第302話 『若き戦士たちの意地』
塀の上に上がったエステルは息つく間もなく10メートルほど北側に走り、塀の下に燃えるものが無いことを確認すると、篝火の燭台を蹴り倒した。
燭台は塀の上から落下して広場に落ちるが、しっかりと油を染み込ませた篝火は地面に散らばっても消えない。
エステルはすぐさま鉤縄のところに戻り、スルスルと縄を伝って下に降りていく。
そして仲間たちの見守る傍を駆け抜けて、落ちてなお炎を灯す篝火の薪を拾い上げた。
手袋を通しても熱が伝わってくるが、それを耐えてエステルはさらに駆け出す。
こうしている間にもネルは1人でドロノキと戦っているのだ。
「ネル!」
エステルは戦い続けるネルに声をかける。
ネルはドロノキの攻撃を避けながらその声に反応して、視線をエステルに向けた。
エステルは篝火を掲げ、次にネルを指差してから自分の腰袋を指差す。
それからドロノキを指差して次に自分の頭を差し、最後にもう一度篝火を掲げた。
事前に打ち合わせの一切ない急造の合図だが、ネルはすぐに理解したようだ。
ここに来た際にドロノキの大砲を破壊したのはネルの火矢だ。
弓兵であるネルはいつでも火矢を放てるように、矢に巻き付ける専用の布切れと小型の油壺を身に着けている。
だが問題はネルが火矢の準備をするわずかな間、誰がドロノキの相手をするかということだ。
そのことを訝しむネルに、エステルは拳で自分の胸を叩いて見せた。
自分がドロノキの相手をすると。
ネルは思わず顔をしかめた。
エステルの戦闘能力はネルから見れば凡庸だ。
ドロノキ相手に1人で戦うのは危険すぎる。
だがそんなネルの懸念をよそにエステルは、炎を消さぬよう注意して足元に篝火をそっと置くと声高に叫ぶ。
「そこの戦士! 我が名はエステル! あなたも名乗りなさい!」
堂々たるエステルの声にドロノキはうるさそうに顔を歪める。
「うるさいなぁ。俺はドロノキだよ。君の名前なんてどうでもいいよ。すぐ殺しちゃうし」
そう言うとドロノキはネルを狙っていた鉄棍をエステルにも向けて振り下ろす。
エステルは後方に飛び退ってこれをかわした。
そしてドロノキがエステルに注意を払った一瞬、ネルが腰袋から取り出した油壺の中身をドロノキの頭部に向けて浴びせかけた。
驚いたドロノキは奇妙な悲鳴を上げる。
「うひゃあ! 冷たい! 臭い! 何これぇ!」
ドロノキは怒りに燃えて鉄棍を横薙ぎに払い、ネルの頭部を狙った。
しかしネルはそれをしゃがんでかわすと、ドロノキのすぐ脇をすばやく転がって反対側に出ようとする。
だがドロノキはそれを見逃さずにネルを蹴り飛ばした。
「くはっ!」
ネルは肩口をドロノキに蹴り飛ばされて大きく吹っ飛んでしまう。
ハッとしたエステルは両手に自身の鉄棍を持ち、ドロノキに迫った。
「同じ武器とは奇遇ですね」
そう言うとエステルは果敢にドロノキに打ちかかる。
離れた場所からそれを見守るエリカとハリエットが息を飲んだ。
ハリエットは唇を噛みしめ、エリカに声をかける。
「……エリカ。右腕だけでこの2人を守れる? アタシ、エステルの加勢に行かなきゃ。エステルが死んじゃう」
「加勢ならアタシが行く。アタシは左腕が使えないだけだから。ハリエットは肋骨やられて動きにくいでしょ。というかオリアーナ! 起きなさい!」
そう言うとエリカは水袋を取り出して、中の水をオリアーナの顔に思い切りかけた。
突然の冷たい感触にオリアーナが息を吹き返す。
「……プハッ!」
オリアーナはガバッと起きて両目を見開いた。
そして痛みに顔をしかめる。
額がパックリ割れているのだ。
