だが彼らは正規の王国兵とは異なる服装をしていた。
そして兵士たちの背後には1人の身なりの良い老人が立っている。
「チッ。また邪魔が入ったのかよ。おまえら何とかしろ」
シャクナゲを担いでいるため自分は御役御免だと言わんばかりの態度でネルは仲間たちにそう言いながら後方に下がるが、それをアーシュラが呼び止める。
「その必要はありません」
警戒する若きダニアの女たちにそう言うと、アーシュラは一歩前に出た。
そして兵士たちの背後に立つ老人に対して呼びかける。
その老人の顔をアーシュラは知っているのだ。
「貴族会会長のイーモン・ウォルステンホルム様ですね? ワタシはアーシュラ。かつてこの国に所属し、今は共和国でクローディアの秘書官を務めております」
「ほう……貴殿がアーシュラ殿か。かつて分家として王国に住んでいたのでワシの顔を知っているのだな?」
「はい。本日は王妃殿下に御目通りさせていただく予定で馳せ参じました」
「娘から頼まれてワシはここに来た。貴族会会長として、また王陛下の名代として話を聞こう」
そう言うとイーモンは一枚の書面を懐から取り出し、それを広げてアーシュラに見せた。
それはジャイルズ王の名が記された委任状だ。
王の名代というイーモンの言葉を裏付ける書面だった。
「ただし……決断するかどうかは貴国の代表であるクローディア殿と直接面会してからになるがよろしいか? 秘書官殿」
「はい。イーモン卿」
イーモンとアーシュラの会話に、後ろで見守っているエステルは息を飲んだ。
今の話からすればイーモンの決断は王国の決断そのものということになる。
彼が約束したことは王国にとっても守るべき約束事となるのだ。
政治的に重要な場面に予期せず立ち合うことになったエステルは、この場で繰り広げられることを一瞬たりとも見逃さぬようにしようと神経を研ぎ澄ませた。
そんな彼女の心意気を黒髪術者の力で感じ取りながらアーシュラはネルに声をかける。
「ネル。シャクナゲ殿をこちらへ。丁重にするように」
厳かな声でそう言うアーシュラにネルは肩をすくめ、担いでいたシャクナゲをイーモンの部下に引き渡す。
部下が担いだシャクナゲの顔を確認すると、イーモンはアーシュラと話を始めた。
アーシュラからは共和国および東側諸国連合からの停戦要求と、公国からの王国軍の完全撤退を要求。
そして公国からの王国への報復を禁ずる代わりに、公国の次期大公としてコリン公子の擁立を認めることも合わせて要求した。
一方、イーモン側からは公国への戦争補償の免除と、王国の次期王としてエヴァン王子を擁立することに対して共和国の全面協力を要求した。
2人の話を一言一句聞き漏らさぬようアーシュラ側はエステルが、イーモン側は部下の1人が手持ちの紙にペンを走らせる。
互いに条件を提示し合い、それぞれの意思とそれに対する是非を確認する。
そしてイーモンとアーシュラは互いの希望を遂行する意思があると確認し合い、握手を交わした。
「最終的な合意は王妃殿下とクローディアとの調印ということで」
「異議はない」
それからイーモンは城内での武力行使を禁じる旨を通達させるために、自らの署名入りの王の委任状を部下に渡した。
部下はそれを持って駆けていく。
向かう先は城内に設けられた衛兵の本営だ。
それを見送るとイーモンはアーシュラに提案する。
「このような場所で待ち続けるのも何だ。控え室へ移ろう。城内停戦の通達が行き渡るまで時間がかかる。茶でも出すぞ」
「いえ。イーモン卿を信用していないわけではありませんが、まだ合意前ですのでここで待たせていただきます」
アーシュラは泰然とそう言った。
万が一これが罠で、部屋に通された途端に閉じ込められて襲撃を受ければ命はない。
当然の判断だった。
イーモンは気を悪くした様子もなく頷く。
「さすがの用心深さだな。アーシュラ殿。長年女王の右腕を務めるだけのことはある。よろしい。ではせめて椅子を用意させよう」
そう言うとイーモンは部下に命じて椅子を持ってこさせる。
アーシュラは両肩の痛みを堪えながら、静かに息をついた。
後の懸念はプリシラが今駆け付けようとしてくれているクローディアのことだ。
(プリシラ様。後は頼みましたよ。必ずクローディアを連れてきて下さい)
今はまだ若干13歳の未熟な娘だが、プリシラには女王になるべき器の大きさが垣間見える。
プリシラならばきっと事態を収めてクローディアを無事に連れてきてくれると、アーシュラは信じるのだった。




