54.奈々のささやかなお願い
「おかえり、沙羅。バイトはどうだった?」
雪平家に戻った沙羅を、父の重定が玄関で迎えた。沙羅が疲れた顔で答える。
「ただいま、パパ。まあ、予想通りだったわ」
そう言いつつもいつもと違い疲労困憊の顔を見て重定が言う。
「疲れただろう。今日はマッサージ室にお前の好きなアロマセラピストを呼んである。十分に疲れを癒してくれ」
その言葉を聞き沙羅の顔が少し明るくなる。
「そう、嬉しいわ。パパ」
その言葉を聞き、心の底からの喜びを感じる重定。沙羅が尋ねる。
「ねえ、パパ」
「なんだい?」
「今日のバイト先、先にパパが連絡したの?」
「それは……」
口籠る重定。
幸太郎が働くファミレスチェーンの社長とは面識がある。面識と言うよりは、今度雪平グループの一部食堂を、このファミレスの新事業で行うレストランに入れ替えようという計画がある。
つまり雪平家令嬢が『バイトをしたい』と言えば、本人の意思にかかわらずVIP待遇をされてしまう。重定が言う。
「ああ、悪いと思ったがあそこの社長に連絡をしておいた。まずかったかな?」
「いいえ、ちょっと気になっただけだから」
沙羅にしてみれば万が一面接に落とされたら面目丸潰れだし、とりあえず今日一日幸太郎の前でバイトをして見せたので満足であった。
「じゃあ、シャワーを浴びてセラピストのところへ行ってくるわ」
「ああ、ゆっくり疲れを取っておいで」
沙羅はそう言うと自室へ向かった。その背中を見ながら重定が思う。
(あの何に対しても無関心だった沙羅が、まさかバイトがしたいと言うとは本当に喜ばしいことだ。まだ子供だと思っていたが確実に成長している。そして我々だけでは決してできなかったこの変化。幸太郎君が来てから本当に良い方向へと変わった)
重定は何度も頷きながら自室へ戻って行った。
『こーくん、こーくん、ねえ、聞いて!!』
その夜、恐らく来るだろうと思っていた『サラりん』からのメッセージに幸太郎が答えた。
『こんばんは、サラりん』
『こーくん、さらりんね、お話したいことがあるの』
本当に『サラりん』になった時は別人だと思えるほど素直になる。
『サラりんね、今日からバイト始めたの。ファミレスの』
『へえ!! それはすごい!! サラりんは自立した女性なんだね!!』
『そうでしょ、そうでしょ、もっと褒めて~!!』
幸太郎は苦笑しながら書き込む。
『サラりんすごい! サラりんはできる女! サラりん可愛い! サラりん最高!!』
書きながら自分自身へも恥ずかしさを感じる幸太郎。
『ありがとう、こーくん!! やっぱりサラりんはこーくん無しじゃ生きられないよ!!』
サラりんからの返事を読みながら、今日ずっと皿洗いをしていた沙羅の姿を思い出す。
『今日は疲れたでしょ?』
『うん、疲れたよ。バイトの教育係ってのがいてね、とーっても意地悪で、サラりんに皿洗いばかり命じるんだよ。サラりん、一生分のお皿、洗っちゃったよ』
無言になる幸太郎。
あの程度で『一生分』だとか本気で言っているかどうか分からない。
『そうか、サラりん、頑張ったね!!』
そうは思いつつも今は『こーくん』を完璧に演じなければならない。
『うん、頑張ったよ! 疲れたんで今日はアロママッサージを二時間受けてきた。もう大丈夫!!』
たったバイト一日で……、そう思いつつ幸太郎が書き込む、
『サラりんのこと、応援しているよ!!』
『うん、ありがと!! あとね、ちょっと報告があるんだけど……』
幸太郎がそのメッセージを見てから書き込む。
『なに?』
