第309話 『血を分けた者との戦い』
「うぅ……」
ヤブランはズキッという頭の痛みで目を覚ました。
気付くとそこはどこかの部屋であることか分かる。
やや強めの香水の香りが鼻を突いた。
その匂いで思い起こされるのはシャクナゲだ。
シャクナゲがいつもその身に纏っている香りだった。
(そうだ……私、シャクナゲ様に殴られて……ハッ。エミルは?)
ヤブランは身を起こそうとして自分が後ろ手に縛られていることを知った。
そして口には猿轡のように布が噛まされている。
ヤブランは焦る気持ちを必死に抑えて部屋の中を見回した。
そこには誰の姿もない。
(エミルはまた天空牢に入れられたんだわ。ショーナ様はどうしているのかしら……)
ヤブランは頭の痛みを堪えて立ち上がる。
両手はきつめに縛られていて解こうと力を入れても無理だった。
だが足が縛られていないのが幸いだ。
ヤブランは部屋の中を動き回り、鏡を見つけた。
全身が映る姿見だ。
ヤブランはそこに自分の背中を映す。
どうやらヤブランの両腕を縛っているのは縄ではなく、手拭いを細く引き裂いただけの粗末なものだった。
きつく縛られてはいるものの、これならどうにかすれば解けそうだ。
ヤブランは目の前の鏡を思い切り蹴りつける。
ヤブランの足の力では鏡はすぐに割れなかったが、力を込めて靴の踵で何度も何度も鏡を蹴りつけた。
(エミル。待っていて。今行くからね)
すると徐々に鏡面に亀裂が走り始め、ついに割れた鏡の破片が一部飛び散った。
それからヤブランは鏡面の割れた部分に、後ろ手の手拭いをグイグイと擦り付けた。
割れた鏡の尖った縁で手拭いがガリガリと削られる音が聞こえる。
すぐには解けそうもないが、一刻も早く体の自由を取り戻してこの部屋を出なければならない。
ヤブランは懸命に動き続けるのだった。
☆☆☆☆☆☆
「エミル! やめて!」
プリシラの叫びも虚しく、エミルは剣を振るってプリシラに斬りかかる。
実の姉に刃を向けるエミルの振る舞いには、微塵も躊躇いが感じられなかった。
その鋭い斬撃は以前にエミルがチェルシーとの戦いで見せたのと同じくすさまじい威力であり、自身の剣でそれを受け止めたプリシラも思わず愕然としてしまう。
急所に浴びれば一撃で命を落としてしまうような必殺の一撃だ。
それほどの殺意のこもった剣を自分の弟から向けられるというのは、プリシラにとって悲しい衝撃だった。
(エミルがおかしくなってる。どうして? せっかくここまで来てやっと会えたと思ったのに)
プリシラは悔しくて悲しくて叫ばずにはいられない。
「エミル! 姉様よ! あなたを助けにきたのよ! 剣を振るうのはやめなさい!」
そんなプリシラを嘲り笑うようにシャクナゲが声をかける。
「無駄よ。愛しい姉様のことも何もかも忘れてしまっているわ。エミルは今や私の忠実な兵士」
「くっ! エミルにそんなひどいことを……許せない!」
「弟のことより自分のことを心配したら? 今にも斬り殺されてしまいそうだけど大丈夫?」
そう言って笑うシャクナゲをアーシュラは石弓で狙う。
だがその瞬間、エミルが腰帯から抜いた短剣を鋭くアーシュラに投げつけた。
その短剣は咄嗟に避けようとするアーシュラの左肩に突き刺さった。
「あぐっ!」
「アーシュラさん!」
プリシラは思わず血相を変えてアーシュラに駆け寄ろうとするが、そんなプリシラにエミルはすかさず斬りかかって彼女の足を止める。
その様子を見てシャクナゲが歓声を上げた。
「すごいわよ! エミル! 私を傷つけようとする者は許さない忠実な護衛の兵士だわ」
そしてシャクナゲは拳銃の銃口をアーシュラに向ける。
「それにしてもあなたは邪魔ね。姉と弟の感動の再会に水を差さないでくれるかしら?」
そう言うとシャクナゲは拳銃を放つ。
アーシュラは咄嗟に身を伏せてこれをかわし、苦悶の表情で左肩の短剣を引き抜いた。
そしてそれを鋭くシャクナゲに投げつける。
だがその短剣もエミルが剣で叩き落とした。
シャクナゲは満足げにニヤリと笑った。
「無駄だと言っているのに。エミルは絶対に私を守るわ」
プリシラはこの苦しい状況に唇を噛みしめる。
自分はエミルにかかりきりで、シャクナゲの攻撃まで手が回らない。
そしてアーシュラもこのままでは危険だ。
「エミル! エミル! アタシの声を聞きなさい! あなたはブリジットとボルドの子! そしてこのプリシラの弟よ! そんな女にいいように使われてはいけないわ! 目を覚ましなさい! エミル!」
