第310話 『悲しき争い』
「ジェラルディーン。これは……政変だぞ」
ジャイルズ王は自身の寝室から出られずに呻くようにそう言った。
部屋の前には兵士が30名ほど待機し、ガッチリとこの部屋を護衛している。
何者をも寄せ付けぬと同時に、この部屋から出ることも許されぬ状況だった。
今、ジャイルズ王の目の前に泰然と立っているのは、その妻である王妃ジェラルディーンだ。
夫である王よりも長身の彼女がそうして立ちはだかると、その姿はまさに威風堂々といった風情だった。
「政変? それを言うならあなたとシャクナゲが行ってきたことは王国という国家への裏切りではないのですか? あなたが起こした戦争は国を豊かにするどころか国力を疲弊させ、今や我が国はこの大陸では四面楚歌。そして情けないことに最近のあなたの政策には裏で糸を引くシャクナゲの意思が強く反映されている。この苦境を引き起こしたのは王としてのあなたの意思の弱さに他なりません」
「お、おまえ……夫に対して……王に対してその言い草はなんだ!」
妻の言葉に王は思わず顔を紅潮させて上擦った声を荒げた。
だがジェラルディーンは一歩も引かずに夫の目をじっと見つめて言う。
「これは失礼いたしました。至らぬ妻であったことは認めましょう。それゆえシャクナゲのような不忠の輩にこの国の中枢を握られかけていた。私の失敗です。あなた。これからはウォルステンホルム家のジェラルディーンとして、もっと夫に厳しくも愛を持って接しようと思います。これもこの国を思ってのこと。分かって下さいましね」
「な、何を……」
そう言うジャイルズ王の指は小刻みに震えている。
シャクナゲに与えられて嗜み続けてきた秘薬の副作用で禁断症状が出ているのだ。
ジェラルディーンはその指を見て軽蔑の表情を浮かべる。
「その情けないお姿を息子たちに、臣下たちに、そして国民たちに見せることが出来ますか?」
「そ、それは……」
「ハッキリ申し上げます。この後、私が音頭を取り、貴族会の全会をもってシャクナゲを糾弾します。証拠は揃っておりますわ。重要な証言も取り付けてあります。シャクナゲは弾劾法廷で裁かれることとなり、重罪は免れないでしょう。あの女を庇ってあなたも罪に問われるか、この妻の差し述べた手を取り王として踏みとどまるか。今この場でお選び下さい」
そう言うとジェラルディーンは有無を言わせぬ眼光をその目に浮かべて夫に手を差し伸べた。
王妃として、そして大貴族としての矜持を胸に、ジェラルディーンは国を正すために夫に最後通牒を突きつける。
妻のこれほどまでに強い態度を見たことのないジャイルズ王はすっかり狼狽し、突きつけられた最後の選択を前に逡巡しながらその視線をせわしなく揺らすのだった。
☆☆☆☆☆☆
響き渡る剣と剣のぶつかり合う音。
そして姉が弟の名前を必死に呼ぶ声。
さらに不快な高笑いと侮蔑の籠った言葉。
王城5階の廊下では血を分けた姉と弟の悲しき争いが繰り広げられている。
「さすがにかわいい弟は斬れないわよねぇ。でも弟のほうは姉を斬る気満々のようよ。ひどいわよねぇ」
「その口を閉じなさい!」
嘲笑うシャクナゲに苛立つプリシラだが、エミルの剣を受け止めるのに精一杯だ。
いくらプリシラが呼びかけてもエミルは一向に反応を見せない。
弟のその目はプリシラを見ているようで何も見てはいなかった。
体はエミルのそれだが、魂が抜け落ちてまるで別の悪魔が乗り移っているかのようだ。
(くっ! どうすればいいのよ! このままじゃエミルを救えない!)
