第6話「女王」
ミュリエットミンスター区は、ヤーネンドンの中心地として発展して来た。
ミュリエットミンスター宮殿、ミュリエットミンスター大聖堂、国会議事堂。
歴史的な建造物も多い。
その地下は、まさに享楽の楽園だった。
色とりどりの肌、髪、そして瞳が一斉に隻腕の青年と異邦人を見つめる。
すべての女たちが弾むような生気に満ち満ちていた。
すらりとした躰は、男たちが夢に見る女神さながら。
その美貌には、一点の非の打ち所もない。
あるいは、夢魔のように毒々しい危険を孕んでいた。
凄艶な女たちは、若い男に血が燃え上がるような情欲を送り込まぬはずがなかった。
「ここにいる者たちは、まだまともだ。」
やや冷笑を込めて隻腕の青年がいった。
すっかり異邦人は、この別世界に怯えている。
女たちが来訪者に熱心な視線を送るのは、物珍しいからだけではない。
彼女たちは、外界を知らず、ここで主人に奉仕するために育てられた。
常人の神経では耐えられぬ快楽を注がれ、様々な教育と魔術と秘薬が、その身体を創っている。
彼女たちにとって男を見れば自然と肉体を捧げたくなってしまう。
そう仕向けられているのだ。
「もっと人間離れした姿の人間を集めている悪趣味な奴らもいる。」
と付け加えたが、その話は一層、異邦人を怖がらせた。
やがて洞窟世界に現れた宮殿の聖域に二人は、辿り着いた。
そこは、白大理石と黒大理石を組み合わせ、黄金と宝石を埋めた玉殿だ。
しつこいようだが隻腕の青年は、まるで物怖じせず、初めて来たはずの場所を進んでいく。
黄金の皿を褐色の娘が恭しく頭の上に掲げつつ、膝を折って座っている。
そこから肉の塊を摘まみ上げ、女が無造作に食い千切った。
「ここを何処と心得おるか。
薄汚い賎民共が気安く足を踏み入れて良い場所ではないのだぞ。
怖れを知らぬ者よ。
寡人は、ソナタ。
聖ウルスの恩寵賜る大ヴィネア帝国の治天君であり、アルスの最初の子供たちの長女、地上を統べる真の大王であるぞ。
よもや寡人が何人が知りたる後も、天子の前に畏みなく進み出て拝謁を望むのは、如何なる愚者か?」
一人の少女が口元を肉料理のソースで汚しながらそう言った。
その姿は、ほとんど半裸に近く文明人としての装いを遠い昔に忘れ去っている。
着衣は、禁欲であり、彼女の哲学には、精進の二文字が削り取られているのだろう。
隻腕の青年は、左袖を一度払って少女に向かって口上を述べる。
「私は、始祖アルスの子ら、最初の13人の一人、マルヴェスの末裔。
母はラウレーナ・レツィア、父はセタハストゥール。
ヤマルのグロアータ家のハビである。
私と共にここに立つ若者は、大聖日元帝国の冬目銀太郎というものである。
本朝には、ヴィン語を学ぶために来たりなば、元より君にとっても客人なり。
卑小なる者が大身を縋り、願い求め訴えるは、君を慕うが故なり。
乃ち三つ目のミゲルサンドロが所蔵し、今は君の手にある”死者の掟”を借り受けたい。
君が聖上たるを自負するならば、聖人の道を選ぶことを欲する。
また聖君足らずとも、聖君の道を選ぶことを私は、求めり。
この願い退けなば君は、万人の誹りを受けよう。
速やかに応じられんことを………。」
青年が一気呵成に用件を述べる。
それを聞いていた少女は、肉を齧りながら眠そうにいった。
「……名も無き者よ。
伯のことは一先ず擱く。
日ノ元の某よ。
寡人が何者か、貴様は分っておるのか?」
「………え?」
急に声をかけられた異邦人は、目を丸くして驚いた。
少女は、明らかに耳慣れないヴィン語を操っている。
その発音は、地上の人々とは、かなり異なっていて古典時代のものだと分かった。
少女は、辺境の蛮人に考える時間を与えているのか指のソースを舐め始める。
その指には、指輪が幾つも嵌められているが、どれも人間的な造詣をしていない。
宇宙の邪悪な意志が育てた異形の生物を元に意匠した装飾が施されている。
「地下世界の女王様では?」
と恐る恐る異邦人が答える。
すぐに隻腕の青年が顔をしかめた。
「たわけ。
寡人が大ヴィネア帝国の女王様なのだ。」
そういうと少女は、ソース塗れの骨を異邦人に投げつけた。
そして新しい肉を掴み取るとまた無作法に食らい付く。
「馬鹿な東夷め。
これがどういう意味なのか…いーみーなーのーかァー。
伯に分かるかの?」
少女は、少しずつ現代的な発声に近づけていった。
異邦人に聞き取り易いようにしているのだろう。
「……ソナタ4世は、もっと肥ってるんじゃ?」
「あれは、寡人の子孫じゃ。
寡人は、これでも90世紀を生き延びておる。
自分でも何歳か分らんのじゃ。」
ソナタは、まるで子猫でも抱き上げるように一人の踊り子を抱き寄せた。
そして女の頭を撫でながら異邦人に宣告する。
「伯は、見てはならぬものを見たのじゃ。
もはや地上に帰す訳にはいかぬの。」
「ええっ!?」
異邦人は、びっくりして飛び上がった。
ソナタは、気の毒そうには見えない顔で話し続ける。
「伯、女は好きか?
