90.愛娘のお願い
雪平家の晩餐会の少し前、『バイ友』のために雪平家にやって来た幸太郎は、最初に沙羅の父重定の書斎を訪れていた。
「失礼します」
「やあ。幸太郎君。座って」
「はい」
ソファーに座った幸太郎に重定が言う。
「さ、これが頼まれたものだ」
重定はそう言って数枚の書類を手渡す。それは重定が全国各地に持つプライベートの別荘についてまとめた書類。その一枚を指差して重定が言う。
「そこは私も外部との連絡を絶ちたい時に稀に利用する別荘だ。電気ガスなどは通っているが電話やネット環境はない。相当な山奥なので人もまず来ない。そんな感じで良かったかな?」
幸太郎は何度も頷いて答える。
「すごい理想的な場所です。でも本当にいいんですか、無料でお借りして?」
「ああ、君には随分と世話になっているからね。私も何らかの形で返したいと思っていたところだよ」
「ありがとうございます。本当に嬉しいです」
「予定は十日ほどだったかな? その分の食料や生活用品は準備させておく。幸太郎君は着替えと勉強道具だけ持って向かってくれ」
「はい、何から何までありがとうございます!」
重定が頷いて言う。
「問題ない。学生の本分は勉学。それをしたいと言うならば大人の私が手伝うのは当然のこと。ただ……」
重定の顔が少し暗くなる。
「本当に沙羅たちには内緒で行くのか?」
「はい。その間は『バイ友』もお休みさせてください。すみません」
「うーん、仕方ないかな。幸太郎君には随分と負担をかけてしまっているからね。しばらくの間頑張って来たまえ、勉強を」
「はい!」
幸太郎は夏休みに勉強合宿を計画していた。
バイトの掛け持ちや深夜のSNSなどで碌に勉強時間が確保できず、学校の成績が落ちてしまっている現状をどうにかしようとずっと悩んでいた。
そんな彼が選んだのが『十日間の勉強合宿』である。誰も来ず、電話もネットもない環境でひたすらひとりで勉強に打ち込む合宿。
最初は安ホテルに籠ろうと思っていたが、未成年だけでの宿泊ができないことを知り思い切って重定に相談。晩餐会に沙羅と出席する代わりに、プライベートの別荘を貸してくれる約束を取り付けた。
このことは母親と別荘の持ち主である重定以外は誰も知らない。遅れた勉強と特待生になるための学力アップのために時間を費やす。
「それから幸太郎君」
「はい」
重定が改めて幸太郎の顔を見て言う。
「沙羅と行っている『バイ友』なんだが、そろそろ終わりにしようかと思っている」
幸太郎は無言で重定の顔を見つめた。
「ありがとうございます」
幸太郎は家から約3時間、山奥の重定の別荘まで送ってくれた雪平グループの運転手に頭を下げてお礼を言った。運転手も頭を下げてそれに答える。
「十日後にお迎えに参ります。どうぞごゆっくり」
「はい、ありがとうございます!」
運転手は再度頭を下げると車を運転して戻って行った。
「さて……」
幸太郎はその深き山中に建つ重定の別荘を見つめる。
「凄いな……、マジで……」
これほどの山中なのに木々を使っているという点を除けば、まったく周りに調和していないモダンな建物。
突き出した四角形の大きな屋根に、ガラス壁をふんだんに取り入れた長方形の造り。丸太を組んだような山の家とは全く別世界の建物である。
「お邪魔します……」
誰もいない別荘に幸太郎が入ろうとする。
「ん? これってどうやって開けるんだ?」
鍵穴がない。
そう言えばカギだと言って渡された変なカードがあったことを思い出す。
「これかな?」
そのカードをドアの辺りにかざす。
ピピッ
電子音とドアに付いた電気が緑色に光る。
「あ、開いた」
ようやく開いたドアから幸太郎が室内へと入る。
「うん、普通に凄い」
