64.ごめんね。
その日はるかは大学の午後の講義が休講となった為、お昼過ぎにファミレスのバイトへ向かった。何気ない日常。ありふれた日々のひとコマ。その当たり前がファミレスにいた社員の話で一変した。
「聞いた? 八神が事故ったんだって」
真っ白になる頭。
はるかはそのまま心の中で何度も斗真の無事を祈りながら病院へと走った。
はるかは目に涙をためて言った。
「やっぱりちゃんと教えて欲しかったな……」
辛い斗真の事故。
それに比べれば彼女の存在など些細なことだったかもしれないが、決してこのタイミングで聞きたいことではなかった。
重なる辛い現実。限界のところで踏みとどまっていたはるかの気持ちが、足元から音を立てて崩れ始める。
しかし暗闇に落ち行くはるかの手を、幸太郎の手がぎゅっと握りしめた。
「う、ううっ、ごめんな、さい……」
(涙?)
幸太郎が下を向き、肩を震わせながら大粒の涙を流している。
「ごめんなさい、俺、偶然見ちゃって……、はるかさんに言わなきゃと思っていたけど、はるかさんが、悲しむのを見たくなくて、でも俺、分からなくて、どうしていいかずっと……」
幸太郎は制服の袖で溢れる涙を拭きながら涙声になって言った。
「ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……」
(幸太郎君……)
はるかはその涙を見て理解した。
――私、彼を苦しめていたんだ
辛い事実を知ってしまった幸太郎。
伝えれば自分が苦しむのは分かっていたこと。優しい彼だから、優しいだけその責任を重く感じていた。
(自分の色恋沙汰に何の関係もない彼を巻き込んで苦しめていたんだ。ダメなのは、私じゃん……)
はるかは暗闇に落ちそうだった自分の足に力を入れ、目の前で涙を流す男の子を見つめる。そしてすっと立ち上がり、震えながら涙を流すその頭を抱きしめた。
(え?)
はるかが言う。
「私が君を苦しめちゃってたんだね。ごめんね、幸太郎君」
「はるかさん……」
「私の、自分のことなのに……、幸太郎君の優しさにつけこんで、無理なお願いを……、私が、私が、ううっ……」
「はるか、さん……?」
「ごめんね、幸太郎君。君は悪くないよ、悪いのは私、私、なんだ……」
流れ落ちたはるかの涙が幸太郎に頬に当たる。それでもぎゅっと幸太郎を抱きしめるはるか。愛する人の事故に彼女の存在。辛いのは自分自身なのにこんな状況でも他人を思いやってくれる。
幸太郎は深く深く透き通っていてその深さが見えないほど深いはるかの優しさに触れ、固まったまま涙を流した。
「先輩!! はるかさん!!」
しばらくして幸太郎からの連絡を受けた胡桃が病室にやって来た。
「うそ……」
胡桃がベッドの上で包帯に巻かれた斗真を見て絶句する。そしてはるかと幸太郎の真っ赤な目を見てその深刻さを理解した。はるかが言う。
「胡桃ちゃん、来てくれたんだ……」
「はい……、でも斗真さん、大丈夫なんですか……?」
はるかが斗真の状態を説明する。
胡桃はその説明を目を赤くしながら聞いた。
ふたりはしばらく斗真の病室にいてから一緒に帰路についた。
「斗真さん、大丈夫ですかね……」
病院を出て電車に揺られながら幸太郎と胡桃が並んで座る。ふたりとも表情は暗く会話もない。ずっと続いた沈黙の後に胡桃が口にした言葉に幸太郎が答える。
「うん、命に別状はないってことだから。でも怪我はやっぱり酷いらしい……」
そう言う幸太郎の声のトーンがどんどん下がって行く。
「今日の家庭教師、止めにしますか?」
胡桃が前を向いたまま幸太郎に尋ねる。
「ううん、胡桃ちゃんが大丈夫ならちゃんとやるよ」
「先輩は大丈夫なんですか?」
「うん、大丈夫」
「じゃあ、お願いします」
「了解」
実際はこのままひとりになるのが怖かった。事情を知らない母親や妹ではなく、同じ感情を共有できる誰かと一緒に居たかった。
