第305話 『執念の一矢』
ネルの放った矢が自分の方へ向かってくるのを見ても、オリアーナはドロノキを絞め上げる手を緩めなかった。
たとえネルの矢が誤って自分の頭を貫いたとしても、恨みはしない。
それが戦場で仲間と共に命をかけて戦うということなのだと彼女は理解しているからだ。
ネルのことは嫌いだった。
粗暴で意地が悪く、そして弁が立つ。
オリアーナが最も苦手な種類の人間だ。
それでもオリアーナはネルの腕は認めていたのだ。
自分の腕を磨くことにかけては、ネルは真摯だった。
オリアーナはその1点においてのみネルを理解し、共感している。
オリアーナもネルとは別の意味で他者との折り合いが悪く、獣使隊では孤立していた。
獣だけが友だった。
そんな中でひたすら獣使隊の訓練に打ち込んできたのだ。
ネルが孤独に弓矢の腕を磨いてきたように。
しかしオリアーナはこの5人との旅で仲間と共にあることの喜びを知った。
人生が変わったような気がしているのだ。
だからこそここにいる仲間たちを失いたくなかった。
たとえそれが大嫌いなネルだとしても。
だからこそオリアーナはネルを、そして仲間を信じて命をかけるのだ。
そんなオリアーナのすぐ鼻の先で……飛んできた矢がドロノキの眼窩を貫いた。
ネルが放った執念の一矢だ。
「あぐっ……」
矢はドロノキの左目を潰して深々とその頭蓋の中まで突き立っていた。
ネルはこの苦しい状況の中で見事に矢を命中させて見せたのだ。
しかし……ドロノキはなおも動こうとする。
その体は活動を停止しない。
「んぁぁぁ……シャクナゲ……しゃまぁぁぁ」
オリアーナはすぐさま腰帯の短剣を引き抜いてドロノキの首の後ろに突き立てた。
そしてドロノキの体から離れる。
なおも動こうとするドロノキの脳天を、エステルは飛び上がって鉄棍で力いっぱい打ち据えた。
さらにエリカがドロノキの喉を槍で突き差す。
最後にハリエットが斧を手に向かっていこうとするが、すぐに彼女は足を止めた。
「もう攻撃するところがないわ……っていうか、もう死んでるわよ。そいつ」
ドロノキは矢や刃に頭部や首を貫かれて立ち尽くしていた。
その目からは光が失われ、呼吸も止まっている。
怪人ドロノキの命の火はようやく燃え尽きたのだった。
その場にいる4人は大きく息をついて地面にへたり込む。
全員かなり疲弊していた。
唯一、立っているネルも後方で弓を射た姿勢のまま動けずにいる。
指や腕、足に至るまで筋肉が凝り固まってしまっていた。
矢を射ることがこれほど怖いと思ったのは初めてのことだ。
オリアーナを誤って射殺してしまうことがそれほど恐ろしかった。
ネルは内心で舌打ちする。
(アタシも随分と毒されちまったみたいだな。仲間……とかいうもんに)
ネルはオリアーナに歩み寄っていく。
そして大の字になって倒れ込むオリアーナを上から覗き込んだ。
「おまえ。何で生きてんだ?」
ネルの言葉に他の仲間たちもハッとして身を起こす。
「オリアーナ! あなた大丈夫なの?」
慌てて駆け寄る仲間たちは見た。
弾丸に抉られたオリアーナの革の胸当ての下に、かなり厚みのある鉄板が隠されていることを。
それが先ほどの銃撃からオリアーナの命を守ったのだ。
「そ、そんな分厚い鉄板を仕込んでよく動けましたね」
エステルは半ば呆れるようにそう言った。
他の面々も銃火器対策で革鎧の下に厚手の革を仕込んでいたりするのだが、金属類はどうしても重量があり機動性が落ちてしまうために、そこまで重装備にしていなかったのだ。
それほどの重量で従来通り動けるのはオリアーナの足腰の強さがあってこそだった。
「……アタシはどうせ皆ほど速くは動けない。それなら防御力重視のほうがいいと思った」
そう言うとオリアーナは胸に仕込んだ鉄板を撫で、皆はホッと安堵の表情を浮かべる。
「死んだかと思ったわよ」
「よかったぁ」
そんな仲間たちの歓喜の輪から1人離れたネルは広場の中を歩き回り、落ちている矢の中からまだ使えそうなものをいくつか選び出す。
矢を撃ち尽くして矢筒が空になってしまった。
弓兵にとって必ず付いて回るのは矢の確保だ。
矢がなければ弓兵は雑兵に等しい。
「あ〜あ。鉄仮面相手に撃ってたからなぁ」
落ちている矢の大半は曲がったり折れてしまっていて使い物にならなくなってい る。
まだ何とか使えそうな数本をネルがようやく確保したその時、塀の上に避難していた黒髪の男が手を振りながら大きな声を上げるのを聞いた。
「敵が来る! 多数だ! 早く上に上がってくれ」
その声にネルたち5人は顔を見合わせ、血相を変えて鉤縄を用い、塀の上へと上っていくのだった。
☆☆☆☆☆☆
バルコニーでは金髪と銀髪の女たちが激しく剣を交えていた。
プリシラは剣を振るいながらチェルシーを咎め立てる。
「王国の戦は多くの人を不幸にしている! チェルシー! あなたのやっていることはそういうことよ!」