丁度、女どもの世話をする男が欲しかった。
悪い話ではなかろう?
寡人と共に地底に住み、気ままに女どもを褥に侍らせ、好きにするが良い。
皆、寡人以外に相手がおらず、頗る無聊を囲っておるのでな。
寡人が許す限りは寿命を与える。
天が落ち、地が裂け、海が干上がるまで生きるのじゃ。
この寡人自身、少々、退屈でならぬでな。」
「いやです。
故国には、両親がいて家を継がねばなりません!」
異邦人は、堂々とソナタの申し出を断った。
当然、ソナタにもその返答は、想定の範囲内である。
「そうか。」
とソナタが呟く。
小さな女王は、黄金のサンダルを足で引っ掛けると象牙で作られた玉座を降りる。
そして豊満な四肢を、胸や尻を揺すり、旋回する踊り子たちの間を歩み異邦人たちに向かってくる。
「そうか。」
またソナタが呟いた。
少女は、ゆっくりと歩みを進め、異邦人の前に立つ。
いつの間にか隻腕の青年は、玉殿の下まで下がっていた。
踊り子たちは、許しがあるまで踊り続けている。
静止しているのは、二人の男女だけだ。
「……東夷の首を捩じ切るのは、はじめてじゃ。
どこまでやれるか楽しみじゃの。」
侮蔑と挑戦を込めてソナタがいった。
異邦人も臆することなく応じる。
「南蛮人の血の色が私たちと同じか確かめてやろう。」
「それは………ッ!」
互いの腕が稲妻のように翻り、己を撃つ敵の手を受け、また相手を撃つ。
最初の攻防で異邦人の拳がソナタの顔面を跳ね上げた。
「ぶッ!?」
小さな頭が揺れ、黒い髪が波打った。
血が零れ、切れた唇が腫れあがる。
「知っておるかの、東夷?
聖ウルスは、正しき者に恩寵を賜るのじゃ。」
「………左様か。」
再び距離を一気に詰め、激しい攻防が繰り返される。
共に幾度か相手の胸を撃ち、相手の頭が揺れた。
血飛沫が飛び散り、踊り子たちの肌に赤い点々が着いた。
それは、一層、二人を興奮させ、戦闘への意欲を掻き立てる。
こめかみの血管が膨れ、視界が狂ったようにおぼろげに変わる。
「おう、これは良いの。
知らぬ遠国より来た稀人とのじゃれ合いは、愉しいの。」
ソナタの顔面は、擦れた拳が作った裂傷や打撲痕があちこちに出来ている。
だが特記すべき変化は、彼女の身長が伸び、やや大人びた印象に変わっていることだ。
「じゃあ、つまらなくしてやる。」
異邦人が獣のような形相で答えた。
次の瞬間、さすがに踊り子たちが悲鳴をあげた。
命令があるまで決して勝手に踊りを止めてはならないという規律を忘れたのである。
「ああッ!!」
「女王様!!」
「きゃああッ!!」
それは、次に始まった肉弾戦がそれまでと様相を一変したためだ。
もちろん身体を成長させたソナタの攻撃が一層、鋭く激しくなったこともある。
だが異邦人が投げ技を解禁したことにあった。
ソナタは、右腕を取られ、大理石の床に投げつけられた。
その上、異邦人は、倒れたソナタへ更に拳を振り下ろしたのである。
「げう!?
