第308話 『迫り来る虚無』
「ほら。しっかり掴まりなさい。オリアーナ」
そう言うと右手はまだ使えるエリカと、5人の中で唯一無傷のネルが2人がかりでオリアーナの手を取って塀の上に引き上げた。
怪人ドロノキとの死闘に勝利したダニアの若き戦士ら5人は次々と塀の上に上っており、最後の1人がオリアーナだ。
ちょうどそこで王国兵らが大挙して広場に押し寄せた。
その数は30名ほど。
彼らは狙撃銃で全員武装しており、広場からの脱出が少しでも遅れていたら5人は今頃一斉射撃の餌食となっていただろう。
全員、頭を低くして塀の上の通路上に身を隠しており、幸いにして王国兵らには見つかっていない。
王国兵らの突入を事前にいち早く教えてくれたのは黒髪術者のジュードだ。
皆を代表してエステルは身を隠したまま小声でジュードに礼を述べた。
「おかげで助かりました」
「こちらこそ。俺がだらしなく寝ている間に守ってくれたのは君たちだろう?」
「ええ。そうよ」
そう答えたのはエステルを押し退けるように前に出てきたハリエットだ。
「アタシ。ダニアのハリエット。プリシラの友達よ。あなたはジュードよね」
「こんばんは。ハリエット。ケガしているみたいだけど大丈夫かい?」
「ええ。こんなのすぐに治るわ。それより無事にここから生き延びたら、あなたダニアに来てよ。プリシラを助けくれた恩人だもの。ぜひアタシたちの故郷でおもてなししたいわ。その時はアタシが案内するから、この顔と名前を覚えておいてね」
「あ、ああ。その時はよろしく」
前のめりになるハリエットにジュードは思わずたじろいだ。
そんなハリエットの頭をエリカがパシッとはたく。
「アイタッ! 何すんのよエリカ」
「そんなことやってる場合じゃないでしょ。銃で頭をブチ抜かれて、おもてなしどころじゃなくなるわよ」
エリカの言う通りだ。
ドロノキの遺体を見た広場の王国兵らは、狙撃銃を手に広場の中を慌しく走り回っている。
彼らは地面に置かれた木材の裏側などを見て回っていた。
そんな彼らの声が聞こえてくる。
「折れた矢が多数! 血痕も複数あるので、敵は負傷中の模様です」
「赤毛の女たちの目撃情報がある! 探せ! 塀の上の通路もくまなくだ!」
ジュードと5人の女たちは息を殺して身を隠したまま互いに視線を交わし合った。
皆一様に緊迫した表情だ。
ドロノキとの死闘による負傷者が多く、銃を装備した敵の数も多い。
非情に危険な状況だった。
「みんな。俺が黒髪術者だってことは知ってるな? なるべく安全な道を選んで進むから、付いて来てくれ」
ジュードは女たちにそう言うと低い姿勢のまま通路を這うようにして進んでいく。
女たちはそれに続いて激闘の広場を後にするのだった。
☆☆☆☆☆☆
「プリシラ。止まって下さい」
アーシュラの言葉にプリシラは足を止める。
そしてアーシュラの表情が曇っているのを見て思わず不安げに尋ねた。
アーシュラはその顔に深い懸念を滲ませてその問いに答えた。
「何か……とても嫌な何かが近付いてきます」
黒髪術者であるアーシュラの言葉にプリシラも息を飲む。
滅多なことでは顔色を変えないアーシュラがその顔をわずかに強張らせていた。
しかしその危険な何かというのがプリシラには皆目見当もつかない。
一方のアーシュラは胃の底に重い石を沈められているような不快な気分を味わっていた。
先ほどからわずかに感じていたエミルの弱々しい力。
それを追ってアーシュラはプリシラを先導しながら進んで来たのだ。
だが今、その力は途絶えていた。
それが何を意味するのかはアーシュラは今は考えないようにした。
今は目の前に迫りつつある脅威に対処しなければならない。
(この感じ……何だろうか)
かつてアーシュラが恐れ、そして憎んだ黒き魔女アメーリア。
今感じている気配は黒き魔女のような強大さを帯びていた。
だが、決定的に違うのは黒き魔女の力には常に怒りや憎しみ、そして悲しみが入り混じっていたが、今感じている気配にはそうした感情が一切ない。
一言で言えば虚無だった。
そういう奇妙で空虚な存在がこちらに近付いてくる。
(一体何が……何が起きている?)