弟を攻撃するわけにもいかずプリシラは成す術なく防戦を強いられるのだった。
☆☆☆☆☆☆
エミルは真っ暗な闇の中にいた。
いや、彼自身が目を閉じて何も見ないようにしているのだ。
目を開けてしまえば恐ろしいものを見てしまうから。
自分が姉のプリシラを攻撃するところなど見たくはない。
姉を攻撃なんかしたくない。
だというのにエミル自身にはどうすることも出来ないのだ。
自分の体はすでに自分の意思に関係なく勝手に動いている。
やめたくても彼の意思に彼の体は従ってくれない。
先ほどからプリシラが自分に呼びかける必死の声が聞こえてくる。
それを聞くのも辛くてエミルは耳を塞いだ。
そんなことをしても何の解決にもならないのは分かっている。
それでもエミルには直視することが出来なかった。
大切な姉を、自分を迎えに来てくれた姉を、自分が攻撃しているところなど。
【……何も見ない。何も聞かない。それなら怖いものには触れずに済むものね】
その声は胸の奥深くから聞こえて来た。
本当に微かに細い糸のような声だが、それはここのところ聞こえなくなって久しい女の声だった。
昔からエミルの胸に奥に宿っていた黒髪の女だ。
「あなたは……」
【もう1人でも大丈夫だと思ったけれど、世話の焼ける子ね】
もう消えてしまったかと思った彼女の声に、エミルは縋るように言った。
「お願いです。僕を止めて下さい。このままじゃ姉様が……僕が姉様を傷つけてしまう」
【いい加減に甘えるのはやめなさい。あなたは色々と経験をして分かったはずよ。この世は子供だって自分で自分の道を切り開かなければならない時があることを。そうしなければ自分も大切な人も守れないわ。このワタクシのように】
そう言う黒髪の女の声にはもう以前のような甘美で魔性な響きはなかった。
ただ冷たく、そしてきっぱりと現実の厳しさをエミルに伝えてくるだけだ。
【これで本当に……お別れよ。地獄から見ていてあげる。あなたがどう生き、どう死ぬのかを。さようなら。坊や】
それきり黒髪の女の声は聞こえなくなった。
エミルには分かった。
彼女が……完全に去って行ったのだと。
後に残ったのは心の静寂だ。
エミルは成す術なく呆然と闇の中に佇むのだった。
☆☆☆☆☆☆
「くっ! 囲まれないでよ! みんな!」
ハリエットがそう声を上げ、5人の女たちは襲い来る王国兵らを倒して王城の廊下を進み続ける。
黒髪術者のジュードの導きで出来る限り安全な道を進んだが、それでも完全に敵の手から逃れる道は無い。
ダニアの若き女戦士たちは皆、傷付き疲れている。
エリカは左腕を骨折し、ハリエットは肋骨を損傷、エステルも両腕と腹部を痛めており、オリアーナは額や胸に傷を負っていた。
弓兵のネルだけは大きな負傷は無かったが、矢筒にはもう数本しか矢が残っていない。
そして5人とも疲労が色濃くその顔に滲んでいる。
それでも5人は互いを助け合い、必死に敵陣の中を進み続ける。
ジュードはそんな皆を鼓舞するように声を上げた。
「もう少しだけ堪えてくれ。天空牢が見えて来た。プリシラはそこに向かっているはずだ」
そう言いながらジュードは感覚を研ぎ澄ませる。
先ほどから気になる気配を感じているのだ。
ひどく強大な黒い力だが、そこからは何の感情も感じられない。
恐らく誰かしら黒髪術者が発している気配だとは思ったが、まるで虚無のようなその気配が誰のものなのかはすぐに判別できなかった。
(俺の知らない黒髪術者だろうか……)
そう思ったその時だった。
ふいに頭の中に声が響いたのだ。
【エミルを救い出してあげて……】
それは女の声だった。
ジュードはその声とともに伝わってきた気配を覚えている。
以前に公国と共和国の国境付近の谷間でチェルシー一行と戦った際に、エミルが恐ろしい変貌を遂げたことがあった。
おとなしい性格で戦うことなどとても出来ないはずのエミルが凶暴な狂戦士のようになって敵を殺し、チェルシーとも互角以上に渡り合って見せたのだ。
その時のエミルから感じた気配が今まさに感じられたのだ。
それは女の声とともにすぐに消え去ってしまった。
まるで季節の終わりに最後に吹く風のように。
(そうか……この気配はエミルの……)
そのことに気付いたジュードは5人の女たちと廊下を進みながら、強大な虚無の気配に対して黒髪術者の力で必死に呼びかける。
(エミル……エミル……俺だ……ジュードだ……気付いてくれ)
エミルは穏やかで気持ちの優しい男の子だ。
本来ならばまだ親の庇護の下で安心して暮らしているはずの年齢なのだ。
そのエミルが人生の苦境に陥り、それでも生きようと必死にもがいている。
彼に再び穏やかな日々が戻ること切に願い、ジュードは懸命にエミルに呼びかけ続けるのだった。
☆☆☆☆☆☆
我を失ったエミルがプリシラに攻撃を続けるのを横目で見ながら、アーシュラは石弓に矢を番えてシャクナゲを牽制する。
シャクナゲは拳銃を手にアーシュラを排除しようと機を窺っていた。
シャクナゲはココノエの女であり、ジャイルズ王の公妾だ。
彼女の拳銃の腕はそれほどではなかったが、アーシュラがシャクナゲを排除しようとすると、必ずエミルがシャクナゲを守ってしまう。
エミルがどうしてそのような変貌を遂げたのかは分からないが、確かなのはシャクナゲを主として守るために彼は動いているということだ。
(くっ……一体エミル様に何が……)
そう思ったその時だった。
唐突にアーシュラの頭の中に声が響く。
【アーシュラ……エミルを救い出してあげなさい】
その声にアーシュラは一瞬、恐怖と憎しみ、そして懐かしさの入り混じった感情を覚える。
それは……彼女が良く知る黒き魔女の声だったのだ。
その声と気配はほんの一瞬で消えてしまった。
まるで空に消えていく煙のように。
(アメーリア……)
母の妹である彼女の事をアーシュラは憎んでいた。
だが不思議なことに最後に聞こえたその声には、親愛の情のようなものをアーシュラは感じたのだ。
そしてエミルが今、助けを必要としていることを知ったアーシュラは、黒髪術者の力を用いてエミルの心に呼びかける。
(エミル様……アーシュラです。エミル様……どうか戻ってきて下さい)
切なる願いを込め、今まさに姉と戦い続けるエミルにアーシュラは呼びかけ続けるのだった。