プリシラは必死にエミルに呼びかける。
だがエミルは一向にそれに反応を見せず、ただひたすらプリシラに攻撃を仕掛けるのだった。
☆☆☆☆☆☆
チェルシーの振るう剣が苛烈にクローディアを攻め立てる。
戦いが始まってからすでに5分ほどが経過していたが、一方的にチェルシーが攻め、クローディアが守る展開だった。
剣を振るうチェルシーの胸の内にはこれまでの自分の半生が浮かんでは消えていく。
孤独な人生だった。
父も母も彼女が幼いうちにこの世を去り、血を分けた姉は遠いどこかに行ってしまい会うことは叶わない。
寄る辺のない不安な日々の孤独感は、チェルシーの成長に伴って冷たい怒りへと変わっていった。
姉に会いたいと思っていた。
かつて幼い頃は姉に会ったら抱きしめてもらいたいと思っていた。
しかしその願望は怒りや憎しみと共に醜く姿を変えていった。
姉に会いたいと思うのは復讐を果たすためとなった。
姉が自分や母や国を捨ててその見返りに得た今の幸福を、全て壊してしまいたい。
そう思いながら生きてきた。
今、チェルシーはその本懐を遂げようとしている。
目の前にいるクローディアを討ち果たせば、自分の復讐は終わるのだ。
その後のことは一切考えていなかった。
復讐さえ果たせれば、もう死んでしまっても構わないというほどに。
チェルシーの目は復讐の炎に焼かれて爛々と輝きを放つ。
「どうしたの! 姉様! 打ってこないの! 妹には攻撃できないなんて随分お優しいことね! 今さらそんな優しさを見せても薄気味悪いだけだわ! 一度として会いに来なかったくせに! ワタシと母様を見捨てたくせに!」
チェルシーは心の中に溜まった膿を全て吐き出すようにクローディアを罵りながら苛烈に剣を振るった。
一方のクローディアは一切の反論・反撃をせずにチェルシーの攻撃を受け止め、責め立てるその言葉を甘んじて受けている。
それがまたチェルシーの癪に障った。
「ワタシを馬鹿にしているの? ワタシの攻撃なんていくらでも受け切れると? 反論も反撃もせずに……ナメないで欲しいわね!」
そう言うとチェルシーはより複雑で多彩な攻撃を繰り出してクローディアを更に攻め立てる。
さすがにクローディアが顔を歪めた。
「くっ! チェルシー……あなたに反論する資格はワタシにはないし、反論したくもないわ」
「返す言葉もないってわけね! ならばそのままワタシに斬られて、この恨みを思い知るがいいわ!」
チェルシーの辛辣な言葉もクローディアは黙って受け止める。
その様子にチェルシーはますます苛立ち、感情的に剣を振るった。
それを後方から見守るショーナは、チェルシーの心が悲痛に泣き叫んでいるのをヒシヒシと感じる。
かつて愛した者への復讐が、かくも悲しいことなのだとショーナは目の前の光景を見ながら痛感していた。
チェルシーの復讐は決して彼女を幸せにはしない。
相手を倒して爽快に終わるものではないのだ。
復讐を果たしたところでチェルシーには不幸になる未来が待っている。
姉をその手にかけてしまえば、訪れるのは罪悪感と後悔に苛まれる日々だ。
そんな人生を送らせるために今までチェルシーを見守ってきたのではないとショーナは思っていた。
チェルシー本人はおそらく気付いていない。
ああして姉を罵倒する一言一言、姉に向ける剣の一太刀ごとにチェルシーの心には悲しみが降り積もっていく。
そのせいでチェルシーの顔が痛々しく歪んでいることを本人は気付いていないのだ。
ショーナがここにクローディアを呼び込むべく手引きしたのは、実際にクローディアと目の前で対峙すればチェルシーの心に大きな変化が起きるのではないかと期待したからだった。
もちろん実際にクローディアの姿を目の当たりにすることでチェルシーの怒りが増幅し、憎しみが爆発する恐れはある。
だがそれでもショーナはクローディアとの再会でチェルシーの心が良い方向に変化してくれることに賭けたのだ。
ショーナは感じ取っている。
今チェルシーの心は揺れ動いていた。
チェルシーの心の中には今も、幼かった頃の愛に満たされなかった彼女自身がいるのだ。
その胸の内の幼子が今、泣き叫んでいた。
(チェルシー様。今が最大の好機です。復讐のための荒んだ人生から脱却して、幸福な人生を掴むんです。どうか思い直して下さい)
ショーナは爪が手の平に食い込むほど拳を強く握り締め、固唾を飲んで姉妹の戦いを見守るのだった。