アーシュラは慎重に言葉を選びながらプリシラに臨戦態勢を促した。
「プリシラ。危険な存在が近付いています。心して下さい。そしてエミル様の気配が途切れました。エミル様が現状、どこにいるのかも……分からなくなっています」
そう言うアーシュラ自身も持参している石弓を手に持ち、そこに矢を番える。
正直なところ今すぐ引き返してこの場から去りたいほど不気味な気配を感じていたが、エミルを救出しなければならない。
プリシラはアーシュラに何かを尋ねたくて仕方がないといった顔を見せるが、アーシュラの油断ない表情を見てすぐに口を閉じ、鞘から剣を抜き放つ。
アーシュラは気を引き締めてプリシラと共に階段を上り、王城の5階の廊下に出た。
天空牢や玉座の間も近く、普段ならば重臣たちが行き交うような場所だが、すでに皆避難しているらしく見張りの兵の姿もない。
異様なほどの静けさだった。
(人払いされている。ジャイルズ王もすでに別の場所へと避難したようだ……ん?)
周囲を警戒していたアーシュラは、曲がり角の先に2つの気配が近付いてくることを悟り、プリシラに目配せをすると曲がり角の手前の壁に背をつけてしゃがんだ。
プリシラもすぐにアーシュラに倣い、彼女の後ろに付く。
すると廊下を走る足音が聞こえてきた。
2人分の足音だ。
アーシュラとプリシラは互いに顔を見合わせて頷き合う。
ほどなくして2人の男たちが曲がり角を曲がって姿を現した。
アーシュラは1人の男に足をかける。
「あうっ!」
男は前のめりに床に転倒した。
黒髪の男だ。
もう1人の鼻先にプリシラは素早く剣を突き付けた。
男は思わず怯えた顔でプリシラを見る。
「ひっ……こ、殺さないでくれ」
アーシュラは転倒した男の後頭部に石弓を向けて言う。
「あなたたち。黒帯隊の所属ですね。エミル様はどちらですか?」
アーシュラの問いに男たちは息を飲む。
アーシュラは間髪入れずに言った。
「すぐに答えなければ、どちらかを殺します。残ったもう1人はどんな手を使っても吐かせますよ。相当苦しい思いをすると覚悟して下さい」
そう言うとアーシュラは石弓の引き金に指をかけた。
プリシラに剣を突き付けられている男はその様子を見てたまらずに声を上げた。
「エ、エミルはシャクナゲ様の部屋だ。この廊下の先の角を二度曲がった先に……」
そこでけたたましく銃声が響き渡り、黒髪術者の男が頭から血を噴き出して倒れ込んだ。
即座にプリシラとアーシュラは身を低くする。
逆にもう1人の黒髪術者の男は立ち上がると、悲鳴を上げながら廊下を一目散に走り去っていった。
「まったく。忠義の心を忘れてはいけないわ」
そう言って反対側の廊下の先に姿を現したの白髪の美しい女だった。
その手には拳銃が握られている。
黒髪術者の男を撃ち殺したのはその女だ。
その女を見たプリシラが弾かれたように声を上げる。
「シャ……シャクナゲ! エミルはどこ! エミルを返しなさい!」
プリシラのその言葉にシャクナゲは不敵な笑みを浮かべる。
「エミルならそこにいるわよ」
そう言うシャクナゲの背後の曲がり角から1人の少年がゆっくりと姿を現した。
黒髪のその少年は紛れもなくエミル本人だ。
「エミル!」
プリシラは歓喜の声を上げる。
だはすぐに彼女は眉をひそめた。
「エミル……? どうしたの? エミル」
エミルの様子が明らかにおかしかった。
姉であるプリシラの呼びかけにも一切反応しない。
茫洋とした目はプリシラの方を見ているが、プリシラのことは見えていないようにさえ思える。
そしてプリシラの隣に立つアーシュラはエミルの恐ろしい異変に気付いた。
先ほど感じていた虚無の気配は……エミルから感じられるのだ。
「……エミル様に一体何をしたのですか?」
アーシュラの問いにシャクナゲは目を細めて笑う。
「ふふふ。彼はもう以前のエミルじゃないわ。今や私を守る立派な戦士よ」
シャクナゲの話にプリシラは激昂して声を荒げた。
「ふざけないで! エミルはアタシの弟よ! エミル! こっちに来なさい!」
だがプリシラの声にもエミルはまるで反応を見せない。
その様子にシャクナゲは満足そうな顔を見せ、それからエミルに話しかけた。
「エミル。あの人たちは私を傷つける悪い人たち。彼女たちを殺しなさい」
シャクナゲがそう言うと、エミルは腰帯に差した鞘から剣を抜き放つ。
その様子をプリシラは信じられないという顔で見つめた。
「エミル……どうしちゃったの? アタシが分からない? あなたの姉様よ! 迎えにきたのよ!」
しかしプリシラのその言葉もエミルには届かず虚しく消えていく。
エミルは光の失われた目をプリシラに向けて剣を構えると、あろうことか姉へと斬りかかっていくのだった。