しかし当然そんな気持ちのままきちんとした指導ができるはずもなく、胡桃に教えながらずっと頭の中には涙を流すはるかの姿が思い浮かぶ。胡桃もあまり話さずずっと言われた問題を解いていた。
(今日はやっぱり止めておくんだったな。生徒に、年下の女の子に俺は甘えちゃって……)
家に帰る電車の中、幸太郎はひとり今日の家庭教師について反省した。
(さて……)
いつもよりずっと遅く帰宅した幸太郎。
心配する母と妹の奈々に「大丈夫」と言って風呂に入り自室に向かう。ちゃんと誤魔化せたかどうか心配であったが、それよりも机の上に置いたスマホを見て『ある事』について悩んだ。
(沙羅に連絡をしなきゃいけないけど……)
同じファミレスのバイトをしている沙羅。
斗真とは実質一回しか会っていないが、彼はバイトチーフ。そして自分は沙羅の教育係。斗真の事故の件は伝えなきゃいけない。
(でも……)
『こーくん』としては何度も何度も連絡はしていたが、『幸太郎』としてはまだやり取りしたことがない。
自分自身はそうは思っていないのだが、沙羅にとって幸太郎はまだ仮の友達を意味する『バイ友』。たった一本の電話を心から悩む。
(ええい、考えていても仕方ない!! これは業務連絡!!)
幸太郎はそう言ってスマホの沙羅の携帯番号を押す。
トルルルルゥ……
幸太郎の耳に響く呼び出し音。
(き、緊張する……)
初めての沙羅への電話。たかが電話でどうしてこうも緊張するのか理解できないほど、幸太郎のスマホを持つ手に汗が滲む。
暫く呼び出し音が鳴った後、沙羅が出た。
「……もしもし」
低い声。
明らかに歓迎されていないのがすぐに分かる。
「あ、ごめん。急に電話しちゃって……」
「何よ?」
幸太郎がゆっくりと落ち着いて斗真の事故のことを話す。
「そう、それは大変だったわね。私は行けないけど、後で何かお見舞いの品を送っておくわ」
「あ、ああ……」
止まる会話。形容し難い沈黙。少し間を置いて沙羅が言う。
「あのさ、一応伝えておくけど、私、ちょっと前にあったパーティーで結婚を申し込まれたの」
(え、結婚? こいつ、突然、何を言って……!?)
いきなりの発言に驚く幸太郎。沙羅が続ける。
「だけどちゃんと断ったわ。全く興味がないの。だから変な勘違いはしないこと、いい?」
「え? おい、何を言ってるのか意味が分からんぞ?」
沙羅が声を大きくして言う。
「意味が分からない? それじゃあダメだって言うの、断ったの?」
幸太郎が慌てて言う。
「ちょ、ちょっと待て。誰もそんなことは言ってない。それより話が全然分からん。ちゃんと筋立てて話してくれよ」
「あなた本当に馬鹿ね」
「いや、それで分かる方がおかしいぞ。何だパーティーって? 何だ結婚って?」
沙羅がため息をついて言う。
「だからちゃんと断ったって言ったでしょ? それとも何? あなたは私があの若社長と結婚してもいいの?」
(わ、若社長??)
更に混乱する幸太郎。
「さ、沙羅。本当に意味が全然……」
「あなた頭のいい学校に行ってるのにホント理解力がないわね。あ、あと……」
罵声と混乱でもはや何も考えられなくなった幸太郎に沙羅が言う。
「私に電話してくる時は、ちゃんと事前に連絡すること。いい? こちらにも心の準備があるんだから!!」
(で、電話する前に、連絡!?)
幸太郎には特に粗相もなかったはずなのに、なぜ沙羅が怒っているのかまったく理解できない。
「そういうこと、分かった? じゃあ切るね。電話、ありがとう」
(え?)
そう言うと沙羅は一方的に電話を切った。
(ええ? ありがとうって……、俺、怒られていたんじゃなかったのか??)
呆然とする幸太郎のスマホに一通のメッセージが届く。
『こーくん、こーくん。ねえ、聞いて!!』
幸太郎は頭の整理がつかないまま、PCの電源を入れた。
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