だあッ…!!」
しばらく異邦人が一方的にソナタを連打していた。
だがソナタは、完全に不利な体勢から超人的な俊敏性で脱出する。
その動きは、神代の女戦士の面目を施すものだった。
まだ人と共に神が地上にあり、魔が跋扈し、血風止まぬ神話の時代。
彼女も始祖たる英雄アルスの子らとして悪神たちとの戦いに参加したであろう。
「うう……。
そういう技は、見たことがないのう。」
悔しそうにソナタが頭を振った。
また大人に近づいて手足が長くなっている。
その姿は、完全に成人に達したものと思われた。
踊り子たちは、主人の命令を待たず蜘蛛の子のように逃げ出した。
玉殿には二人の他は、列柱と投げ出された料理と食器、玉座だけが残った。
「っぷ!?」
颶風を巻き起こしてソナタの蹴りが異邦人を跳ね上げる。
大の男の身体が小石のように蹴り上げられた。
「た!」
しかし異邦人は、猫のように着地し、すぐにソナタと対決する。
二人は、そのまま撃ち合い、腕が痙攣するまで攻防を続けた。
次第に腕が下がり、防御が甘くなると鋭い一撃を貰った。
まるで相手にしっかり守れと叱咤するように拳が飛んでくる。
「あ………うううッ。」
戦いは、ソナタの勝利で終わった。
異邦人は、膝から崩れ去り、血塗れで大理石の床の上に倒れた。
ソナタの動き、体力は、完全に人間の限界を越えている。
二人の戦力差は、異邦人の武術がソナタの知らぬ物であったこと。
また約1千年の技巧の積み重ねであった。
しかし最終的には、古代人の武力が現代人の工夫を上回ったのである。
「………皇祖と奉られておっても。
寡人は、牢獄の住人に過ぎぬ。」
血を吐きながらソナタは、黄金の小瓶を拾う。
そして良く冷えたワインを異邦人の顔に掛けてやった。
「名も無き者よ。
残念だが”死者の掟”の写本は、寡人の手許にない。
―――あれは、根も葉もない噂に過ぎぬ。」
「………。」
隻腕の青年は、浮かない表情で立っていた。
これは、予想できない事態ではなかったが望んだ結末ではない。
「地上の恐竜は、由々しき事態なれど寡人には、何も出来ぬ。
ここには、愚かな寡人を慰める人間牧場があるのみよ。」
玉座の上でソナタは、腹立たしそうに白状した。
魔法文明が爛熟を迎えると多くの術を封じる法が発明され、次第に用を為さなくなった。
神話の時代に生きた者たちが知る術は、新しい術に置き換えられたのである。
真の権力は、真の特権者だけが持てば良い。
それは、政治も経済も魔法も同じだ。
利用できる人間を制限してこそ支配者。
常にルールは、支配者によって改められる。
ソナタは、その権利を失って久しいのだ。
「寡人は、旧支配者なのじゃ。
寂しいがな。」
すっかり隠居させられた姑の溜め息である。
姿は、20代前半に見えるから滑稽だ。
だが”死者の掟”だけは、違う。
あの本に現れる呪文や儀式は、その都度に生れ出る。
封じられることがない神秘の源泉。
超越的視座。
神秘の智慧に触れることが叶う本の形をした幻視の器。
つまり遠見の玉を高次元に発達させたものと言える。
通常、人間は肉体―――目や耳を通して世界を知覚する。
その制限を解放するには、霊体になるしかない。
故に人間は、霊魂になって初めて天界や地獄、冥界に至ることができる。
”死者の掟”は、霊魂が望む世界に向かうための教本。
しかし実態は、生身のまま任意の次元を覗くための呪文書なのだ。
生きながらあらゆる異世界、異次元を旅し、元の次元に帰還する。
その中に天国や地獄のような空間があったのだろう。
この体験をアヴド・エル・アトバラナは、死後の世界を見たと考えたのだ。
「……何か方法を知りませんか?」
隻腕の青年も白状した。
あとは、本当に探偵に頼る他ない。
「………黒い不語仙。
………と言いたいがあれは危険だし、ここにはないの。」
そこまで言ってソナタは、狂ったように笑った。
それは、自嘲の哄笑であった。
「ひひひひ……。
ここには、朽ちゆく定めの過去があるのみじゃ。」