89.幸太郎、失踪する!?
夏休みに入って初めての家庭教師の日、胡桃は幸太郎を待ちながらキッチンで母親と話をしていた。時計を見ながらそわそわしている娘に母親が尋ねる。
「どう? あれからちょっとは進んだ?」
何度もスマホで時間をチェックしていた胡桃が答える。
「うーん、一進一退ってとこかな」
母親は夕飯の支度をしながら胡桃に言う。
「そんなにすぐには物事は進まないわよね」
「うん」
少し間を置いて胡桃が言う。
「先生ね、好きな人がいたみたい」
「いた? って言うことは今は違うの?」
「うん。多分ダメだったんだと思う」
「じゃあ、あなたにも十分チャンスはあるってことよね!」
「多分……」
少し元気のない娘に母親が近付いて言う。
「ああいうタイプはね、前にも言ったけどどんどん押して行かなきゃダメなの。手を緩めたら負け。どんどん行きなさい!」
「そうだよね。うん、そうする!」
「夏の予定は?」
「海行く約束したよ」
「でかした、娘! 戦闘着は?」
「ビキニ予約した」
「うむ。エッチなやつね」
「うん……」
胡桃が恥ずかしそうに答える。
「よろしい」
母親が頷いて言う。
「軽い既成事実作っちゃうのもありだからね。母が認めるわ」
「え、あ、そうだね……」
胡桃の頭に頬にキスしたことが思い出される。
ピンポーン
「あ、来た!」
「頑張れ、娘っ!!」
「うん、頑張って来るね!!」
胡桃は幸太郎を迎えに玄関へと走った。
「そうですか、斗真さんが……」
幸太郎は斗真の状況について簡単に胡桃に話した。最初に彼女の面接をしたとは言え、数回しか会っていない斗真をどこか遠くの人としか感じていない胡桃。それでも最後の言葉は彼女を期待させるには十分であった。
「やっとはるかさんと一緒になれたんですね」
幸太郎は斗真とはるかが正式に付き合うことになった話をした。幸太郎にとっては同じバイト仲間であるはるかと斗真を祝いたい気持ちで話つもりであったが、胡桃にしては別の意味で嬉しい話であった。
「好きな人と一緒になれるって素敵なことですよね」
「うん、そうだね……」
幸太郎が小さく答える。
(先生の中にはまだどこかにはるかさんがいる。小さくなったけど、きっとまだいる)
「そう言えばもう夏休みだけど、勉強の計画はできてるの?」
「はい、ばっちりです!」
(だけど正式な住人はまだいないはず)
「そうなんだ。夏休みは重要だからね。まだ受験は先だけど今遊んじゃうと後で苦労するよ」
「はい」
(だから私が押して押して押しまくって、先生の心を私でいっぱいにする)
「ちなみにさ、胡桃ちゃん」
「何ですか?」
「夏休みの勉強の計画ってどんななの? 教えてくれる?」
(夏休み? もちろん『胡桃のLOVE LOVEデート計画 inビーチ』発動させます!!!)
「計画ですか? うーん、今はまだ秘密です!!」
幸太郎が少し困った顔をして言う。
「秘密なの? 俺も手伝いたいから教えて欲しいなあ」
胡桃が笑顔で言う。
「もちろん先生にはいーっぱい手伝って貰いますよ!! って言うか先生いないと始まらないし」
「そうか、うんうん。俺でできることなら何でもするよ!!」
「本当ですか!? 約束ですよ!!」
「ああ、約束する」
「じゃあ……」
胡桃は幸太郎に右手の小指を差し出す。
「え、何これ?」
「約束です。もし先生が約束破ったら、針を千本飲んで貰います。本物の」
「え、あ、ああ。大丈夫。俺は約束は守るよ……」
少し自信がなくなってきた幸太郎。それでも笑顔で指切りをする胡桃を見て嬉しくなる。胡桃が思う。
(時間は掛かっても必ず先生を落とします。先生の中を私でいっぱいにするまで全力で走り抜けます!)
「ね、先生」
「え、ああ、針はちょっとヤダかな。他のなら……」
「だーめ」
「……はい」
胡桃は幸太郎の顔を見てにこっと笑った。
「それじゃあ、行ってきまーす!!」
夏休みに入った城崎家。部活のために家を出る奈々が元気に挨拶をする。
「ああ、気を付けてな」
幸太郎が奈々を見送る。
「お兄ちゃん、ちゃんと家でお利口にしてなきゃダメだよ。分かった?」
「はいはい。俺は犬か」
「お母さん、お兄ちゃんどこにも行かないように見張っててね」
「馬鹿なこと言ってないで早く行きなさい」
「は~い!」
なぜか投げキッスをして部活に向かう奈々。それを見送ってから幸太郎が母親に言った。
「じゃあ、俺も行ってくるね」
「本当に奈々には内緒にしておくの?」
心配そうな顔の母親が言う。
「ああ、あれ見たろ? いい加減兄離れしなきゃいけないんだ」
「そうねえ、確かに。まあ、あなたが決めたこと。束の間だけど、頑張って来てね」
「ああ、助かるよ。母さん」
幸太郎は自室に行き、置いてあった大きなショルダーバックの中身を確認する。そしてそれを肩にかけ玄関へと向かう。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ、気を付けてね。雪平さんにもよろしく伝えておくれ」
ちょっと考えた幸太郎が答える。
「うーん、誰にも会わないからなあ……、でもちゃんとお礼はしてあるから大丈夫」
幸太郎はそう言って手を上げるとひとりアパートを出た。
その日の夕方、幸太郎からその知り合いや友達に対してあるメールが送られた。
学校の帰りに幸太郎からメールを貰った胡桃が口に手を当てて驚く。
(え、なに!? 数日間家庭教師のバイトを休むって……、連絡も取れなくなるってどういうこと!?)
胡桃はすぐにスマホから幸太郎に電話をするが電源が切られており繋がらない。メッセージも送ったが既読にはならず返事もない。
(先生……、どうしちゃったんですか……)
スマホを握ったまま胡桃はひとりうなだれた。
(どういうことですの? 一体どういうことです!? せっかくお友達になれたのに!!)
マリアは突然送られて来た幸太郎のメールを何度も見て思った。胡桃同様に電話をかけようがメッセージを送ろうが返事はない。
(せっかくの夏休み。一緒にお買い物やお食事に行こうと思っておりましたのに!!)
「爺、爺はいる!?」
マリアが執事を呼ぶ。
「は、お呼びでしょうか。お嬢様」
すぐにドアを開け現れる執事。マリアが言う。
「幸太郎さんが行方不明になったの。全力で探して頂戴。すぐによ!!」
「御意。しばしお待ちを」
執事は頭を下げすぐに退出する。
(夏休みは仲を深めるいい機会。絶対逃しませんわよ!!)
マリアは真っ赤なマニュキュアを眺めながらひとり思った。
(何これ、『バイ友』しばらく休むですって!?)
沙羅のスマホに幸太郎からのメールが届いていた。沙羅がそのメールを見てじっと考える。
(こんなに休んじゃって家計は大丈夫なの? そもそもせっかく友達になってあげたのに、いきなり来なくなるってどういう意味!?)
沙羅はすぐに幸太郎に電話をかける。
『お掛けになった電話番号は現在電源が切れているか……』
「ふざけないでっ!!」
沙羅が電話を切る。
「ふざけ、ないでよ……」
沙羅は予想以上に自分が悲しんでいることに気付き驚く。
(私を、ひとりにしないでよ……)
沙羅は幸太郎が来ないと分かった途端、言い表せぬような孤独を感じ小さく震えた。
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