『えっとね、バイトのシフトの連絡の関係で、その、サラりんの連絡先をあの男に教えちゃったの……、これはね、別にサラりんがあいつのこと思っているとかじゃなくて、仕方なくね……』
幸太郎はPCの画面に映るサラりんの言葉を見ながら、机の上に置かれた自分のスマホを見つめる。
(沙羅と個人的な連絡ができるようになったんだよな……)
『うん、分かってるよ。俺はサラりんを信用している。サラりんの決めたことは全部応援するよ!!』
『ありがとう、こーくん!! やっぱりサラりんはこーくんが大好きだよ!!』
幸太郎はサラりんとのメッセージのやり取りをしながら、バイト初日を終えた沙羅のことを心の中で労った。
「ねえ、お兄ちゃん!! どうしてこんなに朝早くから出掛けるの? 誰と会うのよ!!」
幸太郎はその日曜日の朝、朝食を終え出掛けようとして妹の奈々に呼び止められた。奈々のトレードマークのポニーテールが左右に怒りを表すかのごとく揺れる。
「ああ、別にいいだろう。ちょっと帰りは遅くなるかも……」
奈々の顔が怒りに染まって言う。
「せっかくのバイトのない休みなのに、どうして奈々と遊んでくれないの!! 誰と会うのよ!? まさか、女??」
今日は胡桃と会う日。
いつも鋭い奈々の直感に驚きながらも、男と女しかいないことを考えれば半分の確率で当たることなど動揺した幸太郎に思い付くはずもない。
「いや、その、なんだ……」
その躊躇いが奈々に伝わる。
「あー、やっぱり女なんだ!! お兄ちゃん、そんな軟派者だったの!!」
「軟派者って、おい……」
妹の頭の回路が理解できない幸太郎。奈々が言う。
「奈々とずっと一緒に居てよ!!」
「一緒に居るだろ。夜もずっと同じ家で寝てるじゃん!!」
奈々がぷっと頬を膨らませて言い返す。
「同じ布団じゃないでしょ!! それじゃあ同じとは言えないんだよ!!」
「妹と同じ布団で寝る奴がどこにいるんだよ!!」
奈々が答える。
「寝てたじゃん、昔っ!!」
幸太郎は幼い頃一緒に寝ていたことを思い出す。
「あれはちっちゃい頃だろ? 今はそんなことできる訳ないだろ!!」
幸太郎は今、大人の女性と遜色なく育った奈々を見て言う。
「できるよ!! 奈々は全然気にしないよ!!」
「俺は気にする!!」
さすがにどれだけ頼まれてもそれだけはできない。その一線は越えられない。
奈々のポニーテールの動きが止まる。そして下を向いて寂しそうに言った。
「どうして通じないのかな。奈々の気持ち……」
「奈々?」
「もういいよ。気を付けて行って来てね、お兄ちゃん……」
奈々はそう言うと背を向けて自分の部屋へと帰って行く。幸太郎は大きな溜息をつきながら奈々に言った。
「奈々」
奈々が背を向けたまま答える。
「なに?」
幸太郎が言う。
「今晩一晩だけだぞ。一晩だけ、いいな?」
「え?」
奈々が嬉しそうな顔をして振り返る。ポニーテールが大きく左右に揺れる。
「それって奈々と一緒に寝てくれるの? 朝まで?」
「あ、ああ、仕方ない。お互い体に触れないこと。そして一回だけ、いいか!!」
「やったーーー!! お兄ちゃん、大好きっ!!!」
そう言って奈々は走りながら幸太郎に抱き着く。
「わ、馬鹿。よせ、お前!!」
「お兄ちゃん、大好き!!」
そう言ってぎゅっと抱きしめて来る奈々を、幸太郎も半ば諦めの気分で抱きしめる。
(俺の一線ってこんなに脆いものなのか……)
幸太郎はやはり大切な妹のこととなるとどこまでも甘くなってしまう自分を、自嘲気味に心の中で笑った。
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