室内はキッチンにバス、広いリビングが置かれている。木材を贅沢に使った温かな造りで、ここに居るだけで癒されるような気持ちになる。
静かに過ごしたいためかテレビはない。その代わりにリビングには西洋風の暖炉があり、よく見ると外に薪を割る場所も見える。
幸太郎がキッチンに行き、置いてあった大きな冷蔵庫を開く。
「おお」
中にはぎっしりと食材が詰まっていた。生ものは少なめ。保存の効く物が多く入れられている。
「有難い! さあ、勉強。頑張るぞ!!!」
幸太郎はこれからの数日間、思い切り勉強できることに喜びを感じていた。
「えー、お兄ちゃん。勉強合宿行ったの!? ひとりで!!??」
夕方、部活からアパートに帰って来た妹の奈々が、幸太郎がいないことを不審に思い母親に尋ねた。母親が言う。
「そうよ、最近勉強できなかったから、雪平さんところの別荘お借りしてしばらく籠るんですって」
「なんで、奈々は? 奈々は行かないの……?」
既に泣きそうな顔の奈々。母親が言う。
「ひとりで勉強に集中したいんですって。だからこのことはほとんど誰も知らないの」
「奈々は、奈々も行きたいよ……」
「だーめ。奈々もいい加減お兄ちゃん離れしなさい。もう中学三年……」
「うえーん!!!」
「な、奈々!?」
突然部活の服のまま泣き出す奈々。母親が呆れた顔で言う。
「十日で帰って来るから。泣かないの!」
「と、とおかもぉ……、うえ~ん!!! イヤだよ。お兄ちゃんに会いたいよー!!」
「はああ……」
母親は大変だろうと思ってはいたが、初日からすでに手に負えなくなっている大きな子供に頭を抱えた。
「爺、爺はいますか!」
「はい、お嬢様」
御坂マリアに大きな声で呼ばれた執事がすぐに駆け付ける。マリアが不満そうな顔で執事に言う。
「それで幸太郎さんの居場所は分かりまして?」
執事が困った顔をして答える。
「お嬢様」
「なに?」
「まだ先程依頼されたばかりでございます。幾らなんでもそう早くは見つかりません」
「うーん」
腕を組んで悔しそうな顔をするマリア。そして閃いたような仕草で執事に言う。
「そうだわ。わたくしが直接探しに行けばすぐに見つかりましょう。ねえ、爺。名案でしょ?」
「お止め下さい」
「なぜかしら? 惹かれ合う者同士が巡り合うのは自然の摂理。そうは思いせぬか?」
「一流の探偵に依頼しております。しばしお待ちを」
「そうですか。致し方ありませんね……」
マリアは窓の外の空を見て大きくため息をついた。
幸太郎からメールを受け取った沙羅。その夜、帰宅した父重定を玄関で迎えた。
「おかえり、パパ」
「さ、沙羅!? た、ただいま!!」
重定は年十年ぶりかに沙羅に玄関で出迎えて貰い感動の渦に包まれていた。
(こんなに幸せなことがあっていいのだろうか。もう一度玄関の外に出て入り直したいぐらいだ!!)
そんな感動に涙する重定に沙羅が言う。
「ねえ、パパ」
「何だい、沙羅」
「幸太郎が消えたの」
(うっ)
幸太郎からは今回の別荘行きのことは沙羅たちには口外しないとお願いされている。ひとりでじっくりと勉強がしたい。だから彼は誰にも邪魔されない環境を必要とした。重定が引きつった顔で答える。
「そ、そうなのか。それは心配だね。どうしたのかな……?」
仕事の取引で無数の顔とポーカーフェイスで商談を乗り切ってきた重定。しかし愛する娘の前ではその顔はたったひとつとなる。沙羅が言う。
「ねえ、パパ」
「な、なに?」
「もし私に嘘をつくのなら、もう一生口利かない。その上で聞くわ。幸太郎はどこへ行ったの?」
重定が愛娘に向けるたったひとつの顔、それは『全面服従』。幸太郎との男の約束は娘の前に無残に、はかなく砕け散った。
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