ハリエットがすぐに腰帯の一部を破り、それをオリアーナの額に巻いて止血を図る。
「オリアーナ。大丈夫? まだ戦える? これ何本に見える?」
そう言うとハリエットはオリアーナの前で指を1本立てる。
オリアーナは静かに立ち上がった。
「……1本。アタシはまだ戦える」
「よかった。今、ネルとエステルが戦ってくれている。エステルに何か考えがあるみたいなの。時間稼ぎが必要だと思うから、エステルたちに加勢してあげて」
ハリエットの言葉にオリアーナは頷き、少し離れた場所に落ちていた篝火の燭台を拾い上げた。
エステルが塀の上から蹴り落としたものだ。
鉄拵えのそれを手にオリアーナはドロノキに向かって行った。
「ほらほら~! 君、弱いね~! すぐ死んじゃうよ~!」
「くっ!」
ドロノキの振り回す鉄棍を前に、エステルは近付くことも出来ずにジリジリと後方に追いやられていく。
このままではすぐに壁際に追い込まれてしまうだろう。
そうなる前にエステルに加勢するべく、オリアーナは鉄拵えの燭台を手にドロノキの真横から襲い掛かる。
「うおおおおおっ!」
「またおまえ! 嫌な奴!」
ドロノキはオリアーナが突き出すその燭台を鉄棍で弾き飛ばす。
だがその瞬間にオリアーナはドロノキに一気呵成に飛びかかった。
そしてその顔面を拳で殴りつける。
鉄仮面の上からでも構わずに二度三度と拳を叩きつけた。
「おおおおおおっ!」
固い鉄仮面を殴りつけた拳が血で染まると、今度はオリアーナは肘をドロノキの首元に叩き込む。
鬼気迫る肉弾戦にドロノキはわずかによろめくが、それでもこの怪人は倒れなかった。
「痛い痛い! よくもやったな!」
ドロノキはオリアーナの頭に頭突きを浴びせ、オリアーナがのけ反った隙に鉄棍でオリアーナの側頭部を狙う。
「オリアーナ!」
思わずエステルが叫び声を上げたが、オリアーナは後方に倒れ込むようにして鉄棍をギリギリでかわしていた。
そしてそのまま後転して地面を転がる彼女は先ほど地面に落としていた鞭を拾い上げると、起き上がりざまそれをすばやく振るった。
鞭は生きている蛇のようにしなってドロノキの首にグルグルと巻き付く。
「ウギッ!」
ドロノキは不快そうに鞭をちぎり取ろうとするが、首にしっかりと何重も巻き付いた鞭は簡単には外れない。
怒りに燃えるドロノキは先ほどのように鞭を引っ張り、オリアーナを力で手繰り寄せようとした。
だが、今度はそう簡単にはいかなかった。
オリアーナは腰を落として踏ん張る。
「二度目は負けない」
歯を食いしばってそう言うオリアーナだが、ドロノキの力は強く、彼女の足は地面を擦りながら徐々に前へ前へと出てしまう。
しかしそこでエステルが動いた。
オリアーナの背後からその腰にしがみつき、エステルも腰を落として踏ん張ったのだ。
2人がかりでドロノキの力に対抗する。
だが、それでもなおドロノキの方が力は強い。
「2人でも無駄だよ~!」
力比べに夢中になるドロノキは、グイグイと鞭を手繰り寄せる。
オリアーナもエステルも踏ん張るが、2人はどんどんドロノキの間合いに引き寄せられていく。
「な、何て力……」
「うぐぐ……」
ドロノキは鉄仮面の中から爛々と輝く両目を覗かせる。
今度こそ2人の女を嬲り殺しに出来るという欲望がドロノキの全身に喜びを与えていた。
そのせいでドロノキは忘れていたのだ。
自分の鉄仮面が先ほどネルに浴びせられた油まみれであることに。
そして……飛来した火矢がドロノキの鉄仮面に当たって弾かれた瞬間……ドロノキの頭部が激しく燃え上がった。
「……あ? あ……あぎゃあああああっ!」
夜空に噴き上がる炎と共に、ドロノキの悲鳴が響き渡った。