「ワタシにはそんなことどうでもいい。ワタシが何のために生きているのか、あなたはもう知っているはずよ。今さら説教なんて冗談にしても笑えないわね」
チェルシーの目は怒りと憎しみに濁っている。
プリシラはそう感じていた。
「あなたは私怨で動いていい立場じゃない! あなたの行動が国を大きく動かしてしまうのよ!」
「黙りなさい。プリシラ。あなたは為政者の側の人間だから分からないのよ。利用される立場の気持ちが」
そう言うとチェルシーは一層激しくプリシラを剣で攻め立てる。
「王国は! 兄は! ずっとワタシを利用してきた。戦で役に立つ都合の良い妹として! ワタシはそれを甘んじて受けたわ。いつかクローディアの住む共和国に攻め込めると思ってね。兄はこの力とダニアの女王の血を利用した。ワタシは王国の力を利用する。ただそれだけの話よ!」
その話にプリシラは愕然とした。
チェルシーは王の妹でありながら、王国に隷属してきたようなものなのだ。
かつてクローディアは王国への隷属がダニア分家の未来に暗い影を落とすと思い、一族を率いて王国を出た。
その時に取り残されたチェルシーは、その後たった1人で王国への隷属という業を背負うことになったのだ。
それは一族の身代わりになったも同然だった。
同情すべき身の上だ。
自分もチェルシーと同じ立場であったら、クローディアを恨んでいたかもしれない。
そして彼女が自分を嫌うのもプリシラには分かる。
プリシラは女王ブリジットの娘としてダニアの民から愛されて育ってきた。
チェルシーとはあまりにも立場が違い過ぎる。
そんな自分がいくら理を説き、チェルシーの非を正そうと言葉をかけても、彼女の心に響くわけはないのだ。
(だけど……だけどまだ最悪の事態にはなっていない。まだチェルシーはギリギリ引き返せる)
プリシラは剣を振るう手を止めてチェルシーに問いかけた。
「もし……もしクローディアが今も変わらずあなたを愛しているとしても、それでもあなたはその剣でクローディアを斬るの? チェルシー!」
その問いにチェルシーは顔を怒りに染める。
「ふざけないで! そんな情にほだされる時期はとうに過ぎているわ」
「自分を愛してくれている人を斬るなんて、そんな恐ろしいことをしたら、あなたは一生自分を許せず苦しみ続けるわよ!」
「苦しみですって? 生まれてから今までずっと苦しくなかったことなんてないわ。ワタシにとって苦しみは常にこの胸にある。今さら苦しみが増えたところで、燃える家に火矢を打ち込むようなものよ」
そう言うとチェルシーは突進し、プリシラに激しい攻撃を加える。
プリシラはその猛攻を剣で受けて耐えるが、怒りに燃えるチェルシーの剣は感情的でいつものような的確さはないものの、その分だけ苛烈さを増している。
少しでも気を抜けば一瞬で押し込まれ追い詰められてしまうだろう。
チェルシーのすさまじい剣圧にプリシラは歯を食いしばる。
(くっ。チェルシーは絶対に間違っている。でも……)
しかしそれを彼女に説いても自分の言葉ではどうにもならないことをプリシラは痛感していた。
今のチェルシーには通じない。
16年間、不遇な生き方を強いられてきたチェルシーに、13年間愛されて育ったプリシラの言葉は届かないのだ。
言葉のやり取りはチェルシーの怒りを増幅させるだけの結果に終わり、プリシラは一気に追い込まれていく。
それほどチェルシーの剣は殺気に満ちて苛烈だった。
「プリシラ! あなたをここで殺して、あなたの首をクローディアに見せつけてあげる! そんな姪の姿を見たらクローディアもさぞかし悲しむでしょうね。いい復讐になるわ!」
「何ですって! あなたどうかしているわよ!」
プリシラも感情的になり、剣を押し返す。
チェルシーの憎しみは常軌を逸していた。
プリシラにとってクローディアは母親も同然の大切な存在だ。
そのクローディアが悲しむことを考えたら胸が痛くて仕方なかった。
そして憎しみをぶつけることでクローディアを傷つけようとするチェルシーに心底腹が立った。
「チェルシー! 自分が傷ついたからって人を傷つけていいことにはならないわよ! そんなことも分からないならアタシがここで叩き潰す!」
「出来もしないことを口にするのはやめなさい! 子供の虚勢は見苦しいわよ!」
2人は怒りのまま感情的に剣をぶつけ合った。
それを見守るショーナの顔が歪む。
だがショーナはハッとした。
争う2人の向こう側、バルコニーに飛び込んでくる人影を見たからだ。
飛び込んできたその人物は、争うチェルシーとプリシラを見ると雷鳴のような声を轟かせる。
「今すぐ戦うのを止めなさい! 2人とも!」
その声に弾かれたようにプリシラとチェルシーは動きを止めた。
そして声のした方を見て、2人は驚愕に目を見開く。
2人の視線の先に立っていたのは、銀色の美しい髪を夜風になびかせたクローディアその人だったのだ。




